海辺の貴婦人
読んでいただけた方に限りない感謝を
その貴婦人は、目の前に広がる海を眺めていた。
潮風が頬を撫で、彼女は数々の思い出を振り返る。
彼女の人生は、男たちの我儘にに翻弄され続けたものだった。
彼女はある一族の代表となるべく育てられた。
その仕事は、旅をする人々に最高のサービスを提供するというものだった。
一族の顔となる娘には最高の物をと、彼女は数々のトップデザイナーによる特注の物で飾り立てられていた。
彼女は、デビュタントの時を思い出す。
作ってもらったばかりの真っ白なブラウスに、黒いドレスの裾には赤い生地があしらわれ、髪には家格を誇るように黒い縁取りの赤と白のリボンが揺れていた。
「こんな別嬪さんは見たことがないよ! 」
そう言って一族に連なる人達が彼女の姿を見て驚きの声を上げる。
彼女の身体を慈しむように美しく磨き上げた人達だった。
初めての社交界は、彼女の目に新鮮に映った。
「ごきげんよう。」
そう言ってすれ違う他の国の貴婦人や令嬢。聞くところによると女王さまもいらっしゃることがあるらしかった。
彼女も失礼に当たらないよう気を付けながら、挨拶を返す。
初めての社交界デビューに緊張をしていた彼女は、たくさんの地元の人々に送り出されていた。
彼女が令嬢として挨拶をすると、その美しさに見惚れていた人々から、ワァと言う歓声が上がる。
「私は一族だけでは無い、国を代表する顔なのだ。」
彼女は思う。だから一つのミスも無くデビュタントを済ませる事が出来たのだった。
*
彼女は三姉妹の長女であった。
そのほっそりとした彼女たちの立ち姿は、社交界では予ねてから噂となっており、長女であった彼女を一目見ようと、彼女が着く席の周りには大勢の人たちが集まっていた。
彼女が白いカーテンの向こうから姿を現すと、集まっていた人たちがざわめき始める。
彼女が挨拶をすると、こちらでも人々から歓声を持って迎えられた。
しずしずと進む彼女は、小さな娘たちに手を取られて席に着く。
その姿に息をするのも忘れていた人々は、口々に彼女の姿を誉めそやした。
彼女は一族の顔として、世界中を旅する。
その中で色々な人との出会いがあった。
彼女の提供するサービスが、著名な人々から支持を受けたからだった。
喜劇王と呼ばれる男性には、好物の天ぷらを用意して喜ばれた。
自分の国の皇族も、そのサービスを聞きつけて彼女と共に旅をした。
特に彼女が楽しかったのは、若い娘たちからなる歌劇団との旅だった。
彼女は黙ってその娘たちの話を聞く。
礼儀正しく美しいその娘たちは、行った先の国で大歓迎を受け、彼女を通してファンレターまで届くようになっていた。
何度も彼女は旅をしたが、脳裏に浮かぶのは期待や希望に満ちた人の顔だった。
だが、そんな幸せな時代も長くは続かなかった。
人々の顔はどんどん暗くなり、そして彼女は大好きだった仕事を取り上げられてしまったのだった。
*
それから半年ほどが経ち、彼女は赤い十字の入った白衣を着せられて今まで行ったことが無い国へと派遣されるようになっていた。
彼女の立場も一族から軍へと変わってしまっていた。
彼女に続いて社交界にデビューした妹たちは、軍服に着替えさせられて、騎士達の世話をする仕事に就く事になってしまっていた。
彼女が過ごした社交場は、灰色の鎧を纏った騎士たちの世界になってしまっていた。
白衣を着た彼女はびくびくとしながら、その姿を騎士たちの目に留まる事が無いように隠れながら進む。
気高く美しいと言われていた彼女にとって、それは屈辱でしか無かった。
しかし、彼女は世界中を飛び回り、多くの戦で傷ついた者たちを癒し、国へと連れ帰り続けた。
彼女の幸運にあやかれば絶対に死なない。そう言われた事すらあった。
だが、彼女の国は次第にその勢いを削がれ、傷つく兵たちはますます増えて行った。
彼女もすぐ近くで起こった爆発によって怪我をしていたが、気にせずにそのまま働いていた。自分の事など気にしていられるような状況では無かったからだった。
そんな中、妹たちが相次いで戦死したことが告げられる。
彼女は泣く事すら許されなかった。
唯々、自分の仕事をこなすしかなかった。
それでも彼女は凛々しく進み続けた。
その姿は、後に一族の長となる男にも深い感銘を与えたのだった。
そしてとうとう彼女も大怪我をしてしまい、国に戻っていた時に、やっと戦が終わる事となった。
戦は終わったが、彼女には休む間もなく仕事が与えられた。
戦場で傷ついた人々を連れ帰ると言うものだった。
疲れ果て、汚れ果てた人々を戦場となっていた国から連れて帰る。
人々の顔に浮かぶのは、希望や期待などではなく、不安と焦燥だった。
それでも彼女は進むことを止めなかった。
また社交界に戻る。それだけを胸に秘めて彼女は仕事をこなし続けた。
やっとほとんどの者が国に帰って来ると、彼女はまた社交界の花形となる事を期待した。
だが、彼女に与えられたのは華々しい会場ではなく、国内の物資を運ぶと言う必要だけれども地味な仕事だった。
汚れ、疲れ果てた彼女の姿は、往年の令嬢の面影を見ることは難しかった。
だが、それでも彼女は働き続けた。
少しでも良いサービスを提供することが彼女の使命だったからだ。
それから8年もの時間が流れた。
戦の傷がやっと癒え始めたころ、彼女は社交界へと戻る事が出来た。
彼女が社交界での仕事を取り上げられてから、もう12年もの歳月が流れてしまっていた。
彼女のドレスは、黒のものに仕立て直され、リボンも一族の者であることを表す、黒い縁取りの赤白のものが着けられていた。
今度の旅は、企業の重役や有名人だけではなく、留学に向かう学生たちと過ごす事が多かった。
そんな彼女に一族の主人は、ご褒美をくれた。
少女たちが華々しく歌い踊る歌劇団との旅だった。
彼女たちが笑いながら話す言葉に、彼女はじっと耳を傾ける。
人生に悩み、そして期待を抱く娘たちは彼女にデビュー当時の幸せだった時代を思い起こさせた。
彼女は再び社交界で、令嬢や貴婦人へと挨拶を送り続けた。
しかし、彼女との旅は贅を尽くしたものであったので、戦後の時代にはそぐわないものとなってしまっていた。
また、彼女自身も長い旅には耐えられない身体となってしまっていたのだ。
とうとう彼女は旅人を案内する仕事から引退することを勧められた。
初めて社交界へとデビューしてから、既に30年もの月日が流れてしまっていたのだった。
それからの彼女は、往時を懐かしんで泊まりに来る人々の世話をするようになった。
だが、人々はどんどん豊かになって行き、次第に彼女の事を忘れ、あんな古臭いものと言う人も多くなって行った。
*
それでも彼女は海と言う社交界を眺め続けた。
彼女は今もデビュタントの時と同じ白いブラウスに黒いドレスを纏う。ドレスはところどころほつれを直した跡が見えるが、その美しさには衰えも見られない。
もちろんリボンは白地に黒の縁取り、そして赤の二本線が入ったものだ。
彼女の名前は氷川丸。
港町である横浜を代表する船。そして古き佳き時代の生き証人でもある。
今でも彼女には仕事がある。横浜の街に住む人々に正午を知らせるのだ。
「ごきげんよう。」
汽笛の音がして、彼女は令嬢のように挨拶をするのだった。
浅田次郎先生のシェラザードを読んでから、氷川丸へと行った事があります。
古き佳き時代の空気を少しだけ感じる事が出来ました。
少しでもその雰囲気が表現出来ていたらと思います。