〔二‐2〕 ロニウス・ジア・ボラン・トラディウス
【前回までのあらすじ】
トラディウス城の宮殿は王族の住まいである。
第二皇女シャーネテールは弟である第二皇子メディオを使って、異母兄である皇太子ヴィセックを探させていた。
当のヴィセックは、皇帝である父とその側近である大公爵との怪しい会話に聞き耳を立てていた。
彼らの隠し事にヴィセックは苛立ちを覚えていた。
トラディウス城。
旧暦――カレア歴六一六年に創建された、現存する中で世界最古の城である。増築を重ねながらも、“絶世の美”を追求した建設者メーシトリンの理念を受け継ぎ、左右対称の意匠にこだわっている。数えて三〇七九年もの間、トラディウスという国家の象徴としてあり続けている。
城は帝都の南三分の一を占める。幅の広い水堀に橋が渡されており、帝都を覆う幕壁よりもいくらか高い壁に城門が設けられている。
城門の向こうは大きく三つに構成されている。
橋を渡って正面はトラディウス城。正方形に区切られた壁にへだたれており、最も広い面積を誇る。壁の四隅と北以外の三方角、計七ヶ所からは側防塔が設けられている。その内部には、政治や軍事にたずさわる大貴族や騎士、世話役の使用人達が常駐している。城の中央には王族の居城である宮殿があり、それが帝都で最も高い建造物となっている。
向かって右手――西側には貴族達の屋敷が並んでいる。大貴族やその遠縁が悠々自適に暮らしている。
向かって左手――東側には上級騎士やその家族の住まい、そして新たな兵器や秘術を開発する基地などがある。
いずれも広大な敷地面積を有しており、城下のようにせせこましい様子は見受けられない。
城門をくぐったセイル・モーランとラナン・コスターは、正面トラディウス城へと通された。大門で行なわれたような審査も何もなく、門番はセイルの顔を確かめるやすんなりと彼らを通した。
扉の向こうには、外観と同じく白い壁と青い柱で彩られた玄関広間がある。この一年、各地を巡ってきたラナンだったが、かつてないほど豪華絢爛な建造物に興奮しっぱなしだ。いかにも高価そうな調度品の壺に目を輝かせるだけならまだしも、考えなしに触ろうとするので、セイルは羽交い絞めして止めなければならなかった。
騒々しく恥ずかしい醜態に、城で働く使用人達が白い目を向けている。セイルが苦笑と会釈でやり過ごしていると、「セイル! よう参った!」と大きな声が廊下からとどろいた。
小太りの老人が、通りの真ん中をズカズカと歩いてやってきた。
「大公閣下!」
丸い顔と同じく丸い図体。手足は短く、背も低い。八の字を描く口ひげに、筆の穂のようなあごひげ。絵に描いたような寸胴を歩かせるたびに、頭に乗せている小さい礼帽が揺れているのはそこはかとなく面白い。
セイルはラナンの耳に口を寄せ、「大公爵ドルネット・ハンゼン大宰相閣下です。陛下のご政務を補佐しておられる、言わば陛下の右腕です」
「んーと……、すんごい人ってことですか?」
「とてもとても偉大なお方です」
ほえーと呆けるラナンをよそに、セイルはドルネットと再会の喜びを分かち合った。
「久しいな、特別近衛兵!」
「その肩書きで呼ばれますと身が引き締まる思いです」
「見ないうちに男っぷりが増したのではないか、うん?」
「当時はまだ一〇代の子供でしたからね」
「変わらず謙虚な男だ。が、確かに、大人にはなったみたいだのう?」
ドルネットのにやけ面がラナンに向けられる。
「ち、違います!」とセイルは咄嗟に誤解を解こうとするが、「わたくしラナンと申します。主人が大変お世話になっております」とまたもや良妻ラナンが現れた。
「おぉっ、まさかあの堅物セイルが、こんなにもうら若き乙女をめとっておろうとは!」
「乙女だなんて、オッホホホ。お上手ですわね♪」
「セイルよ、水臭いではないか。便りの一つでも寄越せばいいものを」
「そうですね。後でしっかりと真実をしたためますので、よくご覧いただきたく存じます」
「どうした、セイル。何を怒っておる?」
「そうよ、アナタ。たいしょ……ん? さいこう……んん? このお爺さんに失礼でしょう?」
「メッキが剥がれていますよ、ラナンさん」
「わーお!」
愉快な奥方だと笑い飛ばすドルネットは、謁見の間へと客人達を連れ出した。道中、セイルはラナンとの馴れ初めならぬ、出逢いと現在の関係をかいつまんで説明した。
「スマライセのコスター……。はて、以前耳にしたような気がするのう」
「……そうそう、気のせいじゃないですか?」
ラナンは心底からバツが悪そうな表情を浮かべて流そうとした。
「そうかのう」
「そうですよ。片田舎の話が帝都に届くはずがありません」
「ラナン嬢、そうでもないぞ。この国には幾重もの情報網が張り巡らされておる」
「じょーほーもー?」
赤紫の絨毯が敷かれた長い廊下が続く。
ドルネットがいるからだろう、兵や使用人が道の端に寄り、敬礼やお辞儀をする。その度に何故かラナンは自分が敬われているような気になって鼻を高くした。
たしなめるのも疲れた様子のセイルに、「先程は騎士と鷲獅子が世話になったようだのう」とドルネットが謝意を述べた。
「よくできた偶然でした。居合わせることができてよかったです」
「こやつと同道しておったなら、お嬢さんもグリフォンを見たはずだな?」
「うん、いや、はい、見ました」
「アレは城で飼育しておる一頭だ。全部で一五頭になる。空から領土の安全を守らせておる。異変が起きればこちらに秘術まじりの鳴き声で知らせ、すぐに現場へ急行するよう訓練させておるのだ。帰ってきたグリフォンの記憶を通して、情報を取得することもできる」
「でも、スマライセでグリフォンなんて一羽も見たことありませんよ?」
彼女の素朴な疑問に、「それは当然だ」とドルネットはにこやかに答えた。
「グリフォンは非常に賢く、底知れぬ体力の持ち主だ。丸一日、空高くを飛び回ることができ、翼を休めるときも人目を忍ぶ。偵察を任せるのにうってつけの獣なのだ」
「じゃあ、私が気付いていなかっただけで、グリフォンは私のことを見ていたかもしれないんですね?」
「そうかもしれんのう」
老人と笑みを交わらせたラナンだったが、すぐに視線を逸らした。両の拳を握るのをセイルは見逃さなかった。
スマライセで出逢った当初から、ラナン・コスターは明るい少女だった。今以上に天真爛漫、純真無垢。それは何も知らなかったからとも言えるだろう。
本当に、何も知らなかったのである。
善悪の区別ですら、何も。
曇る彼女の表情にドルネットも気付いたらしく、「グリフォンだけではない」と穿鑿せずに話を続けた。
「あらゆるものを駆使して、我々は情報をかき集めておる。その昔、カレア教団を通して得ていた情報を、様々な方法で行なっておるのだ」
「カレアきょーだんって、何でしたっけ?」
本気で言っておるのか。
驚きを禁じ得ないといった具合のドルネットの視線は、自然セイルに向けられた。セイルは両手で顔をおおっていた。
「彼女は貴公の教え子であり付き人という話ではなかったか?」
「教えました。教えたんです、必死に! ですが彼女の頭は穴の開いた器のようなものでして、辛うじて張りついた水滴くらいしか記憶に残ってくれないのです!」
セイルはおいおいと泣きじゃくり、小さくうずくまってしまった。ラナンはそんな彼の肩に手を置いて、「お爺ちゃんったら酷い! 先生をイジメたのね!?」と声を荒らげた。
「儂じゃなくね!? お嬢ちゃん凄いね、儂も泣きそうだわい!」
しばしの間、男達の嗚咽が廊下に響き渡っていた。
謁見の間。
登城を認められた者が、皇帝とそれに仕える者達への拝謁を許された場所である。
多くの国家、城の例に漏れず、この大広間の最奥にも三段高い場所に舞台が設けられている。しかしそこに玉座が見当たらないのは、世界広しと言えど、このトラディウス城だけだ。
ドルネットの許しを得て、セイルはラナンと共にこの大広間へ通された。青く大きな両開きの扉をくぐると、ラナンはまたもや圧倒された。
青と白の対比がより鮮やかな空間。調度品は数えるほどしかないが、素人目で見ても玄関広間のそれとは比べ物にならないほど高価であることは理解できた。それらよりも目をみはるのは、正面最奥の壁にかけられた二枚の巨大な織物と、それらに挟まれるようにしながら一際力強く主張する国旗である。
向かって左の織物にはグリフォンが描かれている。宝石をくわえて天を羽ばたくその獣を、青い泉のほとりにたたずむ銀髪の青年が見上げている。
向かって右の織物には長い一本角の白い獣が描かれている。青い泉の周りを歩くその獣の視線の先には、野花を愛でる金髪の少女の姿がある。
そして中央の国旗には神獣――黄金獅子が描かれ、凄まじい剣幕で見る者を威嚇している。
美しさと恐ろしさが同居した光景にラナンは息を呑んだ。くらりとしてふと天井を見上げた彼女は、唖然として動けなくなった。
天井に絵が描かれていた。中央の青い泉を主役に、織物と同じように青年と少女や、グリフォンと白い獣が小さく描かれている。それだけではなく、様々な出で立ちの人々や獣、風景も描かれており、右回りにトラディウスという国の発展の歴史が描かれている。
「ラナン嬢、前へ」
ドルネットにうながされてようやく我に返ったラナンは、すでに広間の中心でひざまずいているセイルへ駆け寄った。
広間には先程まであった赤紫色の絨毯はない。セイルの見様見真似で硬い石の床に右ひざをつき、立てた左ひざに右手を置いて、左手の甲を背中に当てた。頭も垂れると、先の扉から次々に人が入ってきた。
ラナンはちらと視線を上げた。いかにも貴族といった堅苦しい身なりの男達が、彼らの左右に整列していた。右手の列の最奥にいるドルネットが微笑をたたえながら、彼女にうつむくよう手ぶりをしてみせていた。
良い人だ。セイルが慕っているのもうなずける。ラナンは顔をほころばせながら、言われたとおりに頭を下げた。
しかし、この後はどうするのだろうか。目を閉じるの、閉じないの?
粗相をすれば、扉のあたりにいる衛兵達に首根っこをつかまれて追い出されてしまうのだろうか。それともその場で斬られてしまうのか。
疑問が疑問を呼ぶ中、ラナンは足もとの異変に気付いた。
「水……?」
ラナンは目をむいて立ち上がった。足もとが水浸しになっているのだ。
うそ、うそうそっ、私ったらこんな歳でオネショしちゃった!?
心の声が口からもれそうになった。
やや赤面しつつ顔を上げると、セイルの足もとも水浸しになっていた。正しくは、この謁見の間全体が水浸しになっていた。
それなのに、ラナン以外の誰一人、それに見向きもしていない。気付いていないわけではない。動じていないのだ。
さも当然のことのように受け入れているようだった。
私がおかしいの? どうして誰も驚かないの?
あっと、彼女は思い至った。先程の中央広場の記念碑の水と同じか。あれは秘術で操作された濡れない水であったはずだ。ならば動じる必要ないはずだ。
しかし水位は次第に腰にまで及ぶ。どきどきハラハラしていると、舞台の両袖から管楽器をたずさえた兵士と侍女が二組現れた。兵が楽器を吹き鳴らし、高らかな旋律を広間に響かせた。すると舞台の中央が光り輝き、さらに大量の水がいつの間にかひざまずいていた一同を呑み込んだ。
ラナンの短い悲鳴を、「「トラディウス皇帝二世陛下のおなぁ~りぃ~!!」」と叫ぶ兵達の声がかき消した。
一層輝きを増す舞台に影が映る。大波が渦を巻き、風と共に去っていく。
綺麗だ。
混乱していたはずの頭を、あまりに美しい光景が正常化させていく。気付けばラナンは自らの意志で片ひざをついていた。
そうして光が散り、その男は現れた。
豪華な玉座にかけ、使用人の女を抱きながら、「良いではないか、一回だけ、な、一回だけチュッとの?」と懸命に嫌がる彼女に唇を寄せる、白髪交じりの銀髪と長い口髭が目立つ老君が。
「だからっ、イヤですってば!!」
パチン。
老君は頬を叩かれた。女はプンスカと怒って舞台袖に消えていった。
その様子からドルネットら貴族は目を背けた。
「先生、嘘ですよね。あの変態ジジイが皇帝?」
ラナンは玉座にかける長身痩躯の老人を指さした。老人は彼女に、いや、謁見の間に聖術で召喚されたことにようやく気付くや、今更そそくさと居住まいを正しはじめた。
「ラナンさん、気持ちは分かりますが、ホント慎んでください」
セイルはなおも頭を上げず、平服の態度を継続する。
「でも先生、私すんごく嫌なんですけど」とラナンは生理的に受けつけないといった表情を隠そうともしなかった。
「嫌がってもあのお方こそが、トラディウス帝国第二代皇帝――ロニウス・ジア・ボラン・トラディウス陛下であらせられます」
「何か腹立つんですけど。何その長ったらしい名前。名前長かったら偉いんですか、何しても許されるんですか?」
「セイルよ」
しゃがれた声が部屋に響く。「は!」と短く応じるが、セイルは顔を上げない。それが礼儀礼節というものだからだ。皇帝に声をかけられたのだから、なおのことだ。
一方、ラナンは気にせず、皇帝を睨んだ。
青を基調とした仰々しい衣装、頭にのせた王冠、白い肌に銀髪と青い瞳。今の“珍事”さえなければ、きっと自分も平伏していたに違いない。偉い人なのだと、無条件に。
だが、もうやる気が失せた。一国の王だろうが、発情したジジイほどみっともないものはないだろう。誰が話を聞くか、耳が腐る、言葉を交わせば口がただれる、汚らわしいっ。
「もっかいやり直していい?」
「陛下……」
少女の侮蔑の眼差しに耐えかねたか、皇帝はねだるように問うた。
セイルが言葉を選んでいると、「先生」と呼ばれたので振り返った。
「私、気分悪いんで早退します」
学校じゃないんですから。
そんなツッコミがのどまで出かかったが、彼女の人でなしを見るような目に圧し負けて、「お大事に」と答えてしまっていた。
ふんっ。彼女は踵を返すと、扉の前に立つ衛兵達を、「邪魔よ!」と押し退けて退出していった。
彼女の身長の三倍はあろうかという高く大きな扉が乱暴に閉じられるや否や、「ご、ご無礼をお許しください!!」とセイルは嘆くように訴えた。
すると皇帝ではなくドルネットが歩み出て、「よい。今のは陛下が悪い」と正直に答えた。
「ドルネット。そこは儂を庇うところじゃないかね」
「やかましわ! こんの、帝国の恥さらしモンがぁっ!!」
ビクリと肩を揺らした皇帝ロニウス陛下御年七三歳は、すっかり年老いてつぶらになった瞳に涙を浮かべた。玉座に両足を乗せ、ひざを抱えると、頭をうずめた。
するとまたぞろ舞台が光り出し、彼を玉座ごと呑み込んだ。それが晴れたとき、彼の姿はなかった。足もとに残された濡れない水が、まるで彼がこぼした涙のように見えた。
皆、一様に嘆息を漏らした。
情けなく恥ずかしくも、これが世界最大の国力を有するトラディウス帝国の君主と、それに振り回される国政担当らの実態である。
【次回予告】
その白き獣は清きものを好む。
それを世話する乙女達は、自らに芽生えつつある人の性に戸惑いはじめていた。
ただ一人を除いては。
次回、第一章〔二‐3〕 乙女と一角獣
避けられぬ出逢いに、泉は何を想うのか。