花宴
人の頭の上を盃がめぐる。
盃の中身はいくら飲めど次から次へと溢れ幾人もの喉を潤していく。
乱暴に扱われ、地面を転がっても次の瞬間には満々と酒を湛えている。
人の群れから影が伸び上がり枝を掴む。力任せにゆすれば薄紅の桜吹雪。
誰かが無粋なと呟けども花は尽きることなく次々に満ちていく。
大きなまん丸の月が空を行けば、場はさらに沸いた。
薄紅は夜の彩を得てさらに美しく変化し、盃から立ち上る酒精は次第に強くなる。
「いつのまに人が増えたんだ」
「さぁ」
仕事帰りの公園でコンビニで仕入れたビールに肴は上司の愚痴というささやかな花見のはずだった。
持参のビールを開ける前に、いつの間にほかの花見客が混じったのか大きな輪の中に取り込まれ、酒につまみにと次々に勧められる。
それがことのほか旨くてついつい手を出してしまうのだが、更に更にと勧められるとほんの少し怖くなった。
酒精より恐怖が上回れば、心地よい酔いは遠くなる。
周りの連中はどこかおかしい。
仲間と集まれば更にそれは顕著になっていく。
隣の男の瞳は炯々と光りすぎではないか。
あの女の唇は今しがた血をすすったように赤くはないか。
服装もちぐはぐで、煮しめたように色の変わった着物を着ているものもいれば、白く輝く毛皮を着こんでいるものもいる。
中には高級そうなスーツ着こんだ者も見え、しばし安心する。
だが、どうしてスーツの袖口からのぞく皮膚は鈍く緑色に光っているように見えるのだろう。
顔の見えないものもいる。
プラスチックのヒーローの仮面。
最近の戦隊ものなんて知りはしない。そう思ってみればあれは幼き頃に夜市で泣いて強請ったお面に似ていた。
重そうな木の面は狐だろうか。
つりあがった目じりに朱を刷いて、薄い切れ込みからは闇がこちらを覗いている。
筋がひやりとして視線を逸らせば、でたらめに目鼻を書いた布の面をつけている者もいる。
なぜか紙袋を被っている者もいる。
とたんに素顔を晒していることが不安になった。
何か顔を覆うものはないかと右往左往していれば、冷たい腕が肩を抱いた。
「よいじゃぁありませんか」
いつの間にか再び回ってきた盃にとぷりとぷりと液体を継がれる。
先ほどの澄んだ酒ではなく程よく温められたそれは白く濁り甘い香りが立ち上る。
香りが届いた瞬間に喉が干上がる。
どうか一口。
いいや一舐めでもいい。
その甘露を味わいたい。
「特別な酒ですから、うまいですよぅ」
にぃと細められた瞳には虹彩が二つある。
上がる口角は目じりに向けて裂けていく。
徳利をもつ手に備わった爪はナイフの如く鋭くて、声だけが妙に優しい。
勧められるままに酒を干せば、頭の奥がじんと痺れて、恐ろしさが薄れていく。
更に呷れば恐怖は霧散して、自ら手を伸ばす。
他の花見客の様子などどうでも良くなってくる。
そろいのスーツだっておかしいじゃないか。
書類がぱんぱんに詰まったカバンだっておかしいじゃないか。
似たり寄ったりの成績だと叱責された同僚の顔がいつの間にか自分と同じになる。
互いに指さしてゲララと笑う。
おかしい。
おかしい。
もうどうでもよい。
零れ落ちる言葉が意味をなさなくなれば、思考もとろりと溶けていく。
「宴を楽しみましょう」
「一度だけ、今宵だけ」
「そうそ、瞼を閉じる一瞬だけ」
「人も異形も美しいものの虜になってしまうものなのでしょう」
花びらが舞う。
酒が飛び散り、やんやの喝采。
肢体をくねらせ踊る女たちの薄衣が鼻先を掠め、痺れるような甘い香り。
招く指先は人の温度を持っていなくとも請われるままに手を伸ばす。
「やれ、よい日じゃ」
「善きかな。善きかな」
「さぁさぁお前様がたも」
いつのまにか腹いっぱい溜まった愚痴は消え去り、夢の中を行く心地。
零れ落ちる言葉は、花びらに変わる。
身をゆすり、花を落とす。
桜の木になったよう。
月を掴もうと腕を伸ばせば全身から花が散る。
「よい。よい」
「そぅれ、お前様も」
放り投げられたかと思うと体が散り散りになる。
すべてがほぐれ花になる。
風に紛れ世界を渡る。
なんと心地よい。
どこまでも飛んでいこうと思えば花びらが集まり、ちっぽけな人に戻る。
もう一度。
手を伸ばし互いに崩れ空を舞う。
「さぁ、宴は終いじゃ」
どれほどそうしていたのか。終わりは唐突に宣言された。
声と同時にざぁと強い風が吹く。
一斉に花が散り、視界を覆い渦を巻く。
何もかも巻き込むほど強く吹き荒れた後はいつもの公園があるだけだった。
中身のある缶ビールが数本転がって、呆けた顔の同僚がいた。
腕時計の時間は会社を出てからさほど経っていない。
「なんだったんだ。今の」
「さぁ」
確かめるように体をさする。
特に変化は見られない。
舌先だけが僅かに甘く痺れていた。
どこにもない幻の夜。