S1-par.2 『私に賛成の音は無し?』
その日の授業を過ごし、時刻は放課後。まだ加入して日の浅い部活動にいそしんだり、寄り道のために友達を誘ったり、ルーチンを全うし黙って消えたり、先生に捕まっている者もいる。
ツクヨも皆に交ざり行き慣れた部室へ向かおうとしていた。
「ヒナコちゃん! 部活行こー」
ヒナコは返事とともに立ち上がり、ツクヨの横に着く。確認したツクヨが駆け出そうとした。そのとき――。
「はーい止まれ音無ぃ。そもそも走るなー?」
微かによろめいたツクヨにヒナコの片手が添えられる。友人の何気ない気遣いに気がつくこともなく、ツクヨの感情は正面に向かって飛び出した。
「ちょっと先生、びっくりするじゃん!」
「びっくりしてるのはこっちだよ」
額に指を当てシワを作る担任。似た様子で眉をひそめるツクヨに、先生が用件を切り出す。
「音無、お前進路希望用紙出したろ」
「出しましたよ」
――ツクヨちゃん、出したんだ。
「相談してからって言ったよな」
「言ってた」
「うん。まあ、それはさせるからいいとして」
――いいんだ。
「志望校、第一希望だけだったな」
「もちろん」
「学科書いてないよな」
そう言ってツクヨに渡された紙には、彼女が書いた"模忍高校"の四文字だけが存在感を放っていた。
「せめて名前は書いてくれ」
「あ、そのこと? ごめんなさい。じゃあ私部活に――」
「学科が書いていない、って言ったよな?」
「え、はい」
いまいち理解していないツクヨは先を急ごうとする。その度に静止しつつ、先生は核心を聞いた。
「普通科だよな?」
「――え?」
「よし、話がある。残れ」
先生が明らかに良い意味ではない笑顔をツクヨに向ける。彼女が逃げないように気を配りつつ、先生はヒナコに声をかけた。
「木洩、音無のこと伝えといてくれ」
「えっとぉ……、分かりました。ツクヨちゃん、また後でね」
ツクヨに目を合わせながら、ヒナコは足早に部室へ向かっていった。
教室に残されたツクヨ。彼女は自分の席に座り、先生はその隣のイスを借りた。向かい合う二人。ただ、その内容は構図からかけ離れたものだ。
「ムリだ」
「なぜだ」
「成績もそうだし推薦のこともあるしだなぁ。音無ぃ、そもそも暗役科がどう言うところか分かってるのか?」
先生のさとすような質問に、ツクヨは唇に息を張って反発する。
「知ってますよ! お姉ちゃんが行ってるんですから」
「そういや音無――お前の姉さんは模忍生だったなぁ。しかも暗役科」
「そうです。だから私も行くんです!」
「姉さんがいるからか」
「ダメなんですか」
「一教諭があまり強制するものでもないんだが」
先生は何かを話しかけて口を閉ざしてしまう。最も相応な言葉をかけようにも下手なことは言えない。あれかこれかと考えているうちに、根本的な話を思い出した。
「このこと親御さんは知ってるのか?」
「じゃないですか?」
「志望してる学科のことは」
「うーん、多分」
ツクヨの曖昧な返事に、先生は数度うなずく。自身の中で納得をするとツクヨにあらためて言いつけた。
「一回親に相談してくれ」
「だから――」
「それで了承が得られるなら先生はこれ以上何も言わない」
「ホントにぃ?」
「家族がいいって言っているのに口を出すほど、先生もお節介は焼きません」
ツクヨはしばし疑りの視線を向ける。それから彼女の方も折り合いがついたようで、自信あり気に口元を緩めた。
「分かりました。いいですよ? なんだったら明日にでも――」
「一週間後な」
「い、一週間後に今日と同じものを提出しますよ!」
「学科も書き加えて第三希望まであると、先生嬉しいぞ」
「わーかーりーまぁしーたー!」
先生の憂いは拭えないまま、距離の近い二者面談が終了した。
先生との面談で遅れたツクヨは急ぎ部室へ向かっていた。
「もう、先生話長いー! 大会控えてるの知ってるくせにぃ」
普段の練習で鍛えた脚力で校内を駆け抜けるツクヨ。アスファルトを踏みつけ部室との距離を縮める。
ようやくたどり着き中に入ると、そこには一人腰掛けるヒナコの姿があった。彼女はすぐにツクヨに気づき、頬の赤い笑顔を浮かべる。
「ツクヨちゃん、お疲れさま」
「ヒナコちゃんこそお疲れ。今休憩?」
「うん。ちょうどさっきだよ」
首に掛けたタオルと依然として目立つ汗の対比が、先程まで走っていたのだと容易に想像させる。
彼女の性格を表すようにふんわりとした髪は後ろで一本に結ばれていた。体操着に着替えた姿はどこか無邪気にも感じさせる。
「ほら、早く着替えて行かなきゃ。みんな待ってるよ、部長」
「ヒナコちゃんが指示出してるでしょ? 頼りになるなぁうちの副部長は」
「準備運動と走り込みくらいだよ。それにほとんどは顧問の先生がやってくれてる。そもそもツクヨちゃんがまともな指示してるの見たことないけど」
「部長はね、部員に自分たちで考えさせることも仕事なんだよ!」
「たまには導いてあげてね」
ヒナコはツクヨが着替え終わるまで、自身の体を休めていた。彼女はその合間の会話で、ツクヨが部室に到着するまでの話を続ける。多くの時間もいらずツクヨが動きやすい身なりに変わるころ、ヒナコは彼女に疑問を投げかけた。
「ツクヨちゃんはさ、どうして部長になったの」
「え? あぁ、うーん。お姉ちゃんがやってたから、かな」
「――陸上部に入ったのも、マシロねえがいたから?」
「そう、だけど」
質問の中でツクヨに向けたヒナコの表情、それがツクヨの頭の中で先の先生の顔と重なった。怒りや悲しみと異なる心配が表れた視線に、ツクヨはじっと見つめ返す。ツクヨの感情が不安と不思議に変わっていく中、ヒナコは頬を上げた。
「でもツクヨちゃんの得意競技は短距離走なんだよね」
「あーなんだ! それが言いたかったの? うん、そうだよねぇ。お姉ちゃんもヒナコちゃんもよくあの距離を――」
「それと同じだと思う」
ツクヨは言葉をさえぎられ、その続きを吐息に変える。ヒナコの口は微笑んでいた。声色は柔らかく、圧する気は含まれていない。ただ、彼女の瞳は庇護の意識に近いものがあった。
「わたしもね、ツクヨちゃんは普通科に行くと思ってたの。正直に言うと暗役科の入試、受ける以前の問題だから」
「どう言うこと?」
「ツクヨちゃん、暗役科の受験資格知らないでしょ」
ツクヨは知らなかった――お姉ちゃんは教えてくれなかった。ツクヨは分からなかった――どうして教えてくれなかったの。ツクヨは知りたかった――そもそも、私から聞いたことあったっけ。
「ねぇヒナコちゃん、私――」
「木洩先輩! はっ、音無先輩! お疲れさまです!」
「お、おつかれぇ……」
急に開いたドアと元気な発声に、ツクヨの肩が跳ねる。今日はよく話が切れる日だと苦笑いをする。色々いき詰まっているツクヨを横に置き、ヒナコは後輩に向き合った。
「お疲れさま。どうしたの?」
「先生が先輩を呼んでました」
「ちょっと休憩が長かったかな。すぐに行くね」
ヒナコは入ってきたときの後輩の雰囲気からだいたいの現状を把握した。彼女は髪を揺らして立ち上がると、ツクヨに名前を呼びかける。
「続きは帰りにしよっか。ほら、一緒に行こ」
ツクヨはつながらない線が脳内をただよう中、ひとつの返事とうなずきの後、遅れた部活動に急ぎ歩いた。