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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

血塗られた凱旋

たとえ、この手を血に染めてでも……

作者: デルタミル

 燃え盛る炎を背に受けて、私は――佐々ささきレイナは、転落防止用の手すりを乗り越えた。

 下を見れば、遠くに地上が見える。行き交う人々は何事かと言わんばかりに、足を止めて空を見上げる。好奇の眼差しだ、と私は思った。

 改めて自分の両手を見てみる。――ぽたり、ぽたりと鮮血が滴り落ちた。

 つい先ほど、私は人を殺した。罪悪感などなかった。そうでもしなければ……"あの子"を助けられないと思ったからだ。そして、私を陥れた連中に一矢を報いることすらできなかった。

 …………全ての始まりは数週間前、ここで起きた横領未遂事件にあった――






 ――数週間と少し前。






「おはようございます」と、私はいつものようにオフィスに入り、自分のデスクの椅子に腰かけた。周りから歓迎などされてはいなかった。入社して数ヶ月も経てば、周りの人たちはグループを作り、邪魔者を淘汰していく。

 でも、たった一人だけ例外はいた。


「おはよう、レイナ」と言いながら隣の席に座ってきたのは、私の幼馴染の本条ほんじょう加奈子かなこだ。愛称はカナちゃん。黒髪のショートカットで、少し痩せ型だ。

 ――私とカナちゃんの二人は、みんなからハブられていた。執拗な嫌がらせを受けることも多い。窃盗や落書き、仕事の手柄を強奪されるなど日常茶飯事だった。特に嫌がらせをしてくるのは、部屋の端っこでふんぞり返っている二人組の女子、田辺たなべ佐伯さえきだ。

 下の名前なんて覚えてない。存在自体、記憶から抹消したかった。


 ――休憩時間に差し掛かると、田辺と佐伯は決まって、わざと私の休憩タイミングと合わせてくる。理由は簡単だ。女子トイレに連れ込んで、『ストレス発散』をするためだ。


 トイレに連れ込まれた直後、私は顔面を殴られ、うつ伏せにして床に頭を押さえつけられた。


「ほら、泣きなさいよ! 土下座して謝ったら許してあげるけどー?」

と田辺。

「きゃっははは!! 土下座じゃ足りないっしょ! あたしらさあ、お小遣い足りないの。ね? わかるでしょ? このゴミ!」と佐伯。


 頭を足で踏み潰されて、いいようにしていたぶられるのが、ここ数日間毎日続いていた。――それでも抵抗しなかったのは、大好きな幼馴染のカナちゃんの顔が浮かんだからだ。


『あんたがあたしのオモチャになってくれなきゃ、あの子をオモチャにするからね』と脅されていたのだ。それだけじゃない。こいつらには"過去に犯罪歴があった"のだ。そのため"危険な連中"に顔が利くという。

 私がそれを知ったのもつい最近のこと。こいつら二人が廊下で過去の"実績"を語り合っていたのを、偶然にも聞いてしまったのだ。

 だからこそ、下手に逆らうわけにはいかなかった。もちろんカナちゃんは、私がこんな目に遭っていることなど夢にも思ってないだろう。もし知ってしまったら『自分が身代わりになる』と言い出しかねない。

 ――だから私は耐えた。何度殴られても、何度蹴られても、ただひたすらに耐え続けた。

 …………ひとしきり私をいたぶった彼女らは、満足そうな顔をして豪快に笑いながらトイレから出ていった。

 みっともなくうつ伏せに倒されていた私は、痛む身体を無理矢理起こし、何とか洗面台へしがみつく。


洗面鏡には汚れた自分の顔が映っている。


「こんな顔じゃ……カナちゃんに顔向けできないなぁ……」


 私は水道の蛇口を捻って汚れた顔を両手で洗い流し、ポケットからハンカチを取り出し、念入りに拭いた。汚れたスーツも何とか目立たないように綺麗に拭き取った後、トイレから出た。




 オフィスに戻ると、お喋りをしていた田辺と佐伯と一瞬目が合ったが、すぐに視線を逸らし会話に戻った。

 私も何事もなかったかのように自分のデスクへ戻り、仕事を再開した。

 ――これがいつもの日常だった。

 



 家に帰るとすぐにベッドに突っ伏した。

 誰かが出迎えてくれるわけでもなく、寂れた部屋の中で一人、私は不満を漏らす。


「どこで間違えたのかな……私の人生」


 両親は数ヶ月前、不慮の事故で他界したため、私は一人ぼっちだ。

 カナちゃんだけが、私の唯一の味方であり生き甲斐だった。そのカナちゃんまでも失うわけにはいかない。もしも……あいつらがカナちゃんに手を出したその時は…………

 私は拳を握り締めた。爪が食い込むほどに強く握り締めた。






 ――数日後。






 突然のことだった。その変化が起こったのは。


 いつものようにオフィスに行くと、先輩社員の村田むらたまことさんが少し焦った表情でこちらへ近づいてきた。


「あ、佐々木くん……キミに聞きたいことがあるんだが……」

「はい? なんでしょう?」

「田辺くんと佐伯くん、まだ来てないんだけど……何か知らないかい?」

「……さあ? 私は何も知りません」

「そ、そうか……」


 村田先輩はスマホを取り出すと、どこかに電話をかけ始めたが、やがて口を開いて言った。


「やっぱり出ない……」


 ――結局その日は、田辺と佐伯が職場に顔を出すことはなかった。

 内心、私はほっとしていた。"今日は"オモチャにされずに済んだのだ、と。


「レイナ? どうかした?」


 私のそんな表情に気づいたのかわからないが、傍らには心配そうにこちらを覗き込むようにしてカナちゃんが立っていた。

 そうだ、彼女には気取られる訳にはいかない。私とあいつらとの間には"何もなかった"ということにしておかなくては。




 ――今日は珍しく残業だった。カナちゃんは先に帰らせてある。

「レイナの仕事が終わるまで待つよ」というカナちゃんの申し出はありがたかったが、仕事は集中して片付けたかったため、断った。


 おかげでもう夜の11時になってしまった。幸いにも、自宅までは徒歩で行ける距離なので、交通手段を使わなくても帰れるが、さすがに残業をした後、徒歩で帰るのはきつそうだ。

 そう思って建物から出たときだった。


「……?」


 路上にヘルメットを被ったライダースーツの人物が、バイクにまたがったままこちらを見ていた。いや――正確には今、私が出てきたこの建物を、といったところか。

 関係者だろうか? 私はそう思ってその人物へ近づいていった。



 私が「あの――」と言いかけたところで、その人物はバイクを走らせ、闇の中へ消えていった……






 ――次の日。






 予想もしていなかったことが起きた。


「大変だっ! 我が社の金庫の中身が消えたそうだっ!!」


 そう言いながら慌ててオフィスに飛び込んできたのは、村田先輩だった。


「すぐに横領事件として警察に通報すべきでは?」


 と私は常識的にそう薦めてみた。しかし、返ってきた答えはあまりにも想定外で言葉も出なかった。

村田先輩はこう言ったのだ。


「それが……『内密に処理せよ』というのが、上からの命令なんだ」と……


 


 その日も、田辺と佐伯は職場に来なかった。さすがに無断欠勤続きということで、会社側は横領事件と関連付けて二人を疑ってはいたものの、特に証拠があるわけでもなく、何より連絡が途絶えている状態なので、事実確認もできそうになかった。

 ――しかし、次に村田先輩が言い放った言葉に、一同が戦慄を覚えた。


「疑わしい社員がこの部署にいる以上、みんなのデスクを調べさせてもらう。なあに、皆がそんなことをするやつじゃないことくらい、俺は良く知ってるよ」


 そう言いながら、村田先輩は片っ端からデスクの引き出しやファイルを開けていく。

 一同はその成り行きを固唾を呑んで見守った。


 傍らにいたカナちゃんが私だけに聞こえる声でぼそっと呟いた。


「さすがに大丈夫だよね……? この中に、いるはずないよね……?」


それに対し、私は――


「"あの二人"以外には考えにくいけどね……」


と答えを返した。


 やがてこちらへやってきた村田先輩が私のデスクの引き出しを開けた時――


「――なあ、佐々木くん。これはいったいどういうことだ? 説明してくれないか」


と、とても静かな声で言い放った。

 まさか、と思った私は、引き出しを覗き込み、息を呑んだ。


 …………札束に機密書類、何かの報告書など、あらゆるものが入っていた。

 反射的に私は叫んでいた。


「私じゃないっ!!」と。


 しかし、誰もその言葉を信じてくれる人はいない。


「レイナ……違うよね……? あなたって、そんなことする人じゃないでしょ……?!」


 カナちゃんまで私を疑っていた。私は当然、首を振って否定した。


「本当に私じゃないの! 何かの間違いだよ!」

「話がある、ちょっとこっちに来い」


 村田先輩に腕を掴まれ、私は社長室へと連れて行かれた。

 社長室へ通されると早速尋問を受けた。私は必死に抗議をした。「自分はやってない、誰かに嵌められたのだ」と。

 ――それが社長や先輩の心証をさらに悪くしたのか、まるで死刑囚でも見るかのような目で、私を睨みつけた。


 幸い、あのデスクに入っていた内容物以外に、紛失したものはないため、警察沙汰にはせず穏便に済ませると。その代わりに退職処分を言い渡された。丁度月が変わっているが、今月一いっぱいでここから出て行けと。

 それが処分の内容だった。


 ――このままここを出て行けるはずがないじゃないか。私は何もやっていない。きっとあいつらの仕業だ。どうして誰も信じてくれない? 卑怯者ばかりが得をして、真面目に頑張っている人たちがなぜ、酷い目に遭わなくちゃいけない?

 ……誰か答えてほしい。そして私に教えてほしい。私は間違ったことをしているのかと。


 オフィスへ戻ってくると、すぐにその場の空気は凍りつき、沢山の視線を感じた。恐怖? いや違う、蔑みだ。

 ふと、隣に座っていた幼馴染と目が合ったが、彼女は私から申し訳なさそうにしながら視線を逸らした。……とても悲しかった。


 ……時間が経つに連れて、一人、また一人とオフィスから社員たちが出て行き、やがて私一人になってしまった。

 考えてもわからない。そこまでして私は憎まれなければならなかったのか? 大好きな幼馴染はもう、私に近寄らないかもしれない。




 …………一滴の涙が、頬を伝って流れ落ちた。気がつけば私は泣いていた。自分が味わった苦痛に泣いたのではない、この不条理さに嘆いたのだ……



 ――いつまでそうしていたかはわからない、いつの間にか夜の9時を回っていた。仕事もろくに片付かないままオフィスを後にする。

 外に出ると、黒い影に目が止まった。――昨日、この建物を見ていたライダースーツの人物だ。

 まさか、あいつが横領事件を仕組んだのでは……? そう思った私は――


「ちょっとっ! そこのあんたっ!!」

「…………?」

 

 ライダースーツの人物はこちらを見た。ヘルメットはしたままなので、どんな顔なのかはわからない。だが、不審人物そのものであることには違いない。


「昨日もいたでしょう? ここに何の用? 関係者なの?」


私は一気にまくし立てた。すると彼はこう言った。



「勿体無いな……この会社も闇に堕ちたか…………」と、男の声だ。

「それはどういう意味?」と私は問い返す。

「『闇社会』のクズどもが、この会社を足がかりにして、不正な取引をしている」と、彼は語った。


 ――闇組織自体、よくテレビやネット、ニュースで耳にしていたが、まさかこんな身近に存在しているとは思わなかった。

 その会社のライバル企業に寄生し、部下の一人をスパイとして相手の会社に潜り込ませ、資料やデータ等を横領させて、闇社会と取引をする。するとそのデータはとんでもない価値を付けられ、会社は莫大な利益を手にする。


 ……つまり、いつからかわからないが、この会社はその闇社会の人間に目をつけられていた。そして、この会社を快く思っていないライバル企業をそそのかし、部下をこの会社に潜り込ませた……

 でも、そうだと考えるなら、今回の横領は失敗に終わっているのではないか? だって、横領そのものが発覚してしまったわけで……しかも私がやったことにされてしまった。何か予想外の事態でも起こったのではないだろうか……?


「――おい、聞いてるのか?」


 その声と共に、私の意識は現実へと引き戻された。


「アンタ、顔色が悪いぞ? 昨日見たときは、そうでもなかったが……?」


とライダースーツの男はそう言った。

 あの距離からよく人の顔色が分かるものだ。多分、雰囲気で察したのかもしれないが。

 どうせクビになる身だと思った私は、これまでのことをかいつまんで男に説明した。


「なるほど……やっぱりあの女の二人か……」


 男は何かを知っているような口ぶりでそう言った。思わず私は聞き返した。


「何か知っているの?」


その問いに、彼はこう答えた。


「あいつらの過去に犯罪歴があることを、偶然であれ聞いたのなら……身の回りは注意するといい。何をしてくるか分からんぞ」

「そもそも、どうしてあんたがそんなことを知ってるの? 何者なの?」

「……公安の一人だ、それ以上は言えない」


 公安? 公安警察のことだろうか? 刑事ドラマとかでよく聞いたことがある。

 もしかして、捜査のためにここにいるのだろうか?


「奴らに目をつけられたら最後、死ぬまで追いかけてくるぞ。万が一のときは、余計な倫理観は捨てた方がいい」


 男はそう言って、バッグから紙袋を取り出すと、それを私に手渡した。


「それをどう使うかはアンタに任せるよ。……じゃあな」


 男は手を振って、そのままバイクを走らせていった……






 ――数日後。






 私は無言でオフィスの中に入る。誰もこちらを振り向かない。

 自分のデスクへ移動すると、幼馴染が遠慮がちに話しかけてきた。


「あ、あのね……レイナ……? その……このあと――」


 ごんっ!

 と、私の頭に何かがぶつかった。何が飛んで来たのか確かめようと、痛みに耐えながらそれに目を向けると、電卓だった。前に視線を向けると、同僚の一人がそっぽを向いた。

 あぁ…こんな屈辱を味わってまで会社に通う必要があるのだろうか? でも、今月いっぱいまでは仕事をすることを許してくれたのは、社長なりの最大の譲歩だったのだろう。

 だったら、最後まで勤めを果たさないと。


 でも、ちょっとくらいなら仕事をサボっても文句は言われないだろう。私はそう思って一度オフィスを出て廊下を歩いた。途中の休憩スペースに差し掛かったところで、誰かの話し声が聞こえてきた。

 耳を澄ますと、村田先輩の声だった。誰かと電話をしているらしいが、何か様子が変だ。悪いと思いつつ、私はそっと聞き耳を立ててみた。



「……はい、申し訳ありません。この度は、わたくしの不始末でございます。…………ええ、あの女に見られていたようです。はい、本条加奈子という女です」



 ……見られていた、とはどういうことだろう? どうしてカナちゃんの名前が出てくるの?


「取引は中止にしましょう。今回は未遂に終わりましたが、全て佐々木という女に罪を被ってもらいましたので……」



 ――――あぁ、なんてことだろう。こんな現実があってたまるか……

 横領を仕組んだのは……先輩だったのだ…………!


「――本条ですか? ……そうですね、騒がれてはまずいので……うーん……」


 ――私は村田先輩の次の一言を聞くのが怖くて、耳を塞いだ。


「始末します」






 再び自分のデスクへ戻ってきた。隣に座っているカナちゃんは、不自然に視線を泳がせていた。何か言いたいのかもしれない。先ほど、彼女が言いかけていたのは何だったのか……

 それも、先ほどの村田先輩のあの電話の内容ではっきりした。カナちゃんはきっと"知っていた"のだ。横領未遂事件の真相を。それを私に伝えようとしていたのだ。

 でも、それで何かが変わるのかと言われれば、そういう訳でもなく、寧ろ状況が悪化するだけだ。

 闇社会の人間がどんな手段を用いてくるのかわからないが、ひょっとしたら私やカナちゃんだけの問題じゃ済まなくなるかもしれないのだ。



 ……私は足元のバッグに目を向けた。あの中には数日前、公安の人からもらった例の紙袋が入っている。万一のときは躊躇わずに使うつもりだ。


 ――そして、オフィスのドアが開かれる。


「佐々木くん、いるな?」という声と共に入ってきたのは、村田先輩と見知らぬ男だった。おそらくは社員の人間じゃない。


「こちらは弁護士の方だ。今日は田辺くんと佐伯くんにも来てもらったよ」


 そう言って、物陰から顔を覗かせたのはあの忌々しい二人組だった。

見知らぬ男は弁護士といったか。いったいどういうことだ?


「佐々木くん、キミは彼女と弁護士と共に社長室まで来るんだ。場合によっては、キミを脅迫罪と窃盗罪で警察に突き出さないといけなくなる」


 村田先輩は容赦なくそう言い放った。……よくもまあ、そんなことをいけしゃあしゃあと言えたものだ。なるほど……そういうことか。何が何でもこの横領未遂事件を私のせいにして片付けたいわけだ。ついでに私たちも始末したい、と……

 そして、村田先輩はカナちゃんの元までやって来ると、


「キミは俺と来るんだ。別件で大事な話がある」


 そう言って、彼女の腕を乱暴に掴むと、無理矢理席を立たせた。――刹那、カナちゃんは振り返って私を見た。今にも泣きそうな表情で、


「レイナ……レイナ……っ!」


 ――私の名前を呼んだ。そのときにはもうすでに、私の身体は動いていた……






「…………あ…………ぐ……っ?!」


 低いうめき声と共に、村田先輩はうつ伏せに倒れた。


「いやあぁあああああっ?!」


カナちゃんの叫び声によって現実に引き戻された一同は、一斉に悲鳴を上げる。


 村田先輩の背中に深く突き刺さった包丁は、間違いなく致命傷を与えている。もうじき死ぬだろう。


「ど……どう…………して……っ?」


 村田先輩は、首だけを動かして私を見た。


「先輩が……黒幕だったから。カナちゃんを殺そうとしたから……だから刺した」


と、私は冷めた表情で村田先輩にそう言った。


「…………そう……か……」


 ――たったその一言だけだった。彼が私に言ったのは、贖罪の言葉でも、呪詛を込めた言葉でもなく、『そうか』の一言だけを残し、満足そうな表情をして息絶えたのだ。もう彼の口から、二度と真相を聞きだすことはできない……



「あ……ぁあ……う……」


と、口をばくばくさせながら田辺と佐伯は後ずさっていく。


「ひ、ひいいいいいぃいいいっ! 警察っ!! 警察をっ!!」

 

 弁護士の男は一目散にオフィスから逃げ去った。

 私は村田先輩の背中から包丁を引き抜くと、そのまま二人に襲い掛かった。

 田辺は心臓を一突きして絶命させ、佐伯は椅子で頭を何度も何度も殴って殺した。

 二人を殺すのにそんなに時間はかからなかった。闇社会と繋がっていた村田先輩と、その手下である田辺と佐伯がいなくなった以上、闇社会も手を引かざるを得なくなるはずだ。

 ――そんな風に冷静に状況を分析している自分がとても怖かった……


 ……やがてパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。


「レイナっ!! 逃げてっ!!」


 そう叫んだのはカナちゃんだった。ふと顔を上げると、今にも泣きだしてしまいそうな、幼馴染の顔がそこにあった。

 ――私は包丁をバッグにしまいこみ、入り口の前で振り返り、言った。


「さようなら……カナちゃん……」




オフィスを出てそのまま非常口へ向かい、屋上までの長い階段を一段一段上っていく。やがて、下の階から沢山の足音が聞こえてきた。もう追っ手が来たのだろうか。

 屋上の扉を開ける。私はバッグにしまいこんだ紙袋の中から、油ビンとマッチを取り出した。そして屋内へ振り返り、油ビンを床に叩きつけて割り、そこに火のついたマッチ棒を投げ込んだ。

 炎は一気に燃え広がり、屋内の窓ガラスを粉々にして吹っ飛ばした。巻き添えを食らわないようにして私はすぐに屋上の扉を閉めた。



 燃え盛る炎を背に受けて、私は転落防止用の手すりを乗り越えた。

 下を見れば、遠くに地上が見える。行き交う人々は何事かと言わんばかりに、足を止めて空を見上げる。好奇の眼差しだ、と私は思った。

 改めて自分の両手を見てみる。――ぽたり、ぽたりと鮮血が滴り落ちた。

 つい先ほど、私は人を殺した。罪悪感などなかった。そうでもしなければ……"あの子"を助けられないと思ったからだ。そして、私を陥れた連中に一矢を報いることすらできなかった。

 ――でも、今だからこそ言える。

 たとえ、この手を血に染めてでも、護りたいものがあったのだと。


「……?」


 地上を見下ろしていた私は、遠くの方でバイクにまたがるライダースーツの男の姿を見つけた。確か公安の人だ。彼は何か茶色いものを片手に、空に掲げていた。


「封筒……?」


やがてその男は茶色いものをしまいこむと、バイクを走らせ、街の中へと消えていった。


 …………そうか。

 もう……いいんだ。

 これでようやく救われる。

 この不条理からやっと、私たちは解放されるんだ。

 ――私は両手を広げ、空を仰ぐと…………

 地上を目指し、飛んだ…………

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