はだしの子供
座敷童は迷っていた。
もう、この家は見限った。
しかし、未だ出ていけなかった。
ひとりぼっち。
座敷童はそういうものだ。
子供の頃に見えても、大人になる前になると見えなくなる。
外に友達が出来れば、それに夢中になり忘れられてしまう。
大人に見付けられると、座敷童は怖がる。
庄屋の座敷童は、商売繁盛を目的にし、なま臭い坊主に捕まって、座敷牢に入れられた。
座敷童は遠い昔、この家を選んだ。
小さな家から、大きな屋敷へと代を重ねるごとに大きくなっていった。
今の気になることは、起き上がれなくなった家の主だ。
「主よ。子供に戻ったか」
ここの家は江戸時代初期から続く餅屋である。
なので毎日、仏壇と神棚とその下に座敷童用のお膳があり、それぞれ餅や大福が供えられている。
そこのおかみさんは、座敷童が居る事を信じずに、時折、朝のお供えの時に
「はい。神様。はい。仏様。はい。座敷童様。って、本当に居んのなら、おとっつあんの病気を治してくださいよ」
と、愚痴を言う。
この家の家長の親父様は、長年の甘食いがたたり、殿様病になっていた。
その昔には、この親父様も赤ん坊の頃は我があやして泣くのを止めていたのだ。
頭の血が止まり寝たきりになり、足指が腐り落ち目が見えなくなった壮年の男の額をなでる。
鬢が随分後退しているな。年齢よりも、年寄りに見える。
しかし、元気な頃は働き者で物知りで、今日は雨が降るから餅の水分は少なく。などの店の事だけではなく、あそこの山に霞がかかると今年は松茸が捕れるぞ。
など、いろいろな情報を家人だけでなく村人にも伝えていた。
雨が続いたある日、鉄砲水が来ると村中を走り、高台に逃げさせた。
川沿いの家は何件かは、流されてしまったが、死人も行方不明者も出なかった。
後々聞いたら、川の濁流の中に木が入りだしたら、危険なんだと村人に教えていた。
川沿いの家は、畑も持ってないような貧乏人ばかりなのだが、それらのために危険を知らせてくれたため、彼らは餅屋の主人にずっと恩義を感じていた。
それらを教えたのは、座敷童なのだ。
沢山の子供に、それらを伝えたが覚えていたのは今の主だけである。
自分の姿が見えなくなっていても、我との時間は覚えていてくれた。
それが座敷童にとっては嬉しかったが、その子供が大人になって、老人になって床から起きれなくなってしまったのが悲しかった。
だから、言ったではないか。
餅屋だからと言って、毎日まんじゅうを喰うではないと。
哀しいかな。我に病気を追い出す力はないのだ。
なぜに、お主の女房は、我が全てを統べると考えておるのだろうな。
我があやしたお主が、そんな姿なのは、子供神の弱い姿のせいだろうか。
商売繁盛や子孫繁栄を与える神だと言われているのにな。
息子は嫁御をとったぞ。
宴は聞こえていたか?
なぜ、お前が隠されるように奥の部屋に、行かねばならなかったのだろうな。
嫁御は、箱入りだったせいもあってか仕事には嫌な顔をするのだ。
お前の女房が、ちと煩かったな。
姑とは、そういうものなのだそうだ。隣の婆が宴で言っていた。
なに?身体が苦しいと?
背中をさすってやろう。
寝たきりの男を横向きにし、背中や足をさすってやる。
誰かが見ていたら、寝たきりの爺がごろりと横に転がるのを見ただろう。
「ううう・・・ううう・・・・」
男が、言葉にならないうめき声を発する。
この男の耳には届いておるのだろうか。
今の状況をどう感じているのだろうか。
主の思いは我には分からない。
言葉を言えなければ、家人も誰にも分らないのだろうな。
もう片方も、横にしてさすってやる。
「ふうう・・」
満足そうなため息を、横たわる男が発した。
「そうか、もういいか」
元通りの仰向けにし布団も整えた。
閉じた瞼から、涙が一筋流れ出た。
「辛いか」
聞こえないであろうと判っていたが、言葉に出してみた。
10歳くらいまでは一緒に遊んでいたが、それ以降は忘れられ見えなく聞こえなくなった。
「うう。うう」
返事だろうか。
寝たきりの男が、涙を流して強く息を吐いた。
頭が閉じてしまい、見えず聞こえず声も出ず心もなくし寝たきりになったと医者は家人に言っていた。
しかし傍にいると、唸り声や、息遣いで意志があることが判る。
そのうえ、昔に忘れた我の声まで届いたか。
脳が血に染まったことで、大人の脳が死に、子供の脳が残ったのかもな。
我は何代もこの家を見てきたが、力及ばず主を苦しめて本当にすまないのう。
座敷童と祀られていたが、子供神は姿のままに脆弱なのやも知れぬ。
今まで商売繁盛と家族の命は守ってきたが、このような身体が動かないままで、生きているのを見るのは初めてだった。
そうして家人の誰も、もう意識がないと思いこんでいるが、実際は意識があるようで座敷童の声も届いているようなのが不思議だった。
「のう、庭の柿を一緒に喰ったのを覚えているか?」
「お主は我の分まで捕ろうとして上の枝を目指し、落ちてしまった事があったなぁ」
主の頭を撫でながら座敷童は昔を思い出した。
「待ってて。僕がとってきてあげる!」
子供は、座敷童に呼び掛けて、止めるのも聞かず柿の木に登った。
もいだ柿の一つを投げてよこし、もう一つと、手を伸ばしたときに子供は足を滑らせた。
真下に居た座敷童が、慌てて柿を投げすて、落ちた子供に手を伸ばし抱き留めた。
顔が間近にあり子供の見開いた瞳に自分が映っていた。
座敷童はそこまで人間に近づいたことはなかった。
子供は驚き少しだけ泣き、すぐに笑い出して自分が落ちた時の様子を話し出した。
柿は半分ずつ食べた。まだ固いが、甘く美味しい柿だったのを覚えている。
一緒にたくさん遊んだ。優しい子供だった。
楽しい時間だった。
聡い子で座敷童が大人には見えないという事にすぐに気付き、その後はこっそりと遊ぶようになった。
新しいおもちゃを与えられた時には、すぐに一緒に遊べるように家の裏に持ってきた。
そして、必ず大福などの菓子も持ってきて、一緒に食べたものだ。
それは、それまでで一番長く10歳まで続いた。
10歳になってしばらくした頃に、さっきまで遊んでいたのに
「あれ。座敷童?」
と自分を通り越して、少し遠くを見た。
ドキン。
悪い予感がした。
「あれ?座敷童、どこに居たの?」
もう、少年の瞳は自分を捉えている。
ほっとしたが座敷童は、この少年との楽しい時間が、終わろうとしているのを知った。
視線が自分を通り越すのが、何回か続いた後、少年は座敷童が見えなくなった。
「ねえ、座敷童。どこ?」
すぐそばにいる座敷童を見ずに、各部屋を走り回って探した。
「ねえ」
「ねえ!どこにいるの?」
「おや、どうしたんだい?」
親や屋敷の使用人に問われても、何も答えられなかった。
ただ、見えなくなった事実を実感して涙をこっそり流した。
子声で囁いた。
「ねえ。座敷童。いつかまた会えるかな?」
その言葉にすら、横に居る座敷童は応えることが出来なかった。
見えなくなったと同時に、少年と一緒なら菓子やおもちゃなど一緒に動かして遊んだが、それらも出来なくなっていた。
「見えなくても、この家に居てね。座敷童」
その言葉を最後に、少年は誰も居ない時にも座敷童を探すことは無くなった。
それが、脳の血が固まり死んでしまって寝たきりになった今になって意思の疎通が出来るようになったか。
家人は、寝たきりになった主人の扱いに困っている。
少し前の会話で、土蔵に閉じ込めてしまおうという話も出ていた。
山に捨ててしまおうとも言っていた。
座敷童の震えるこぶしに涙が落ちた。
なぜなのだ。
今まで、誰より率先して働いてきたではないか。
店をここまで繁盛させたのは、主ぞ。
息子よ。お前を厳しくも優しく導いたのは誰ぞ。
お前は母親の言うことを信じ、我の存在を居ないと認識し、最初から我を見ることはなかったな。
おかみよ。お前の冷たい物言いと厳し物腰で傷付く者たちの、怒りや悲しみを誰が癒していったと思っている。
嫁御よ、お前の気位の高さを「若くて何も染まっていない」と使用人の前でお前を褒めたことで、使用人の気の持ちようが変わったのが判らぬのか。
皆、主人ではないか。
主人の看病なら、我がやっておるだろう。
下の世話をし、下帯を洗っているのは我ぞ。
お前たちが横に置いたままの粥を喰わせているのは我ぞ。
使用人の「誰か」、家人の「誰か」ではないのだ。
お前たち、一人一人がやらなければならぬことなのだ。
家人の誰もが、「誰かがやっている」と思っていた。
おかみは嫁がやっているものと、
嫁はおかみがやっているものと、
息子は、母親か嫁のどちらかが、やっているものと。
そして、誰もやっていなかったのだ。
決して、親父様に無体を敷いているとは思ってなかった。
しかし、誰もが親父様に関しては、考えることを放棄していた。
いや、本当は分かっていたかも知れない。
枕元に置いた粥が減るのはなぜか、下帯が洗われているのはなぜか、
しかし、それらから目をそらし続けている。
「座敷童殿」
頭上から呼ばれて仰ぎ見る。
大黒天のお札が座してらした。
「ザシキワラシドノ。オンマエニ、イズルコトカナワシ。イエモリノ、カミカラ、イズルト?」
気付いてはいた。
怒り、悔しいという念。
それらが、座敷童を座敷童、家の守り神でない者にしていると。
普通ならば、去ればいいだけの事である。
座敷童の去った家は没落し、離散するだけである。
しかし、病んだ親父殿が哀れで離れられなかった。
そして、座敷童は神ではなくなってしまった。
「おん まかきやらや そわか 大黒天様、この家に不幸を招くことをお許しください」
座敷童だった子供の悪神は、寝たきりの親父殿の傍に膝をついた。
「のう、もう寝飽きたろう。我と外に遊びに行こうぞ。その身体は置いてな」
「うう。うう・・・ん」
親父殿も解かっていた。
しかし自分が去ることで、座敷童と去ることで家が持たなくなることを。
なので、肯定は出来なかった。
嫁や息子が、自分の世話の一つも出来なかったのは、自分がかけてやれる愛情を間違えたせいか。
自分が思うほど、好かれる爺にはなれていなかったのか。
考えるのは、後悔ばかりである。
もっと、優しくしてやればよかったのか。
いや自分では、大事にしてきたつもりだったが、独り相撲だったな。
悔しく自分が哀れで、涙を流し拭うことも出来ないこともまた悲しかった。
涙をぬぐう感触が頬に当たる。
まだ、そばに居てくれるのか。
いや、いつかの約束通り、ずっと居てくれたのだ。
シュタッ。
障子の開く音がした。
この足音はおかみだろう。
「全くどうしたもんかねぇ。山に捨てるにも、人手が足りやしないし。川に落とすも、あの辺の住人に見られでもしたら、何されるか分かったもんじゃない。なんで、さっさとポックリ逝ってくれなかったのかねぇ」
親父殿には、おかみが髪を撫で付けながら言っているのが簡単に想像できた。
ため息を吐いたところで、子供の声が叫んだ。
「なぜに、その様な惨い事が言えるのじゃ。
お前が不自由なく生活できるのは、親父殿がずっと仕事場に立ってきたおかげではないか。
息子も娘も立派な祝言をあげられたのは、お前が使い切ってしまっていた金とは別に主どのが置いといたからであろう。
お前は、この家に何を与えたのだ。
気立ての良い娘は褒めてやるが、気の弱い息子は親父殿を厭う嫁も諭すことが出来ないではないか。
お前は愚痴ばかり言うて働きもせず、身体が弱いと嘯ていたが、ただの穀潰しだ。
いや、無駄遣いばかりしよって裏から小物屋やら呉服屋を入れて、挙句はそれらと交わるとは獣以下だ。
親父殿は、お前を大事に思うておったのに」
届かない子供の高い声は、次第にしゃがれた恨み声になった。
そうか、座敷童は全て見ていて、それでも傍に居てくれたのだな。
「ああ、なんだろうね。病人の部屋は頭が痛くなるよ」
おかみが去っていく。
自分の足元で、声を枯らした子供がしゃがれた声のまま泣き声を張り上げている。
どんどんと、足か手で打つ音がする。
座敷童が、儂のために床を打って泣いてくれているのか。
昔過ごした座敷童との日々をはっきりと思い出した。
そうだ。
一緒に笑いあった。
柿の木に登ったな。
そして、足を滑らし落ちてしまった事があった。
受け止めてくれた座敷童の瞳は、大きく黒く澄んでいて光がちりばめてあるようだった。
足元の泣き声が、子供の泣き声ではなく、しゃがれた恨みを放つ唸り声になってきた。
儂が子供の頃を思い出したのに、座敷童は別のモノに変化しようとしているようだ。
ああ、それは、儂のせいか。
儂の代わりに泣いて恨んでくれていたのだな。
座敷童の姿を思い出すとともに、自分の昔の姿がよみがえる。
もういいか・・・
主は、
「ううっ」
と座敷童を呼んだ。
「どうした。泣かんでいい。
あんな女、もう少しすれば、我が鬼になり喰ろうてやる。
息子も、嫁も、散々お前が良くしてやった使用人たちも、全部、頭から喰ろうてやるぞ!」
主は、そっと横で泣いている子供の手を取った。
「えっ?」
驚いて見ると、するりと、魂が子供の姿で身体が抜けようとしていた。
座敷童が、いや、座敷童だったものが、慌てて顔を見降ろした。
子供の姿の主の目が再び開いて、目にしたのは、小鬼の顔で獣のように縦に光る瞳だった。
「座敷童。もう泣かないで。僕と行こう」
「我は、もう座敷童ではなくなった。呪う悪鬼になり下がった」
「うん。ごめんな。ありがとう。でも、また一緒に遊ぼう。ここから出よう」
にこりと笑う、昔の主の子供の姿。
その手を握る我の手は、黒く爪は烏のように尖っている。
「喰わんで良いのか?
目にものを見せんで良いのか!我がやってやるぞ!
お主の苦しみを身をもって分からせてやろうではないか!
今の我にはその力がある。今の我は、子供の姿の脆弱な神ではないぞ」
小鬼は叫んだ。
不意に首に抱き着かれた。
「へへ。くっ付いたのは、柿の木から落ちた時以来だね。ねえ。走りたいな。すっごく走りたいんだ僕」
「良いのか?」
子供が笑って、手を差し伸べた。
小鬼が手を取ると、ふわりと姿が光り、角がとけ、牙が消え、瞳が黒く澄んだ子供の姿になった。
同い年くらいの男の子二人は、笑いながら走り出した。
開いている襖から、縁側に裸足のまま外に出た。
田んぼのあぜ道を一緒に走った。
村の道も風のように走った。
座敷童は、何百年も家から出たことはなかった。
外を自由に走った。
隣には、笑顔の子供が居る。これは、我か?いや、親父か?
いやもう親父などではないな。
可笑しかった。体も軽い。
田んぼの青い稲も、風になり、かき分けた。
隣の子供も同じ気持ちだ。
二筋の風が、一つになり、つむじ風のように山へ向かった。
風の後ろには子供の笑い声が響いて、山々に木霊し消えた。