正体2
崎谷に連れて来られた森は瞬く間に熱帯のような物々しい暑さに支配された。人間なんて場違いもいいところで、ここで死んでも言い訳なんか出来ないだろう。蝉が天下のBGMを奏で、脱水症状に陥る未来がチラチラ見えている。崎谷はちゃんとここに戻ってこられるだろうか。当てもなく森をさまよっても脱出できないだろう。
「ぅわっ!」
目の前をスズメバチが横切った。恐怖の王とでも名付けてやろうか? 身を低くして木を背にしてじっとした。こっちから手を出さなければ大丈夫だよ! なんて湯宮から言われたことがあるけど、嫌な感じだ。去ることを願っていたのに、願いというものは往々にして聞き届けられない。次から次へとスズメバチが集まってきて俺を囲むように飛んでいる。しかし眼前に集結し、人の顔と言えなくもない形を取った時、どうやらこれも一連の人知を超えた出来事の一端らしいと察しがついた。
「刺客を倒したようだな~」
顔は喋った。ブンブンやかましい羽音を掻い潜って、ガラガラした声(音?)を発した。
「二人とも君は手にかけなかったが、ラッキーガイってことにしてやろう。しっかしあの女、見事に君を巻き込んだな、え? ほっときゃいいのによ。しかもなぁ、魔神同士は絶対に近づいちゃいけないんだよ。僕の崇高な文化奉仕にたてつく資格あいつにゃないんだよ。と、違う違う。何であれ生存したんだから君には褒美がなきゃならない。褒美は忠告だ。月曜日は大学に行くな。後悔するぜ」
それで役目を終えたのか、顔は地面に落下した。蜂は全部死んでいた。黄色と黒の死の絨毯。なんというおぞましさだろう。この大量の蜂の死骸が俺の行く先を暗示しているような気がした。俺は状況に流されている。何もせずに手足を縛りあげられている。蜂の頭の一つを指でぐしゃりとすりつぶしながら、自分の中の何かが切り替わるのを感じた。
全神経がマヒしている。健全な思考などあるだろうか? 俺は何もしていない。事の原因に俺はいない。この蜂の死骸を食べよう。もしかしたら俺も毒針が出せるようになるかもしれない。砂の魔神だか電気の魔神だか、ならば俺は毒の魔神にでもなってみようじゃないか!
「お待たせ!」
砂嵐を呼ぶ女が立っていた。何が嬉しいのやらニコニコと、気色悪い。この蜂の山が目に入らないのか? うむ? 立てない。もう一度……今度は立てた。大丈夫、正気を失ってはいない。正気と同じくらい、狂気が顕在化しているに過ぎない。白くて美しい、砂で造られた首を右手で掴んだ。崎谷は驚いたらしい。
「人間じゃないなら、人間と同じ方法じゃ死なないんでしょ? 俺は夢だと思ってたけどさぁ、夜、君を殺したのは夢じゃなかったんだろう?」
だんまりか。だんまりなのか。それは答えたも同然なのだと知っての事か?
「俺はラッキーガイだなぁ。殺し屋は君が殺してくれたし、朦朧としながら人殺しをしたと思ったらあんたは人じゃなかったんだぜ!? あぁ、もしかしたら俺自身が地獄の仏なのかもね。そう思わないか」
そのまま力を込めて持ち上げ、蜂だったものに叩きつけた。人の形をしたままの崎谷は呆気に取られているようだった。そんな顔をしたいのはこっちの方だと分かっているはずなのに。もう蜂なんて視界にはない。しゃがみ込んで崎谷の顔を覗き込んだ。やはり造り物らしくない自然な人間の、それも美人の顔。左頬に手を当てるとその感触も砂とは思われない。
「愛してるよ、崎谷美希。どうせ本名じゃないだろうけど。それでどうだった? 銃は返せたのかい?」
「佐久間くん、どうしちゃったの……? 落ち着いてよ……銃は返せたよ。あの死んだ刑事の様子がおかしくて、逃げ出して私が匿ったことにしたの。だからこれから警察に」
「そう。悪いけど先にオゼのところに連れて行ってくれよ。どうせ居場所は分かってるんだろ?」
「な、なんでよ!」
「俺の不幸の元凶を断つんだよ。だから今はお前が必要だ、今はね。さぁ、さぁ、さぁ! さぁ!!!」
やたら悲しそうな砂の擦れる音が耳にかかり、俺を包んだ砂の風が森を飛び出した。