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あざみと稲妻

作者:

 雷が苦手な妻を抱きしめてベッドにいる。普段は寝室を分けているのだが、まだ光も見えないほど遠くでゴロゴロ鳴り始めたころから妻の表情がみるみる固くなってきたので、「栞ちゃん今日一緒に寝てよお」と甘えてベッドにひっぱりこんだ。頭が良くて仕事ができて声がきれいで素敵な妻はもちろん俺の意図くらい分かっていて、電気を消してくっついていると額を俺の首筋に擦り付けて「ありがと」と囁く。はい可愛い。俺は「なーにがー?」ととぼけてみせるのが仕事。

 指先を握って口付ける。ジェルネイルの固い感触。暗いから見えないけど、そこには細密画みたいな写実的なタッチで野の草花が描かれている。栞ちゃんが仕事の気合いを入れるためと言って何千円だか払って描いてもらいにいった絵。こんな小さい爪にこんな小さい絵を描いてそれを商売にしてる人がいるなんて不思議だ。人差し指はアザミだったかなと思いながらもっかい唇をつけて、あとはぎゅっと抱きしめる。栞ちゃんが窓に背を向けているのを正面から抱きしめているので、俺は自然とカーテンの隙間に顔が向く。全然眠くない。だいたいなんで寝室を分けてるって、会社勤めの栞ちゃんと不良専業主夫の俺は生活時間が合わないのだ。だから雷が近づいてきてぴかぴか光るのをじっと見ている。ゴロゴロという感じだった音はズン……とかドンゴロドン……みたいな重い音に変わってきていて、胸の空洞に響く。

「何か話して」

 栞ちゃんが囁く。うーん何を? と思うと結構近くにドーンと落ちて栞ちゃんがビクッとする。そのビクッを抑え込みながら「えー、むかしむかし」と俺はとりあえず語り出す。

「むかしむかし……俺が虫だったころ」

「虫?」

「うん。古本めくってると赤い点みたいな虫が出てくるでしょう?あれ」

「あれだったんだ」

「そうなの。神田? の古本屋街のどっかで売ってる文庫本の中で暮らしてたのね」

 雷が光る間隔がすごい狭くなってきて、誰かが巨大なカメラでシャッターを押しまくってるみたい。これ結構何年に一回とかの雷じゃない?

「古本の中で生まれて古本の中で育ったから外のこと全然知らない。古いフォントで湖の景色がどうとか書いてあるんだけど文字の周りをうろうろするばっかりで、全然意味分かってない。でもそれが世界の全てだから何周も何周も本の中を歩き回って書いてあることをみんな読んだ。世界を知ろうと思って」

 窓の外側が一瞬真っ白になったと思ったら一秒以内にかなりの轟音が響いた。俺の体の震えと栞ちゃんの体の震えが一致する。栞ちゃんの体に手を回しなおして、後頭部を撫でる。二人とも汗ばんできたけど離れるわけにいかない。なんでもないような声のまま続ける。

「ある日その古本が誰かに買われて、長いこと揺さぶられたんだ。たぶん移動したんだなってことは分かるんだけど、バッグの中に突っ込まれてるから全然状況はわからない。静かになったりやかましくなったりする。なにぶん虫で体が小さいからちょっとの振動もすごい感じるわけ」

「うん」

「急に明るくなって本が取り出されたのが分かる。本が開く。ページの隙間から這い出してみると、湖畔なんだ。青い静かな水面が見える。もちろん最初はなんなのか分からない……でも、世界を歩き回って何度も読んだ、あの湖だ、これがそうなんだって突然分かる。本の持ち主がピクニックかなにかに持ってきたんだね」

「湖なの? 海とか池じゃなくて?」

「湖だったと思うな。本はそのうち地面に下ろされて、柔らかい下草が生えてるらしかった。俺は恐る恐るあたりを見渡して、青紫の花に気づく。アザミだよ」

 栞ちゃんの少し湿った髪を撫でる。ベッドの足元側にある換気口から涼しい風が吹き込んでくる。

「俺は文字しか知らなかった。目の見えない人が世界を触って覚えるように、俺はひとつひとつ確かめる。ああ、これがアザミなんだ、世界は本当にあったんだって」

 俺たちはしばらく黙っている。栞ちゃんが俺の好きなすっきりした声で「それで?」と聞く。

「それでおしまい。虫の俺はしばらくして死んだ。俺が水辺が好きなのは、そういうわけ」

 雷はいつのまにか止んで、雨の音と匂いだけが部屋を満たしている。そういえば、俺も雷は得意でないのだった。

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