〔二‐3〕 乙女と一角獣
【前回までのあらすじ】
セイルとラナンはトラディウス城へ登った。
皇帝の腹心ドルネット・ハンゼンに出迎えられた彼らは、謁見の間へ通された。
セイルにならって恭しい態度で皇帝の登場を待っていたラナンだったが、その期待は大きく裏切られてしまった。
秘術によって満を持して召喚された皇帝ロニウス・ジア・ボラン・トラディウスは、使用人の女に手を出しているところだったのだ。
国主のゲスな振る舞いに、思春期真っただ中のラナンは軽蔑を隠せなかった。
城には四つの中庭が設けられている。宮殿を中心に、通路で十字に区切られている。南東に男性貴族用、南西に女性貴族用、北東に騎士用、そして北西に使用人用となっている。
城の造形が左右対称のため、いずれの中庭も身分の差がなく平等な敷地面積を有している。強いて差があるとするならば、はるか北東に位置する宿敵バリムンド王国からの侵攻に備えて女性を西側にすえている点と、使用人達の中庭には獣舎が設けられていて、その分広さが狭くなっている点だ。
その獣舎は二棟あり、一棟五頭の家畜がつながれている。一頭ずつに個室があり、出入り口は胸の高さまである扉で隔たれている。
この二棟で飼育されている家畜は極めて珍しい品種で、この城にいる一〇頭以外の生存は確認されていない。
外見は二角獣とよく似ているが、全身の体毛は漆黒ではなく、対照的な純白。角もこめかみからうねるように生える二本角ではなく、額から真っ直ぐのびる螺旋状の一本角。そして二つに割れた蹄を見れば、バイコーンとは生物学上異なる偶蹄目に分類されていることが解る。
そんな純白の獣の名は、一角獣。バイコーンや勇往馬よりも足が速く、力強く、体力があって、何より知性に富んでいる。
一方で、バイコーン同様に気性が荒く、危険な獣だ。一際、穢れを忌み嫌う。美しいものを何より愛でるが、それは外見の話ではない。それが物であれば、それが放つ気配――秘霊気の清らかさを。それが人や動物であれば、それらの胸の内に秘めた心――純真無垢で高貴なる善意の魂を、彼らは何よりも愛し、時には平伏すのである。
古来よりトラディウス王家は、そんな気難しいユニコーンに愛される資質を備えているという。それは〈トランナトスの泉〉に認められたからかもしれないが、因果関係は未だ紐解かれていない。
また王家の血とは関わりなく、ユニコーンを自在に扱える者達が存在する。その者達はその“資質”を失うまでの間、馬丁としてユニコーンの世話をしている。そこに身分は関係がない。求められる資質は、たったの三つ――。
「モノック、お昼の時間だよ。今日も沢山食べようね」
くせのある黒髪の少女が、干し草でいっぱいのカゴを両手に抱えてそう言った。扉の向こうには一頭のユニコーンがいて、興奮したように鼻を大きくふくらませている。ブフンと短く啼いて、口からは粘度の高いヨダレを垂らしている。
「だらしないなぁ。ちょっと待って、今開けるから」
屈託なく微笑む少女は扉の錠を開け、モノックと呼ばれるユニコーンの一頭の部屋に入った。しなやかな筋肉が映える長い足のそばでカゴをひっくり返し、干し草の山を築いてやった。
「はい、よく噛んで食べるんだよ」
モノックは嬉々とした様子で干し草の山に鼻先を突っ込んでは、口いっぱいに頬張った。少女の耳に届くほど、美味しそうな咀嚼音を鳴らしている。満足感にひたっている愛獣の瞳をのぞきこんでいると、小屋につながれている他のユニコーンが一斉に啼いた。その声音は等しく不満げで、いいなぁモノックはいつも一番で、私にも早く頂戴よ、俺も我慢できねぇよ――と昼食を催促しているようだった。
「だ、大丈夫だよ! みんな、もうすぐ来るから!」
今すぐじゃなきゃヤダー!
モノック以外の四頭は近くの柱に長い角の腹を叩きつけて彼女を困らせた。その大きな音を聞きつけたように、「リィーノ、ごめんごめん!」と四人の少女が駆けてきた。彼女らはリィーノと同じように干し草の詰まったカゴを両手で抱えている。
「今日もみんな、元気いっぱいだよ」
リィーノはそう言って笑ってみせた。
「それはイイんだけどさぁ。リィーノ、もうちょっと足並み揃えてくんない? アンタちょっと頑張りすぎ、っていうかモノックのこと甘やかしすぎ」
「っていうか、大好きすぎ?」
「てゆーかてゆーか、愛しすぎ?」
「モノックー、結婚式には呼んでよねー」
ヒヒン。
モノックは干し草を詰まらせた歯をニッとのぞかせた。
「べ、別に私達、そういう関係じゃないよ!」
リィーノは顔を真っ赤に染めた。
少女達はそれぞれが受け持つユニコーンに餌をやりながら、「「「「冗談って知ってる?」」」」と一斉にツッコんだ。
「もうっ、知らない!」
獣舎から飛び出していくリィーノの背中に、少女達のせせら笑いは追いつかない。
彼女達は城の馬丁係である。城から一〇頭のユニコーンの世話をするよう命ぜられている。彼女らの多くは孤児であるが、“三つの資質”を備えているためにこの役職に就き、城での生活を保障されている。
資質の一つは、性別である。女子でなくてはならない。古くは男子も認められたが、第二次性徴における生理活性物質や秘霊気の変質によって、ユニコーンに嫌われることが多々あった。よって現在では男子の馬丁は、騎士候に仕える小姓の仕事の一つとなり、グリフォンやバイコーンの世話をしている。
次に年齢である。六歳から一七歳までのうら若き乙女でなくてはならない。それは男女や年齢で異なるとされる秘霊気の波動が原因だとされる。ユニコーンはこの時期の乙女の秘霊気を最も好み、それを放つ者には従順になる。
そして最後の資質が何より重要だとされる。それは、処女であることだ。恋を知らず、愛に惑わず、男女の交わりに恥じらうような、真に素朴で清純な資質をユニコーンは心より愛してやまないのだ。
そこを行けば、リィーノなどはドンピシャである。恋の話に興味はあるが、人より一歩下がって聞かないフリをしながら耳を寄せる。そして話半ばで顔を赤らめ、耳をふさいでしまう。オシャレや化粧もしてみたいが、そうする自信や勇気を持てず、変わらないことを良しとして立ち止まる。一五歳にしては、少し遅咲きであるくらいだ。
他の九名の少女達は、彼女ほど慎ましくはない。素直に恋愛に憧れ、たくましき騎士の誰某に、うるわしき貴族のあのお方に恋い焦がれ、想いを寄せている。手を取り合い、抱き合って、唇を寄せる、そんな男女の交わりについて日毎語り合っている。
妄想に留めていれば、然程ユニコーンに嫌われることはない。三つの資質を最低限備え、資質を消失する一八歳の誕生日を迎えるまで処女を守り続けさえすれば、馬丁として暮らしていけるのだ。
「私、リィーノさんに憧れます」
ユニコーンの身体を拭きながら、少女の一人が口火を切った。「なぁに、やぶからぼうに」と応えたのは最年長一七歳の馬丁長ヘスタである。
「別に皆さんをどうこう言うとかじゃなくてですね、純粋に思うんですけど……」
「何よ、もったいつけて」
「言い訳っぽいのやめてよね、余計に傷つくからー」
ごめんなさいと少女は謝意を述べつつ、リィーノが押し開けたままにした獣舎の扉の向こうを眺めた。
「リィーノさんは真剣にこの子達と向き合ってるじゃないですか」
「私達も向き合ってますけどー。ねー、グレンブライザーナックルブースター?」
仰々しい名前で呼ばれたユニコーンの一頭は、口角を引きつらせてうなずいた。
「それは私もそうですけど、どこか違うじゃないですか、リィーノさんって」
「もー、煮え切らないわねー。何が言いたいのよ!」
「私、解るよ」
理解を示したのはヘスタだった。彼女もまた、愛獣の毛並みを確かめながら言葉を紡いだ。
「もうすぐ引退だからかなぁ、最近よく思うんだよね。私って結局、この子達を仕事だけの付き合いみたいにしてたんじゃないかなって」
少女達は一様に作業の手を止めて、長の言葉を待った。
「もちろん、この子達は好きだよ。うん、好き、大好き、愛してる。病気になったり、怪我をしたり、弱ったりしたら、本当に心配で眠るのも忘れた。こうやって世話をしたら喜んでくれるし、この顔見られたら毎朝の早起きも全然苦じゃない」
うんうんと同意する彼女らをよそに、ヘスタは悲しげにまつ毛を震わせた。
「でもね、どこか冷めてる自分もいるの。特に、街に下りるとね、思うのよ。時間を無駄にしてしまったんじゃないかって。今は昔と違って恋愛も自由って言うじゃん? そういうの聞いてさ、街で私と同い年くらいの恋人達を見るとね、すごく羨ましくて、すごく妬ましくなるの。それでね、私何してるんだろうって、思っちゃうの」
「ヘスタさん、ちょっと言い過ぎです。馬丁は陛下直轄の大切なお役目なんですよ」
「そんなこと分かってるよ。ただね、何だろう、もっと色んな経験できたんじゃないかなぁって思うんだよね」
ヘスタの抱える苦悩は、馬丁係特有のものだ。
かつて国家間の争いが常態化し、国民の暮らしも閉塞的であった頃、城内で最下位の身分にあった馬丁や使用人は人生の全てを王族に捧げていた。騎士のように給金が出ることはなく、最低限の域を出ない衣食住のみを提供されていた。馬丁は資質を失うと使用人となるが、誰にも見初められず生涯を終えることは珍しいことではなかった。
籠の中の鳥。姫様やそれに連なる貴族のご令嬢は美しい羽を持つ箱入り娘だろう。しかし馬丁の娘達の翼は折られている。“自由がないわ”と同じ言葉をつぶやいてみせても、その意味は計り知れないほどの差がある。
しかし当時の馬丁の娘達は、そうしたことにあまり不満を覚えなかった。そういうものだという諦観と納得が、彼女達の思考を鈍らせていた。
だが今は、馬丁として働くだけでも給金を得られる。衣食住が保証された生活は据え置きでだ。そして馬丁の資質を喪失しても、必ずしも使用人になる必要はない。城の外で好きな仕事ができる。そればかりか馬丁は極めて高度な国家資格として認定されているので、引く手あまたと言っても過言ではない。
数年真面目に働けば、自由を手にできる。これまで幾百幾千もの少年少女達が得られなかった自由を、今日働いている彼女らは満喫できるのだ。
それがより彼女達の欲求を肥大させていた。職業の自由、選択の自由、恋愛の自由が他国よりも比較的広がっており、だからこそヴィセックの型破りな行為を加速させていた。
そしていくつもある自由の存在が、贅沢にもヘスタを後悔させていた。若い時間をドブに捨てているのではないかと。
「その点リィーノはさ、この子達と、特にモノックと真剣に向き合ってるよね。それ以外に何も考えてないんだって、見てたら解るよ。陛下の命令でモノックを走らせて外へ出ても、外の世界のことよりモノックの機嫌ばっかり話しちゃう子だもん。馬丁になるために生まれてきたんじゃないかってくらい、素直で真っ直ぐ。あの子はユニコーンを心から愛してる」
羨ましいくらい。
ヘスタは目の前の愛獣の頭をなでながらそうこぼした。
「私みたいにワガママな子は嫌いだよね」
白い獣達は悩める乙女に、慈愛に満ちた紺色の瞳を向けた。
獣舎を飛び出した馬丁一〇人娘の一人リィーノは、勢い余って城を縦断し、南の裏庭にまで走ってしまっていた。
城の壁際には広い花壇が敷かれている。年中日陰でじっとした場所にもかかわらず、明るい色彩の花々が咲いている。
丁寧に刈りそろえられた一面の芝生の先には林が見える。その木々の隙間からまばゆい光が見え隠れしていて、彼女は思わず見惚れてしまった。光の中から主張する青色から、それがかの有名な〈トランナトスの泉〉であることはすぐに想像できた。日陰に美しい花が咲いているのは、きっとその〈泉〉の力の影響だろう。
馬丁となって九年目になるリィーノだったが、裏庭を訪れるのは初めてのことだった。引っ込み思案で、全ての時間をユニコーン――とりわけモノックのために費やしてきた彼女にとって、あの獣舎がある中庭以外は興味の外にあった。皇帝やそれに連なる貴族を馬車に乗せて城下をめぐるのも彼女の仕事だったが、城下の地図を覚えるのはモノックを迷子に付き合わせたくない、その一言に尽きる。
「綺麗な場所……」
そんな風変わりな彼女だったが、感性は人並みのようだ。チラチラと閃いては網膜を刺激する青色を眺めていると、むずと腕を掴まれ引っ張られるような気分になった。引き寄せられる、吸い込まれる。正体不明の引力に心を――魂を連れ出されているようだった。
「娘、何をしている」
はたと我に返り立ち止まって、踵を返す。泳いだ視線の先には白い外套をまとった老人が立っていた。リィーノは彼に見覚えがあった。
確か、ケーテフ。皇帝秘術団団長、パドフ・ケーテフ。長らくその座に身を置く軍の重鎮だ。年始や皇帝および王族生誕祭などの祝い事に行なわれる街頭演説や行進で、度々見かけたことがある。
「この裏庭は王族と、王族に許しを得た者以外の立ち入りを禁じられている聖域だ。部外者が侵入できぬよう、厳重に警備されていたはずだが、どのように迷い込んだ?」
リィーノは答えられなかった。我武者羅に、無我夢中に、一心不乱に走っていたら辿り着いたのだなどと言って信じてもらえると思えなかった。
「こと、〈泉〉に近付くなど自殺行為と心得よ」
「自殺行為……?」
「王族は古来よりあの〈泉〉と共にあった。〈泉〉がもたらす強い聖力に身体が順応している。しかし我々は違う。我々があの〈泉〉に触れようものならば、肉体のあらゆる箇所が不浄と見なされ、あっという間に熔けてしまう」
「そ、そんな……、知りませんでした」
「〈泉〉の源泉は、我々が普段口にする飲み水と同じ、霊峰トラディアル山脈からの地下水であるが、何故かあの〈泉〉だけが異なる水質と、特殊な力を持つ。王族はその力の籠を受け、今日までその血と歴史を紡いできたのだ。由緒ある場所であること、理解できるか?」
「は、はい、申し訳ありませんでしたっ」
「その身なり、馬丁か。然程幼くもないだろう、務めて何年になる?」
「九年になります……」
「それで聞いたこともないと?」
「わ、私、ユニコーンのことしか興味がなくて。ここへも今日初めて、偶然来てしまって」
ケーテフは彼女の瞳をのぞきこんだ。
「黒髪に青い瞳、何よりやや黄色い肌……混血児か」
リィーノは途端にばつが悪そうに顔をうつむけ、手で髪や顔を隠すようにした。
彼女は孤児である。物心ついた頃には西の町の孤児院に居て、ひょんなことからこの城の馬丁となった。同僚もほとんど似たような境遇の者ばかりで、皆それなりの苦労をしてきたからか、偉ぶる者もいなければ、差別主義者のような者もいなかった。
しかし、貴族は違った。ほとんどの者が、己が身に流れる由緒正しき血統に誇りを持ち、異国の血を宿す者を軽蔑していた。その嫌悪感をわざわざ口にする者もいれば、態度で示す者もいる。リィーノ達はそんな連中を前にすると途端に委縮してしまって、こうやって身動きがとれなくなってしまう。
また酷いことを言われる。直しようのないことを罵られる。私達はただ、ユニコーン達の世話をしているだけなのに。迷惑一つかけていないのに。
ここにいることそのものが迷惑だとするならば、どうすればいいのだろう。
「怖がらずともよい。他意はないのだ。しかしあの獰猛なユニコーンに認められておるのだから、お前の魂は我らよりも清らかなのだろうな」
リィーノは呆気にとられた。彼の手が頭に伸びてきた。先の言葉ですっかり警戒心が解けてしまった彼女は、なでられることに抵抗しなかった。
しかし、彼の手は彼女の頭には触れず、空を掴むようにしてから引っ込んでしまった。彼の目はどこか寂しさに濡れているように見えた。
「帰りなさい」
瞬き一つ。その刹那のうちに、ケーテフは姿を消していた。周囲を見渡しても彼の痕跡を何一つ見つけられない。
これは、《瞬間移動》だ。術者の任意の場所へ、瞬時に空間移動できる高等秘術だ。術者の能力が高ければ高いほど、移動可能距離は伸び、また壁などで隔絶された場所の内部にも侵入できる。
類似した術に《移動聖術》、《移動魔術》がある。いずれも術者が聖魔それぞれの陣の上に立って術を発動するが、移動先も陣が敷かれた場所に限られる。
対して《瞬間移動》はほぼ術者の潜在能力にのみ依存している。全ての術と同様に、体力や精神を疲弊させるだけ。聖魔の術を極めた最上位秘術師の代名詞と言える。
音もなく消えたケーテフが残した言葉を、リィーノは素直に実行した。去り際に今一度、〈泉〉へ振り返ろうという気は起らなかった。
〈泉〉もまた素直だ。木漏れ日を散らせ、見る者の心をつかんで離さない美しさを放ち続けている。
そこに悪意もなければ善意もない。
【次回予告】
そこに集うは仮面の群れ。
欺瞞と私利私欲の坩堝の中、純真な少女の振る舞いに人々は騒然とする。
そんな彼女を我が物とせんと、あの男が動き出す。
次回、第一章〔二‐4〕 仮面の夜
華やかな夜、それもまた仮初め。