〔二‐1〕 高貴なる一族
【前回までのあらすじ】
“北の大門”から続く大通りを真っ直ぐ南下するセイルとラナン。
彼らは城下の中心部にある広場に踏み入った。
そこには秘術で作られた巨大な水の柱が建国記念碑として佇んでいた。
突如崩れ去るその柱の中から、一体の銅像が現れた。
それはかつて世界を救った英雄アレス・ラディオンを讃えたものだった。
〈トランナトスの泉〉。
それは帝都の最南部――トラディウス城の広大な裏庭に隠れるようにしてある。はるか南に位置するトラディアル山脈からの地下水が湧き水となって、その泉を形成している。
太古の昔、この泉に近付くものはいなかった。あらゆる生物から恐れられていた。その泉の水に触れればたちどころに、皮膚はおろか、骨の髄まで熔かされてしまうからだ。
しかしあるとき、飢えた古代人が一人、深い森の奥地にあったこの泉を見つけた。絵の具を落としたように真っ青なこの水を、その者がどう思ったのかは定かではない。ただ確かとされているのは、その者がこの泉の水に触れたとき、彼の指も、腕も、潤した喉さえも、熔けることも爛れることもなかったということだ。
その古代人は泉の水を飲んだことで、強い“力”を得たという。その噂を聞きつけ、あらゆる者達が泉の水をすすって“力”を得んとやってきたが、飲み込むどころか、手足を熔かし、命を落とすばかりだった。
その者の子が生まれると、子もまた、同じように泉の水を飲むことができた。このときはじめて、他の者達は彼らをあがめることとなった。“泉に認められた、高貴なる者達”であると、彼ら一族を奉ったのである。
トラディウス王家の誕生である。
以来、王家とそれに連なる豪族達は、〈トランナトスの泉〉を国家の象徴として守ってきた。
王家が得た“力”とは、秘霊力の中でも特別なものである。王家の始祖が有していた“泉への耐性”と、始祖が泉から得た“特別な秘霊力”。この二つを背景に、王家は大陸全土を支配するに至った。
泉を囲うように生まれた村は、やがて町となり、都市へ、国へと成長した。今では都市を囲う壁よりもさらに高い城が建ち、世界最大の権威を主張している。
故に、王家・国家の基調色は青である。また泉に認められた一族であるその高潔さを白色で示し、王家特有の髪色である銀色や、特権の象徴としての金色をあしらって、国旗や国章が彩られている。
トラディウス城にもその四色が用いられている。青い柱に白い壁。しかし廊下に敷かれた絨毯は赤紫色だ。それは長年の宿敵バリムンド王国の基調色で、冷戦状態になって久しい今でも用いられている。
そんな絨毯の上をタタンと小気味よい調子で跳ねる少女がいる。
「リ・ル・お・ねー・さまっ!」
両足で着地した彼女は、姉の両肩をつかんで続けた。
「お兄様をお見かけになられませんでしたか!?」
「何です、シャーナ。藪から棒に」
すらりとした背格好の姉は怪訝な顔を妹に向けた。二人はきらびやかな婦人礼服を身にまとっている。姉は長い銀髪を後ろにまとめ、妹は両耳の上で結わえている。
「ですからっ、お兄様がお見えにならないのです!」
「朝食の後から見ておりませんわ。お兄様に何かご用?」
「“ハイダンシー”をしているのです! 私が“悪魔”なので、あの方を捕まえなくてはなりません!」
ハイダンシーとは、子供の遊びの一つである。
“悪魔”役を一名選び、それ以外は“ヒト”とする。“ヒト”は“悪魔”に見つからないように逃げ隠れしなくてはいけない。
“ヒト”は“悪魔”に触れられると“悪魔”になってしまう。対して“悪魔”は、“ヒト”に背中を叩かれると、その遊びから退場しなければならない。
また、“ヒト”の中から一名“英雄”役を選ぶことができる。“英雄”は“悪魔”に触れさえすれば、“悪魔”を退場させることができる。しかし“英雄”もまた、“悪魔”に背中を叩かれると“悪魔”になってしまう。
ちなみに“英雄”役は赤いひもを体のどこかに結んでいるが、それは衣服で隠していても良いとなっている。“悪魔”は最初、誰が“英雄”か判別できないため、単純に“ヒト”を襲おうと考えているだけでは返り討ちにあってしまうこともある。
こうして全員“悪魔”になるか、全ての“悪魔”が退場しない限りは終えられない、何とも奥深い遊びとなっている。
「ハイダンシーだなんて。アナタがやる歳ではないでしょう?」
姉の言は正しい。ハイダンシーの対象年齢は一〇歳ほどまでだろう。しかしこの妹は先日一六歳を迎えた。婦人らしいたたずまいを身につけなければならない年頃である。
姉は高い鼻から短く息をつくと、「シャーナ。いえ、シャーネテール第二皇女殿下」と背筋を正して妹に呼びかけた。「はい、何でしょうか。リエルロット第一皇女殿下」と妹も同じようにあごを引いて居住まいを正した。しかしその表情はややとぼけており、真剣味はあまり感じられない。
「アナタがこれからどう生きていくのか、私が定めるところではないでしょう。ですが、くれぐれも礼儀作法だけはお忘れなく。アナタはれっきとした、栄誉あるトラディウス王家の血族なのですから」
「お言葉ですが皇女殿下。それは決まりでありましょうか」
「はい。王族としての決まりであります」
「決まりは守るものでも破るものでもないとヴィセック皇太子殿下はおっしゃっておいでです」
「では、決まりとは何とするものですか」
リエルロット・ジア・フェイツ・トラディウスの青い瞳を、シャーネテール・ジア・フェイツ・トラディウスも同じ色で受け止め、「己の都合よく、そっと書き換えるものだそうです」と淡々と答えた。
今度は深い息を吐き、「……相変わらず詭弁がお好きなお方だこと」と第一皇女は首を横に振った。
第二皇女は姉の気苦労も知らぬ存ぜぬで、「それでお姉様、お兄様はどちらへ?」と問いを繰り返した。
「ですから、私は知りません。メディオがご存知なのでは?」
「アレにはもう城中を探させています」
「全くアナタという人は……。可愛い弟を奴隷のように扱って」
「意気地なしの男に生きている価値がありますか? 私は姉として、彼が一人前の男となるよう鍛えているまでです」
シャーネテールは可愛い顔をしてそんなことをのたまった。
我が妹ながら恐ろしい子とリエルロットが顔を引きつらせていると、背後で何かが割れる音がした。びくりと肩を揺らしてから振り返ると、廊下の突き当りから水が広がっていた。絨毯の色が濡れてさらに濃くなっている。
「何事です……?」
「あ!!」
シャーネテールは廊下の窓を見て声を上げると、はしたなくも礼服の長い裾をたくし上げて、突き当りのほうへと猛然と駆け出した。まさしくあっという間に角を曲がっていく彼女の姿を窓越しに眺めていると、彼女が目指す先に見慣れた丸い背中を見つけた。
メディオ・ジア・フェイツ・トラディウスの情けなく小さな背中だ。トラディウス帝国第二の帝位継承権を有する、わずか八歳の少年である。
どうやら廊下の角にあった花瓶を割ったらしい彼は、持てる力全部を費やして疾走したつもりだった。しかし、その速度はあまりに遅かった。すぐに“悪魔”――もとい、姉シャーネテールに捕まってしまった。腹ばいにさせられ、背中に乗られ、腕で首を締めあげられている。
「ぼ、ぼべんばはいぃぃ!!」
「わかんなーい、何て言ったのー!?」
「いぎ、いぎでぎあい!」
「お止しなさいな、シャーナ!」
遅れてやってきた姉にたしなめられて、シャーネテールはようやく弟を解放した。
「ひ、ひどいですよ、シャーナおねえさま!」
「何度言えば分かるの? 私を世間と思いなさい、この世の厳しさと心得なさい」
「シャーナおねえさまは、シャーナおねぇさまだよぉぉ」
「そうです、シャーナ。アナタも俗世のことなど何も知らないでしょうに」
「いいえ。私は常々、ドルネットやジックから世界のことを聞き、学んでおります」
「はいはい、そうですか。それでメディオ、何故逃げたのです。いつものアナタなら、花瓶を割ってもその場で立ち尽くすばかりではありませんか」
メディオはよく粗相をする。花瓶をはじめ、様々な調度品を傷つけ、壊してしまう。決してわざとではなく、いずれも不注意によるものだ。そしてその度に彼は動揺し、顔をうつむけ、べそをかいて立ち尽くす。あまりに情けなくて、ノロマでトンマな自分を恥じ入って、動けなくなるのだ。
「な、なんでもありません……」
廊下に座り込んだまま、彼は顔を背けた。そんな彼の目をのぞき込むシャーネテールは、「お兄様を見つけたのね?」と核心を突いた。
素直に固まってしまったメディオはまた首を締めあげられた。朦朧とする意識の中、少年は記憶をさかのぼった。
――――せっかく、おえかきしていたのに。
メディオは世間一般的には落ちこぼれと言える。皇子でなければ誰にもちやほやされない、そんなちっぽけな存在かもしれない。
姉シャーネテールの言いようも分からないでもない。だが、人には向き不向きがあって、勉強も運動も、自分には才能がないと諦めている。唯一楽しいと思えるのは絵を描くことだけで、それは父や先生に褒められていた。
だからとても大切にしている楽しみを奪われてしまうのは酷く悲しいことだった。嫌だと突っぱねられない自分が何より嫌だった。
無闇に抗うことすら諦めて無気力然としている彼は、姉に言われるまま兄ヴィセックを探した。宮殿内をとぼとぼと歩き、窓から青い空を眺めた。ぽろりと溜め息がこぼれては、足もとに落ちた。
足取りが重いのは、シャーネテールよりもヴィセックのことが苦手だからだ。
ヴィセック・ジア・ルース・トラディウス。帝国第一位帝位継承者。満二六歳。亡き皇太子妃アイーラ・ルース・トラディウスの忘れ形見。
アイーラは現皇帝がまだ皇太子であったときの妻である。後妻となったキンリー・フェイツ・トラディウスが公的には皇妃とされるが、彼女もまた亡くなっている。つまりヴィセックは、メディオらの異母兄に当たる。
ヴィセックは涼しい顔をして何でも率なくこなす美青年で、稀代の女たらしだ。しばしば城から抜け出しては、様々な町娘と逢瀬を重ねているという話だ。
彼らの父こと現皇帝やその側近である大公爵も彼のことが悩みの種で、早く決まった一人の女性を選んで結婚させたいようだが、どうにも貴族の娘は性に合わないらしい。かと言って、町娘のいずれかを愛しているかと言えばそれも違うようだ。
そんなヴィセックを、貴族らが時折陰で小馬鹿にしているのを耳にすることがある。“あの親にして、あの子あり”――と。
幼いメディオには分からない話だったが、皇帝と同じで“元気が有り余っている”ということのようだ。
げんきなのに、なんでバカにするんだろう。げんきじゃないぼくよりも、きっといいはずなのに。
そうやって素朴な疑問を抱えるメディオとは裏腹に、ヴィセックは自由気ままに日々を謳歌している。他人に悩みの種を植えつけて、自分一人お気楽に過ごしている。
“殿下お二人を足して二で割れば……”
侍女らがそんな軽口を叩くのを小耳に挟んだ。メディオの中で暗いものが鎌首をもたげるのも仕方のないことだった。
ヴィセックは確かに皇太子らしからぬ言動が目につく。しかれども、人として、男として、自分よりもはるかに優れているとメディオは思わざるを得なかった。
羨ましい。羨ましくて、腹立たしい。彼を越えられないと分かり切っている自分が情けなくて、腹立たしい。赤の他人であれば、どれだけ気が楽であったか。
日増しに重くなっていく感情の行き場を探すように、メディオは下を向いて城内を練り歩いた。見つけられなければシャーネテールに締めあげられるだろうが、ヴィセックを見つけてしまうことも嫌だった。
廊下の角の壁際に人影を見つけた。メディオは生唾を飲み下し、ギュッと拳を握った。
あぁ、嫌だ。何と綺麗な横顔か。何と凛々しい出で立ちか。
そこに御座すは、ヴィセック・ジア・ルース・トラディウス皇太子殿下その方だった。
『お、おにいさま、なにをしているの?』
トラディウス王族の特徴である銀色の髪に、青い瞳、毛穴の黒ずみすら見られない透明感のある白皙。中でもこの男のそれらには一際品がある。
同じ青でも深さと輝きを秘めた眼光が少年に突き刺さった。途端に金縛りに合ってしまう彼に、次代の王は手招きをした。立てた小指を口の前に持っていき、“静かに”という合図を送られた。
どんくさいメディオだったが、そのときばかりは言いつけを守ることができた。抜き足差し足忍び足、衣擦れの音まで気にしながら、兄のもとへと近づけた。
すると、ヴィセックは笑顔で迎え入れてくれた。しかし大きな手で口を塞がれ、耳元に口を寄せられた。
『黙っていないと、シャーナが大切にしていたガラス細工を割った犯人の名前を言いふらすからな』
それはひと月ほど前のこと。夏場でもないのに妙に寝苦しい夜。メディオはふと思い立って部屋の窓を開けた。すると突風が滑り込んで、部屋の中を好き放題に掻き回していったのだ。
本当に一瞬の出来事だった。彼が慌てて窓を閉めた頃には、部屋は空き巣にでも入られてしまったような目も当てられない有様と化していた。
かたづけなくちゃ。じゃないと、おねえさまにおこられる。
メディオはシャーネテールと同室である。彼女も年頃ということで、まもなく彼女の一人部屋が用意されるところだった。
彼女の机の上にはその新しい部屋に飾るための調度品が並べられていた。それらが今の突風で吹き飛んだのではないかと気が気でなかったが、一つも壊れてはいなかった。
しかし、ほっと胸をなでおろすメディオが一歩踏み出したときだった。床に散らばったメディオの本に彼自身がつまずいてしまったのである。
前のめりになったどんくさい弟が、恐ろしい姉の机に向かって倒れてしまうという図は想像に難くないだろう。絵に描いたように落ちていく調度品のガラス細工は、とても綺麗な光を散らせて砕けた。
その様子を魔の悪いことに、兄ヴィセックに見られてしまったのである。そのときは、お前のせいじゃない、俺が何とかしてやると彼は言ってくれていたのだが、まさかこんな場面でその恩を返せと言われるとは思いもよらなかった。
回れ右、来た道を戻れとうながされたメディオは、顔面蒼白で踵を返した。何について”黙っていろ”ということなのか分からないまま、彼は自室へと帰った。その道すがら、廊下に姉達の姿を見つけ、ついつい花瓶にぶつかってしまったのだった――――。
城にある七つの塔のうちの一つ――北西の塔はヴィセックの憩いの場所である。
ここには愛する妹達はおろか、下々の女達を連れ込んだこともない。独りでひっそりと考え事をするときに足を運んでいる。
塔の屋上近く、吹きさらしの窓に腰を下ろし、外を眺める。今日も抜けるような青空の下、我が帝都は活気に満ちあふれている。ひと月前の嵐を最後に、風は穏やかなままだ。たまに降る雨も心地いいくらいで、気の滅入るものではない。
平和な日常だ。幼い頃の陰鬱な世界は、もうここにはない。
全てはアレス・ラディオンとその一行のお蔭。
ヴィセックは年端もいかない頃に彼らに逢ったことがある。しかしその記憶は曖昧だ。父曰く、抱きかかえられ、遊んでもらったこともあるらしいのだが、その時の彼の表情は一つも思い出せない。彼について思い出せるのは、もっと強烈な出来事ばかりだった。
お忍びで街へ繰り出し、中央広場の彼の銅像を眺めるが、無機質な人相からでは記憶の蓋を開けるのは難しいようだ。
そんな息子とは裏腹に、父は英雄と強い信頼関係を結んでいたらしい。だから彼の 訃報を聞いてからというもの、父はすっかり心を閉ざしてしまっている。常に平静を装っているが、息子にはその変化が敏感に感じ取れていた。
とりわけ、最近の父の様子はおかしいとヴィセックは看破していた。先程も廊下で大公爵と何やら意味深長な会話をしていた。
“――――来たか。それで、彼は何と?”
“報告どおりで――――”
メディオが邪魔さえしなければ、もっと聞き耳を立てていられたはずだった。彼らはヴィセックの気配に気付いて口を噤み、すぐにその場から立ち去ってしまったのだ。
思えば七年ほど前、記憶を掘り起こせば一五年前にも父は堅苦しい顔をして、北の空を眺めていた。そうした彼の真意を少しでも知りたくて、自分もこうしているのかもしれないとヴィセックは静かに思った。
「そう言えば、あの彗星は何だったんだ?」
一五年前と言えば、夜空をひとすじの彗星が照らした頃だ。当時は昼夜が逆転したような凄まじい光に、バリムンドの新魔術、魔王が復活した、〈天陽〉が落ちたなどと騒がれたものだった。しかし結論は何てことはない、ただの彗星ということで片付けられた。
だがヴィセックには気がかりがあった。その彗星から妙な気配を感じざるを得なかった。父も同じ感覚を得たのだとするならば、彼の強張った表情にはやはり意味があるに違いない。
「イライラするなぁ……」
愚痴をこぼした矢先、カランカランと鐘が鳴った。見下ろすと、城の正門が鈍い音を立ててゆっくりと開くのが見えた。
目を凝らし、男女二名が登城したのが分かった。
一人は見覚えがある。以前、城にいたキテーンの男だ。
もう一人は知らない。栗毛の三つ編み、目鼻立ちは俯瞰では判然としない。
だが、ヴィセックの嗅覚は鋭敏に働いた。いつものように、女相手にのみ精確に機能した。
「歳は一七。栗毛は東に多く見られる髪色。野暮ったい髪型から察するに、小さな田舎町の娘。背は高めだが、比較的童顔で愛らしい容姿。目の色は翠。性格は天真爛漫、やや馬鹿か……?」
いいな、俺好みだ。
彼はほくそ笑むと、足早に階段を降りていった。
【次回予告】
銀髪に、青い瞳、白い肌、長い口髭。
その老君に人々は平伏する。
それは忠義か、それとも……。
次回、第一章〔二‐2〕 ロニウス・ジア・ボラン・トラディウス
少女の想いは、たった一瞬で裏切られた。