01 呪われ少女
異世界物の新連載です。
全10話を予定しています。
「おじさん、ぼくを買ってもらえませんか?」
狭い路地裏で、ぼくはなんとか声をひねり出して、目の前にいる男の顔を見上げた。
時は夕暮れだ。
土が出たままの路地に、光と影が複雑な形を作っている。
ぼくの前には見上げるほどに大きい、そして体格が良い…というよりでっぷりと太っている男だ。顔は中年に差し掛かっているように見える。
ここでなら、誰かが一人で通りがかるだろう。ぼくはそう思って待ちかねていたのだ。
「なんだ? 何かの遊びなら他を当たってくれ。お嬢ちゃん」
「遊びではないです。もう時間がないのです」
声は染み入るような、バリトン。きれいな響きがぼくに向けられている。
男は目線を合わせるように、しゃがんでくれた。目つきが鋭いが意外に優しいのかもしれない。
路地がみるまに赤みを増してきた。もうすぐ日が沈んでしまうだろう。ずいぶん待って、やっと一人で通りがかった人だ。ぼくは必死に食い下がるしかなかった。
「訳ありか。買うのはいいが、なにをしてくれるんだ?」
「なんでも、します。なんでもしないといけないんです」
「女の子の何でもしますは、つらいめに遭うぞ」
そんなことは分かっている! と返しそうになってしまった。
今日一日の出来事でも、殴られたり、蹴られたりとさんざんだったのだ。
身なりがきれいであれば、口では言いにくいような事も強要されていただろう。
そんなことを考えていると、ぼくの顔からぽたぽたと大粒の涙が落ちているのが分かった。
「急いでいるんだな? 条件を言え。お金の事や、自分がしてもらいたい事だ」
「日が沈みきる前に、ぼくのくびを、その、強く噛んでください。血が出ないとダメなのです」
「その後でなら、おじさんの言うことを何でもします。お金も要りません」
いつからか夕日が落ちると、身のうちを雑巾のように絞られる痛みに襲われるようになった。
ぼろきれのように転がり、帰る家も思い出せず、何日こうしているのかも分からなくなっている。
ただ、それを止める条件だけは、頭の中にこびり付いていた。くびを強く噛まれて血を流すこと。それがどんなにバカらしくても、ぼくにはすがるしかなかったのだ。
こうしている間にも、周りがどんどん暗くなってきている。これはダメかもしれない。この人が最後のチャンスだったのだ。あの痛みが来てしまう。見えない大きな手が容赦なく、ぼくを締め上げるだろう。
前触れの悪寒が、ぼくの体をかけ抜けていく。
痛みに耐えるために、自分から目を閉じた。やがて見えない手がかざされて、それから…。
「……っ。これでいいのか? ふむ。酷い感触だな」
「ふあ」
少しだけちくっとした。でも、あの激しい痛みはやって来ない。あは、あはは。ほんとうに止められたんだ。
おじさんはぐっと噛んだ後、ぼくの首についた痕をさすってくれている。
ぼくは嬉しさのあまり、おじさんの大きな胸に抱きついてしまった。おじさんは背中を支えてくれている。本当に優しい人だな。でも女の子のくびを噛んで酷い感触とか言うのは、ちょっとヒドイ気もする。
「お前さん、帰る家はあるのか? その格好も酷いぞ」
「ないです。ごめんなさい」
「謝るな。まあいい。何でも言う事を聞くのだったな」
ぼくはこくこくと肯定すると、おじさんに抱っこされた。これはお姫様抱っこと言うやつだろうか。
のしのしと歩きながら、お前を拾う事にする、私のことはお兄ちゃんと呼べ、などと言いだしたのだ。
◆
おじさんの名前はマイルという。歳は42で中年と言うより隠居も視野に入るような年齢だった。
中年顔と思っていたが、実際は年齢より10ほど若く見えたという事だったのだ。
マイルは冒険者をしていて、剣と弓で魔物を狩って生計を立てていると言った。
「だから、お兄ちゃんと呼べ」
「マ…おにいちゃん」
おにいちゃんは、よしよしと優しく俺の頭を撫でた。
一人称が変だって? いやいや少女姿の自分が、俺というのはちゃんとした訳があるんだ。
拾われたすぐ後、水浴び場でごしごしと洗われた俺は、マントにつつまれて宿屋に入った。
マイルが女将に何事かことづけをすると、あてがわれた部屋に老いた司祭がやってきたのだ。
「健康体。女性。歳は12。魔力持ち。持病や欠損も無し。しかし、呪いがある」
「条件を満たさないと、日没時に一歳巻き戻る。一年分の記憶は失われないが、簡単に思い出せなくなる」
「解呪は…進行しているため難しいだろう」
この時のマイルが見せた、苦虫を噛みつぶしたような顔は、ずっと忘れられないだろう。
「それでは条件が満たされないままだと、12日後には命がなくなるのか?」
「五歳まで巻き戻ると記憶も曖昧となる。まともな行動も難しくなるだろうよ」
二人の視線を受けて、毛布の中で縮まってしまった俺は悪くないと思う。
少し良い事もあった。この時の老司祭の魔法のせいか、いくつか思い出す事が出来たのだ。
元の歳は16。成人した男性だった。
この姿になってから、別の誰かに優しくされた事がある。
この街に来た時は一人だった。
しかし一つめ以外は、断片的過ぎて意味が分からなかった。
結局、なぜ性転換したか不明だったが、呪いと混ざって進行したので、いろいろと複雑化したのかもしれない。
現状で四歳巻き戻っているなら、四日前に呪われた事になるが、その記憶もぼんやりとしたままだった。
それでも元は男だった事がわかり、心の中で俺と自称するに至ったという訳だ。
結局マイルには、男性だった事や16歳だった事については伏せてある。
なぜって? それはとても恥ずかしいからだ。
マイルの奴、事あるごとに俺の頭を撫でてくる。困った事に、奴の撫でかたは一級品だった。
奴に撫でられると、意識が飛んでしまうレベルなのだ。
「お兄ちゃんが付いているからな。安心していいぞ」
「ひゃい」
俺は今、奴の膝の上で再び撫でられようとしている。
16歳の男だった意識が、モウヤメテと叫んでいた。
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