〔一‐1〕 鷲獅子に誘われて
【前回までのあらすじ】
一面黒い砂漠で覆われた孤島に、同じく黒い塔がそびえている。
すっかり古びたその塔の大広間で、二人の男が奇妙な儀式を行なっていた。
老人の命を犠牲に、その儀式は達せられた。
その日、ひとすじの光芒が各地で観測されたが、その行方は――
トラディウス暦七三年――春季。
抜けるような青空に一頭の鳥獣を見つけ、「鷲獅子ですね」と青年が指さした。
少女の瞳がそれを追いかけ、「グリフォンって何ですか?」と小首をかしげた。
涼やかな風が、見渡すかぎりの若草の絨毯をゆらりとうねらせている。
灰色の体毛をもつ勇往馬という種類の獣は、ややもって疲れた様子で長い四本足を交互にゆっくりと動かしている。
少女はそれが引く幌獣車の荷台から軽やかに飛び降りて、「よしよし、グラネン。疲れちゃったよね」と獣の頭をなでてやった。グラネンはブルルと短く応じ、前進を続けた。
数百年もの間、行商路として利用されてきた轍を、彼らは南下している。
「グリフォンをご存知ない?」
「はい、ゴゾンジありません」
「ラナンさん。ひと月ほど前にもお教えしたはずですが」
「ゴゾンジありません」
幌獣車の手綱を握る青年は、呆れ果てたといった具合に嘆息を漏らした。まだ甘さが抜けきらない顔立ちの二二歳の若輩であるが、瑠璃色の布地に白・銀・黄の刺繍がほどこされた衣服をすらりと伸びた背丈で着こなす姿は、同年代の者よりもいくらか大人びており、非常にサマになっている。
容姿端麗。眉目秀麗。切れ長で涼やかな目、金色の虹彩。艶のある黒髪を胸元まで伸ばし、衣服と揃いの模様の金属製の髪留めで左に一つに結っている。
一見すると女性と見紛う身なりだが、彼が属する一団の正装なのである。
「アナタには学ぼうとする意欲や努力がことごとく欠如しているように見えますね」
「先生。私、これでも頑張ってます」
少女ラナンはむくれながら甘ったるい声できっぱりと言い切った。栗毛の三つ編みを人差し指でくるりと遊ばせている。幼さの残る翠色の瞳は、一六五糎という長身にはやや似つかわしくない。
先生は眉間を揉んでから教えた。
「グリフォンとは、ここトラディウス帝国の国獣に指定されている象徴的な動物です。通貨にも刻印されており、国旗に描かれている伝説の神獣――“百獣の王”獅子もグリフォンの下半身が被写体とされています」
黄色く鋭い鉤状のくちばし。白い毛におおわれた頭。瞬膜をもつ瞳。太い爪が生えた三前趾足――人の親指にあたる第一趾が後ろに向き、残る第二から第四趾が前に向いている足の形――の前足。太く引きしまった胴と肉球がある後ろ足、肩から生やした巨大な二枚の翼は茶色く、尻尾の先は箒のように広がってやや黒い。
随所に生態系の頂点としての特徴を有するこのグリフォンは天空の覇者、天獣類に属される。
野生のグリフォンの性格は非常に獰猛で、傲慢である。また巣への執着心が強く、愛情深い。幼い頃から飼いならせば従順になり、警戒心の高さを利用することで歩哨のような見回り行動を覚えさせることができる。
こうした生態から、トラディウス帝国では代々王家の象徴的な動物として寵愛されており、その容姿から想像されたライオンは国家の紋章として描かれるようになった。
「へぇ~、そうなんですね」
「ラナンさん。アナタを連れているのは、何も旅行を満喫させたいわけではありませんよ」
「えぇっ、コレって新婚旅行じゃないんですかぁっ!?」
「私とアナタがいつ愛を誓い合いましたか!? 修行の一環です、全くアナタという方は……」
「せ、先生ったら酷い! 乙女の純情をもてあそんだんですね!?」
おいおいと泣きわめくラナンという少女はこの一年ほど、青年を先生と慕って付き人のようなことをしている。役に立っているかと問われれば、無論、否であるが。
「立ってるわよ、失敬な!」
「何ですか、藪から棒に……」
「いえ。何だかとても失礼なことを言われたような気がしまして」
「年頃なのです、少しは“慎み”というものも覚えたほうが良いのでは?」
「“ツツシミ”覚えたら、先生のお嫁さんにしてくれますか?」
ラナンは甘えた口振りと、やたらと瞬きを繰り返す上目づかいで問うた。
しかし当の先生は視線を前に戻し、「さ、まもなく帝都です。もう少し頑張ってくださいね、グラネン」と声をかけた。
「何で知らんぷりなんですか! ちょっとこっち向いてくださいよ、先生ーっ!」
このようなやりとりを続け、それとなく、どことなく、二人と一頭は和気藹々と長旅を続けている。
しかし目的地はいずれもハッキリとしている。優れた教養と資質を備えたこの若先生は、方々の学校をめぐって特別講師をしているのだ。
前の町でも手厚い歓迎を受け、少年少女を相手に講義を済ませてきた。別れを惜しむ人々の寂しげでありながら清々しい笑顔は、彼らの胸を時折温めてくれる。
「それにしても、意外と学校って少ないもんなんですね。かれこれもう丸三日も野宿が続いてますよ」
「元気が取り柄のラナンさんもさすがにお疲れですか?」
「あの、先生。私これでも、“可憐で過剰な箱入り娘”って設定なんですけど」
「設定とは何ですか?」
「さぁ? 今、フワッと降りてきました。フワッと」
彼らの次の目的地は、この大陸を支配するトラディウス帝国の帝都である。
四日前に旅立った町からの道すがら、小さな村々を見かけることはあったが、先生は決してそこへ立ち寄ろうとはしなかった。村で宿をとれば一晩の安眠は約束されるが、過密な日程が狂ってしまう。
この若先生は人気が高く、引っ張りだこ。講義の依頼が殺到している。数年先まで予約が埋まっている状態だ。
そんな中、彼はひょんなことからこの少女ラナンを拾い、弟子にしてしまった。それは年間予定を大幅に狂わせる行為で、上司からもこっぴどい叱責を受けてしまうことにもなった。
一人であれば“とある方法”で、文字どおり一瞬で目的地へ行くことができる。しかしそんな“一人の身軽さ”を自らかなぐり捨てた彼は、わざわざ大枚をはたいて獣車を買い、“地道な二人旅”をすることにした。
とは言えこれ以上、上司や講義を待つ人々の顰蹙を買うわけにもいかない。よって彼は野宿でも何でもしながら、最短の時間と距離で次から次へと目的地へ向かわなければならなかった。
彼はそうまでしても彼女を弟子として傍に置き続けている。それなのに彼女は学習能力どころか学習意欲や集中力さえも欠如している。
彼は苦悩の日々の只中にいる。
それでも彼女をどこか安全な場所に置いていくという選択肢が彼の中にはないことに、周囲は首をひねるばかりだった。
「私、先生のお荷物ですか?」
「どうしたのです、アナタらしくもない」
「最近、ふと考えちゃうんです。私って、勉強できないし、そもそも興味ないし、やる気も全くないし、ホントどうでもいいと思ってるし、何なら先生と一緒に遊んで、美味しいもの食べて、笑っていられたらそれだけでいいと思ってるんです」
「ラナンさんラナンさん」
「はい?」
「先生ビックリです。あー、えー、はー、この一年、えー、そういう感じで旅を? えー」
「だからさっきのグリフォンの話もちゃんと聞いてませんでした」
衝撃の告白に、先生は手綱からはなした両手で顔をおおった。
グラネンも驚いた様子で、隣のラナンの顔を見ながら歩いている。
「でもね、先生。一応覚えてることもあるんですよ? 野宿をしたら、盗賊とか猛獣に襲われますよね? その戦い方とか段々分かってきましたし、擦り傷に効く薬草とかも覚えました。ただ……」
「ただ?」
「教科書を読んだり、説教とかされたりしちゃうと、頭が動かなくなっちゃうんです」
先生はこれまでの苦労を思い返して泣きそうになってしまった。しかし、人には向き不向きがあり、そもそもこれまでの教育方針が悪かったのだと自戒することで平静を取り戻そうとした。
「私、やっぱりフデキなデシですよね。だって、私よりもうんと小さな子供のほうが、よっぽど色んなことを知っていますもん。前の村でも、五歳の男の子に“こんな問題もとけないなんてバカ以下だね”って言われちゃいました」
バカ以下。
それは確かに傷つく。自信をなくしてしまう。
いつになく元気がないと思ったらそういうことかと、先生は彼女を不憫に思った。
「ラナンさん、人には人の歩幅というものがあるのです。アナタの歩みは決して速くはありません。しかし速ければ良いというものでもないのです」
「んっとー……」
先生は諭すように告げた。
「ゆっくりで良いのです。何も焦ることはありません。一つずつ、新しいことを覚えていきましょう。その手助けするのが私の役目です」
「でもそのせいで、色んな学校の生徒が待ちぼうけです。私なんかより、その歩みっていうのが速い子を見てあげるほうがよっぽどいいんじゃないですか?」
よっぽどいい。
きっと彼女は効率のことを言っているのだろう。だとすればとんだお角違いだと先生は思った。
彼女は確かに自他ともに認めるほど覚えが悪い。しかし彼女には、他に類を見ない才能がある。誰にも真似をすることができない、天賦の才だ。
こんな調子の彼女の教育係を他の誰かが担ったとしても、その才能を引き出せずにドブに捨ててしまうだけだろう。それならばまだ良いが、きっと悪用されてしまうに違いない。
かつて彼女がそうされたように、同じ不幸を繰り返してしまうに違いないのだ。
「アナタと出逢って、私には一つの目標、夢のようなものができました」
「はい?」
「アナタを立派な秘術士に育てあげることです」
「秘術士って、先生みたいな? 私を?」
「えぇ。そのためならば、私はどんな苦労も買って出ようと心に誓いました」
「つまりその時に、私と先生は結ばれ――」
「違います」
違います。
二度、ラナンは釘を刺されてしまった。
「やる気がない。そう言いつつもアナタは覚えた知識もあると仰いました。それで充分です。私はこれまで以上に根気強く、アナタの成長を見届けましょう。アナタのやる気が出るためならば、何だってしてみせます」
「じゃあ私と結こ――」
「お断りします」
お断りします。
先程よりも強い口調で、やはり二度も言われてしまった。
ぶーと幼子のようにむくれるラナンだったが、先生の柔らかい笑みを見れば、自然と顔をほころばせていた。
「私、なれますか? 秘術士に」
「えぇ、必ずしてみせます。誰よりも優れた秘術士に」
ラナンはまだ一七歳のうら若き乙女。勉強だか修行だかよりも、恋に生きたいお年頃。
しかし大好きな先生がそこまで言ってくれるのならば、頑張ってみようかという気分になった。
「教科書苦手ですけど、頑張って読みます」
あとで。
ラナンはボソッと頼りない声でつぶやいた。
「何ですって? 今すぐ読みましょうね? 善は急げですよ」
「さっき先生、急がなくていいって言いました!」
「焦るなと言ったのです。焦ることと急ぐことは全く違います」
「ぬーっ、あ!」
ラナンははるか前方を指さした。
「先生! もしかしてアレが帝都ですか!?」
頭巾つきの瑠璃色の外套の裾をひるがえす彼女に、「えぇ、そうです。帝都ボルトエード、懐かしいです」と先生は嘆息もほどほどに、感慨深く目を細めて応えた。
彼方まで続く大草原。山々の稜線と深い森の輪郭に混じって、白く高い壁が見てとれた。ゆるやかな曲線を描いているらしいその人工物の向こうには、何かしらの建造物が顔をのぞかせている。
「到着したら、まずは陛下へご挨拶に伺います。お許しが出れば、アナタにも同席していただきます」
「えぇっ、私も皇帝に会えるんですか!?」
「ラナンさん、尊敬語や謙譲語も覚えましょうね。陛下は大国の主にしてはとても気さくで人間味にあふれたお人柄ですが、一国民が容易くお会いできるほど安いお方ではありません。一度きりの人生です、お会いできるときにお会いするべきでしょう」
「お分かりました。おくれぐれもごソソウのないようにお注意すらっしゃるです、はい」
「アナタは一切喋らなくていいです」
感情のない笑顔を向けられたラナンは、何でですかと愕然とした面持ちで訴えた。
途端、グラネンがぴたりと足を止め、ほとんど同時に空間を裂くような甲高い音が一同の鼓膜を震わせた。
「んっ、何……!?」
「これは、グリフォンの鳴き声です!」
先生の視線を追って、ラナンは見た。彼らと帝都を結ぶ中間距離、そのやや右手――なだらかな坂を下った先に大通りがある。彼らが使っている間道ではなく、帝都の大門から大陸を縦断する本街道である。そこで一台の幌獣車が立ち往生をくらっている。
驚愕した。人の身長の数倍はあろうかというほど巨大な鳥の群れが街道をふさいでいるからだ。
大空を旋回していたグリフォンは、その異変を帝都に知らせるや、急降下した。
【次回予告】
街道をふさぐ巨鳥の群れ。
幌獣車を引く騎士団はなすすべなく次々と地に伏していく。
彼らを守らんと現れたのは、一頭の天獣だった。
次回、第一章〔一‐2〕 罪荷
その出逢いは、誰がさだめたものなのか。