〔一‐3〕 魂魄理論
【前回までのあらすじ】
鷹王弟の群れを前に、幌獣車を護衛していた騎兵隊はなすすべなく倒されていった。
一頭のグリフォンが彼らに代わって孤軍奮闘するも、瀕死の重傷を負ってしまった。
そこへキテーン秘術団五大大導師の一人であると名乗る青年――セイル・モーランが加勢した。
彼は〈魔術〉と呼ばれる力でジャターユを撃退しようとするが、制止を呼びかける声と一陣の風が吹くや、あえなく不発に終わってしまった。
さらにジャターユとグリフォンは服従の態度を示す始末。
動転するセイルは、自ずと幌獣車の中に注意を向けた。
そこには繋縛されたみすぼらしい少年が一人乗せられていた。
帝都ボルトエードは高さ三〇米、厚さ一五米の円形幕壁に守られている。いわゆる城郭都市である。
永い歴史の中、度重なる戦争で破壊されては修繕を重ね、平和となった昨今では過剰とも言えるほどの堅牢なつくりとなっている。
また、壁の中や上部で歩哨に立つ兵士達もほとんど無用の長物となって久しかったが、グリフォンが発した異常事態を伝える奇声を聞き逃してしまうほどマヌケではないようだった。
すぐに都内とその周辺の治安を守る見回り騎兵隊へ知らせたが、先に出動したのは予想外の部隊だった。
「ありゃあ、ジック・ガロン大隊長殿じゃないのか?」
「こいつはたまげた。我らが皇帝騎士団のお出ましだ!」
幕壁に作られた唯一の門をくぐって飛び出したのは、ジック・ガロン率いるトラディウス帝国軍皇帝騎士団騎兵第一分隊である。つまり皇帝を守る最後の盾であり剣。皇帝の命令なくして決して動くことのない忠臣中の忠臣からなる精鋭部隊だ。
本来、近辺のいざこざは門近くに駐在している見回り騎兵隊が率先して治めるものだが、今回はそれを押し退けて皇帝直轄部隊がバイコーンを走らせたようだ。
ジック・ガロンという男はまだ三一歳。それまで若くとも四〇代であった皇帝騎士団団長の座に二年前から就任している。それは彼の剣の腕がトラディウス帝国随一であり、他の騎士からのみならず国民からの信望を集める人柄があるからだ。
そんな彼を、人は“時代遅れの英雄”と呼ぶ。世が世ならその実力を戦場でさらに発揮できていただろう彼は、この平和な時代で獣退治のために城を飛び出した。
愛獣を駆り、黒い甲冑に青い釣鐘外套をはためかせる。するとジャターユ達は次々に飛び去っていく。その様を見れば、歩哨達は歓喜せずにはいられなかった。
一方、ジックの心中は驚きに満ちていた。
辺りは血の海。幸い死者は出ていないものの、騎兵隊の面々は残らず傷を負い、ほとんどのバイコーンは足を怪我して起き上がれないでいる。グリフォンに至っては瀕死の重傷を負っている始末だ。
「皆さん、すぐに治しますから、その場から動かないでください」
空の青よりも濃く、海のそれよりも鮮やかな瑠璃色の衣装はどこにあっても目を引く。特徴的な髪型とあいまって、どこか警戒心や緊張感が騒ぎはじめる。
キテーン秘術団。秘術と呼ばれる恐ろしくも強大な力を自在に扱う者達の一人が、血の海の中央に立っている。
惨状を目の当たりにして色めき立つ部下達を手振りひとつで制したジックは、青年の動向を傍観した。
「《闇を祓う手》」
彼はそうつぶやいただけだった。ただそこに立ち、口を動かしただけに過ぎない。
しかしそれだけで彼からまばゆくも白く柔らかい光が発し、惨状を包み込んだ。すると傷ついた兵の身体は見る間に癒え、バイコーンの折れた足の骨はつながった。グリフォンを苦しめる深い傷も何事もなかったかのようにふさがって、その目に生気が戻った。翼を広げ、青年をジッと見つめると、壁の向こうへと羽ばたいていった。
「……ちゃんと使えましたね。先程は一体何が起きたのでしょうか。私らしくもない」
セイルはジャターユを討てずに不発に終わった術のことを気にかけていた。あのようにくだらない失敗は幼い頃以来に思えた。
ジックはバイコーンから降りた。部下達に騎兵隊へ手を貸すよう命じると、青年に声をかけた。
「礼を言う。キテーンの……」
ジックは、ホッとした様子の青年の顔を見て、「貴殿、セイル・モーラン殿か!」
「これはガロン卿、ご無沙汰しております」
「アレは自分が団長を拝命したばかりの頃ですから……二年ぶりでしょうか?」
「えぇ。お元気そうで何よりです」
二人は再会の握手を交わし、喜びを分けあった。
最中、セイルの背中を誰かが指で軽くつついた。
「どなた様でいらっしゃらららられるるんですか?」
ラナンの壊滅的な敬語にセイルがげんなりしていると、ジックが自ら名乗り出た。
「自分はジック・ガロンと申します。もしや、モーラン殿の奥方でらっしゃる?」
どうしてそうなる。
セイルはつぶさに否定した。
「いえ、ちが――」
「はい、妻のラナンです。いつも夫がお世話になっております」
「急に流暢!!」
ラナンはこれ見よがしに外套の左右の裾をつまんで持ち上げると、片足を引いてから深々とお辞儀をした。帝国の伝統的な女性の挨拶、婦人敬礼である。
妻ではない、ただの付き人、生徒、弟子なのだと訴えるが、当のラナンは一度手にした配偶者という立場をゆずらず、ジックも彼女の話以外に聞く耳を持とうとはしなかった。
途方に暮れるセイルだったが、視線はやはり幌獣車に向いていた。そして脳裏によぎるのは、去り際のジャターユの眼差しだ。彼らもまた、幌獣車に目を向けていたが、それはセイルのものとは全く異なっていた。
形容しがたい名残惜しさが瞳を彩っていた。
倒れていたバイコーンの安全が確認されると、兵達の職務が再開された。セイル達も遠くに待たせていたグラネンが引く幌獣車に乗り、ジックに先導されて歩きはじめた。
「さぁ、止まれ止まれぇ! 一列だ、順番に一列に並べぇ!」
太い幹の高木のような男が声を荒らげる。彼は帝都の壁にある唯一の門――通称〈北の大門〉を守護する門番である。
長くいかつい槍をたずさえる彼の指示に従い、ジックはセイルを先頭に一同を縦列させた。
するとバイコーンから降りた騎兵隊長が、「待ってくれ。待ってください」と願い出た。
「先程は助けられました。ですがここは我々に先をおゆずりいただけませんか」
「何故だ」とジックが腕を組んで問う。
「移送の予定時刻を大幅に過ぎてしまいました。レロイアムの名をこれ以上貶めるわけには……」
「この方がどなたか存じ上げないのか? 陛下の――」
「どうぞ、構いませんよ」
ジックの言葉をさえぎって、セイルは如才ない笑みを浮かべて応じた。隣のラナンは良い気がしていない様子だったが、騎兵隊としては構っていられなかった。
ジャターユのせいで予定を狂わされてしまったばかりか、皇帝直轄部隊の世話にまでなってしまった。自分達の不様な行ないで、駐屯しているレロイアム村をおさめる子爵サルド・マイッツ卿の面を汚すことにもなりかねない。
恩に着る。隊長がセイルに告げようとしたその時だった。兜が宙を舞い、地面に転がったのだ。何事かと一同が目を剥いた頃には、隊長は尻餅をついて倒れていた。うめく彼の左頬は真っ赤に腫れていた。
門番の大きな拳で殴り飛ばされてしまったのだ。
「えええええっ!?」
ラナンは驚愕した。確かに横入りをされるようで気分が悪かったが、何も殴るほどのことではないと思った。
ラナン以上に動転したのは他でもない、殴られた隊長自身である。彼は頬をおさえて、「は、え、な、何を……!?」戸惑う瞳には当然、青筋を立てる門番の姿が映っている。
「この帝都ボルトエードはなぁ、出入の審査からして厳正中立を極めているのだ! 同胞の騎士団であろうがキテーン秘術団であろうが、あるいは聖職者風情であったとしても、横入りなど断じて許されん!! 魂に刻んでおくのだな!!」
無論、大帝陛下であってもだ!
鼻息荒く宣言する彼の視界の外れで、「要は順番を守れってことですか?」とラナンに耳打ちされたセイルはうなずいた。
「ラナンさん。これから審査がありますが、怖がることはありません。すぐに終わりますから」
「え、あ、はい」
どういう意味だろうとラナンは小首をかしげた。
門番は言った。
「良いか、後ろを見ろ。帝都を訪れたいのは、何も貴様らだけではないのだ」
一同は言われるままに振り向いた。確かに最後尾についたはずの皇帝騎士団のさらに後ろに、行商目的と思しき獣車などが何台も並んでいた。その列は門に向かって左に寄り、帝都を離れる者達が右側から出てきている。
「大人しく時を待て。大帝陛下のお膝元であること、ゆめゆめ忘れぬことだ。では先頭の者から順にゆっくりと進め!」
がっくりと肩を落とす騎兵隊長と入れ違いに、セイルはグラネンを歩かせた。門番の横を通り抜けるとき、セイルと門番が視線を交じらせるのをラナンは見た。
知り合いなのだろうかと問いが浮かんだ途端、視界が真っ白になった。
「え? 先生、これどうなって……って、先生!?」
厚い大門をくぐろうとしていたはずだった。大拱門状――上方向に凸型の曲線形状の梁――に切り取られた都の景色が見えていた。それが気付けば視界は真っ白、霧がかかったような状況になっていた。
しかも隣にはセイルの姿もなければ、正面にグラネンの姿もない。それどころか、獣車にすら乗っておらず、茫然と立ち尽くしていた。
「せんせーっ!? グラネーン!? どこ行ったのーっ!?」
叫ぶラナンを強い光が襲った。悲鳴を上げながら、顔の前で両腕を盾にした。
「――さん。ラナンさん。もう大丈夫ですよ、目を開けてください」
ラナンはセイルの声に導かれるようにしてゆっくりと目を開けた。すると白い霧はどこにも見当たらず、門の外から見えていた帝都の景色の中に彼女はいた。
幌獣車の座席に腰かけ、目の前にはグラネンのたてがみが見える。隣にはセイルが優しく微笑みかけてくれている。
「先生、今のは?」
「秘術の一種です。門をくぐる人々は、皆一様にあの白い霧と光を浴びることとなります」
ラナンは席から乗り出して、獣車の後方へ振り返った。北の大門から遠く離れており、東西に街並みが広がっている。
「審査は?」
「終わりましたよ」
「あの、よく分からないんですけど」
「興味がおありで?」
「はい」
試すようなセイルの問いに、ラナンは素直にうなずいた。
少しは物事への関心が出てきてくれたのかと思ったセイルは、高まる気持ちをおさえながら答えた。
「それではまず、以前の授業のおさらいをしましょうか」
「え」
途端にラナンは嫌がる素振りを見せたが、時すでに遅し。セイルはいかにして分かりやすい授業ができるかを考え、ただちに実行していた。
「魂魄理論についてはご存知ですよね?」
狙い撃ちのような先生の問いかけに、「んっと、その、アレですよね、私達の身体には魂があって、それが二つで、良いのと悪いのがあって……」としどろもどろになりながら答えた。
いつものようにこんなものかと、セイルは特に顔色を変えずにうなずいてみせた。彼女の回答は間違ってはいないからだ。
「生きとし生けるものの肉体には、魂というものが存在しています。それは魄という容れ物の中にあり、この二つを指してカレア語で魂魄と呼びます」
「私にもあるんですよね?」
「もちろん。アナタにも、そして私にも」
ラナンは自身の胸元を見下ろして、手を当てた。魂魄は心臓の近く、肉体の中心にあるとされている。
「魂魄は通常、秘術士の素養がなければ見ることはできません。そして秘術士であっても、触れることはかないません」
「へー、そうなんですね……あ」
うっかり滑らしてしまった口を両手でおさえるラナンを叱ることもなく、セイルは続けた。
「そして魄には必ず二つの魂がおさまっています。それが、アナタがおっしゃった、〈善意の魂〉と〈悪意の魂〉です」
うんうんと彼女はうなずく。グラネンの手綱をにぎるセイルは、両の人差し指を立てるや、くるりと円を描くようにした。するとたちまち、彼の目の前に、頭一つ分ほどの大きな水の玉が二つ現れた。ひとりでに浮遊し、かつ獣車の速度に合わせて彼らと一定の距離を保ち続けるその半透明な水の玉に、セイルはそっと息を吹きかけた。そうしたら今度は右の水の玉は獣の乳を垂らしたように白く、左の水の玉は墨を落としたように黒く変色した。
こうした不可思議な現象が秘術であり、それを起こす者を人は秘術士と呼ぶのである。
「わ、すごい」
「白い玉が善意の、そして黒い玉が悪意の魂としましょうか。魄の中ではこのようにこれらが一つに合わさって存在しています」
セイルは二つの玉をくっつけて一つの球体とした。しかし二色は決して混ざり合うことはなく、まるで水と油のように白と黒の領域をきちんと真ん中で左右に分けている。そうしてできた白黒の球体を、薄く透明な水の膜がおおった。これが魄なのだと彼は補足した。
これまでどんな講釈もまるで意味がない、“バイコーンの耳に賛美歌”といった具合だったラナンが興味を示してくれている。よほど分かりやすいようだ。
「善悪の魂は、常に増減を繰り返しています。善意が七割の場合は、悪意が三割。善意が一割の場合は、悪意が九割といった具合です」
魂魄を模した水の玉は全体の形状は変えることなく、白と黒の割合だけを変えはじめた。術者である彼が操作しているのである。
「こうした魂の割合は常に変動し、その者の思考や思想、言動に反映されます。例えば誰かの命を救うような善い考えや行ないをするときは〈善意の魂〉が勝っており、逆に誰かを貶めたり傷つけたりしてしまうような悪い企みや行ないに身を投じる際は〈悪意の魂〉が勝っているのです。これが〈魂魄理論〉の基礎知識です」
理論が成立したのは二〇〇〇年以上も大昔のことになる。
「そしてこの二つの魂から発する力を秘霊力と言います。これは血液のように体内を循環しています。それが、私達があつかう秘術の源となっているのです」
「あうらる……。コレも、秘術ですよね?」
ラナンは水の塊を指さした。その形状は魂魄を模した球状から変わっていた。手に乗るくらいの人形のようになっており、半透明なその胴体の中央に、先程まで大きく見えていた魂魄が小さくおさまっている。その魂魄から虹色に光り輝く水が、人形の全身を駆け巡っている。
「その通りです。私から放出した秘霊力を水に変化させたのです。浮かべたい、丸くしたい、色をつけたいと念じたことで魂魄の模型を作り、人型に変えたいと念じたことで今の形状になりました。私が念じ続ける限り、滅多なことでは壊れませ――」
バシャン!
ラナンは水人形を殴った。飛沫がセイルの全身を濡らした。しかし、飛び散った水滴は再び元の形に戻っていった。
「ホントだ、スゴーい!!」
「授業、続けますね?」
「ひゃい……」
怒りを押し殺したうそ寒い笑みを向けられたラナンは急に大人しくなった。
まったく。セイルはため息をつくと、乱れた髪を整えてから続けた。
「秘術もまた大きく分けて二種類あります。アナタも聞いたことはあるでしょう、〈聖術〉と〈魔術〉です」
余計なことはしまいと、ラナンはひたすらうなずいた。
「聖術とは、善意の魂から発した秘霊力によって生み出される秘術です。誰かを救いたい、守りたい。そうした優しさから生み出されるこの術の多くは、傷を癒し、厄災からあらゆるものを守護することができます」
「さっきの、みんなの傷を治した術ですね?」
「聖術《闇を祓う手》。傷や骨折、病などを癒す術です」
「先生っ、私の頭を良くする聖術ってありますか!?」
「あればとっくに使っています」
自分、あるいは他者の生体機能を活性化させる術は存在する。脳に使えば記憶力などが向上することは確かだろう。しかしその効果と持続時間は術者の能力に依存し、また大きな危険をはらんでいる。
長時間、長期間にわたって他者の秘術を人体に浴び続けると、その他者の秘霊力が体内に蓄積されて思わぬ機能障害を引き起こしてしまうことがある。そうなると秘霊力そのものに過敏に反応して疾患を起こすこともあるので、聖術での治療さえもできなくなる可能性もあるのだ。
ラナンの気持ちも理解できるが、セイルとしては安易にその存在を教えるわけにはいかなかった。
残念、と肩を落とす彼女の頭をなでてから、セイルは続けた。
「対して魔術とは、悪意の魂から発した秘霊力によって生み出される秘術です。誰かを傷つけたい、騙したい、そのような邪な感情から生み出されるこの術は、使い方次第では容易に人を殺めてしまいます」
ラナンは思い出していた。セイルと出逢って一年、彼が秘術を使うところを何度も見てきた。その多くは、襲いくる盗賊や猛獣に向けられた魔術であった。
姿形は様々だった。あるときは炎の鞭だった。あるときは氷の剣だった。そして先程のような、雷の矢だった。
しかし、彼が人を殺めたところを見たことがない。獣を狩っても、慈悲と感謝をもって食し、丁重に葬っていた。
一方で、彼は言っていた。人を殺した経験があると。それも一度や二度ではない。両手両足の指を使っても足りないほどの数を、殺めたことがあると。
キテーン秘術団。セイル・モーランが属するその組織は、秘術を研究し、それを啓蒙することを目的としている一方、他国の依頼を受けて汚れ仕事をになう軍事的側面もある。
その大幹部の一人に数えられるこの若き大導師は、聖術よりも魔術に長けているのだと、ラナンは感じていた。
「どうしました?」
「いいえ、何でもないですよ。あ、それじゃあさっきの霧はどっちなんです?」
「アレは聖術です。正確には、光属性の聖術。都の安全を守りたいという善意を媒体として、対象の悪意の魂の割合をはかる術です。ちなみにあの霧や光は、門をくぐった者にしか見えません」
目を丸くするラナンは、幌獣車の後方になってすっかり小さくなってしまった大門を振り返った。目を細くして見てみると、確かに門には霧らしきものも、光らしいものも見えなかった。
「門をくぐった者は、一様にあの霧の幻を見てしまう仕掛けになっています。もしもその者の悪意が三割を超えていれば、その者はしばらくの間、幻を見続けることになるでしょう。その間に、門を警備する騎士達に身柄を拘束され、入念な身体検査や荷物検査をされることとなります。意識が戻ったころに尋問を受け、危険な思想の持ち主と見なされればすぐさま拘留に処され、帝都からの永久追放もあり得ます」
「も、もんどーむよーってやつですね」
ラナンは顔をひきつらせた。
「帝都の出入国審査基準は極めて厳しいのです。何せ帝都とは言わずもがな、皇帝陛下のお膝元。移送されてくる被疑者以外の反乱分子の侵入を許すわけにはいきません。最新の魂魄研究における善悪の行動指標によると、人は悪意が五割を超えると犯罪に手を染め、六割を超えると衝動的に殺人を起こすとされています。また魔術を使うにも五割以上の悪意が求められ、四割の悪意で犯罪の計画を企てるとされています。三割では利己的になって他者の心身を傷つけるとされています。こうした研究結果から鑑みるに、悪意が三割未満の者のみを入国させるという帝都の方針は非常に的を射て――」
数字がたくさん並ぶだけで、ラナンの頭は煙を上げてしまう。
セイルはまたやってしまったと自戒し、「三割って、結構厳しいですが、必要なことなんですよ」と答えを改めた。
すると、「あ、そうなんですね!」とラナンはひとまず理解してくれたようだった。
「つまり帝都ってすごく安全ってことですか?」
「まさか。あの術にも欠陥はあります」
「そうなんですか?」
「例えば、私のような上位の秘術士――“秘術師”ともなれば善悪の割合を自在に操れますので、あの術では本性を暴けません。秘術を使えば危険物を異次元空間に隠すことだって可能なのです」
「ということはまさか先生、本当は悪いことを考えて……!?」
「さーて、それはどーでしょうかね~」
セイルは絵に描いたような悪人面を浮かべて、舌を出しながらラナンを脅かしてみせた。
ひええと戦々恐々する彼女だったが、「んん? 例えばってことは、他にもあるんですか?」変なところで理解力があるのが彼女の面白いところだ。セイルは手拍子で答えようとしたが、「いずれお話しますよ」とまたぞろ彼女の頭を軽くなでた。
「多くを教えても、アナタのこの小さな脳味噌には入らないでしょう?」
「それはまぁ……って! 先生!!」
どうどうと興奮したバイコーンのようになだめられたラナンだったが、ふと頭をもたげて、「ヒギシャって、あの子もそうなんですか?」と問いかけた。
「アナタもご覧になりましたか、あの子を」
「はい、遠くからですが、チラッとだけ」
ジャターユの群れが静まったのを見計らって、ラナンはセイルのもとへ駆けつけた。騎兵隊が護衛していた幌獣車の後部をセイルが開けていて、その際にみすぼらしい少年と目を合わせていた。
「あの子、あんな風につながれちゃって、何をしたんですかね? 服もボロボロですし、もしかして食うに困って盗み――」
「ラナンさん、感心しませんね」
軽く小突かれ、「す、すみません……」と彼女は自らの失言を自覚した。
「我々キテーン秘術団では、はじめに〈魂魄理論〉を学び、次に目を鍛えます」
告げるセイルの脳裏にも、かの少年の姿が浮かんでいた。
「目、ですか?」
「生物の肉体からは、〈秘霊気〉というものがあふれています。それは体内を循環する秘霊力が、体外へ排出された際に霧散した状態のものを言います。それを目視し、色や波動から個人を識別、また善悪の魂の割合を判断するのです。これを〈秘霊視〉と言います」
「魂の割合を判断する……。ってことは、霧の聖術を使う必要はないってことですか?」
「あの術の最大の利点は、一定以上の悪意を有する者にはしばらくの間、幻をみせることができることです。秘術にうとい騎士であっても、その様子からすぐさま拘束できます」
「なるほど……です」
「あの少年――」
セイルと視線を交じらせて、少年は言った。
“全部、ボクがイケないんです。ボクが悪いんです”
帝都へ移送されてくる被疑者の多くは極悪人とされている。彼らは悪意にまみれているため、門をくぐると総じて幻を長時間みることになるそうだ。
もしもあの少年も極悪人であれば、今頃獣車の中で幻にかかり、白く深い霧の中をあてもなく彷徨っていることだろう。
しかし、「私の見立てでは、彼が罪を犯したようには見えませんでした。善意であふれていたのです、異様なほどに」
不思議な子だ。年頃にありがちな悪意の肥大が見られなかった。善意が九割を占めて揺るがなかった。あるべき変動が見られなかった。
つまりそれは、不自然であるとも言える。
「ところで先生。さっき順番を譲ろうとしたのって、どうなるのか全部分かってのことですよね?」
「さぁ、何のことですかね」
「あの騎士さんが殴られること分かっていましたよね? ね!?」
「さーて、どーなんでしょうかねぇ~」
セイルははぐらかしてから、水人形を霧散させた。
授業の終わりだと察したラナンは、彼の腕に自分のそれを絡めた。
すぐさま解かれるのはいつものことだった。
【次回予告】
レロイアム村から移送されてきたのは、罪を背負った少年。
彼が湛える瞳に、口走る言葉に、者共は息を呑む。
次回、第一章〔一‐4〕 たった一つの望み
他に願うことなどないのである。