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前回からだいぶ間が空いてしまいました。
子供時代の話を続けます。
今回はちょっと、いえ、だいぶ辛かったお話です。
それでも、誰が悪いというものでもないのであろうお話です。
学童保育に通っていた私は、卒園時の作文に、ある悲しい出来事が衝撃であったと綴りました。
その作文には絵をつけることも義務づけられておりましたので、絵も描きました。
しかしそれらが明瞭に過ぎ、他の園児たちにデリカシーの無さを咎められたのです。
子供という生き物は時に、正義を叫ぶことに酔います。
そういう、一種の熱狂が彼らの内にあると、幼いながらに私は感じました。
彼らが悪いということではありません。
ごく一般の感覚での、私に対する非難だったと思います。
しかし私は、自分がなぜ責められているのか、当時は理解できませんでした。
正直は私にとって美徳であり、罪ではなかったのです。
成長するにつれ、「正直」には「刃」がつく時があると知りました。
私を責めた子たちの気持ちも、理解できるようになりました。
そうして大人になってからも、当時の自分を過剰に責める呪縛から、中々解放されませんでした。
幼い頃に親戚の集まりで、従姉のにきびを「どうしてぶちゅぶちゅがついてるの?」と言ったこともあります。
どっと笑いが起こりました。
従姉の表情は変わりませんでした。
けれど思春期の従姉にとっては、とても辛かったのではないでしょうか。
心無いことを言った相手が年下の子供だった為に、また、大人たちの集まる中であった為に、辛く感じた感情を隠したのではないかと、後に思い至りました。
言葉や、表現を選ばなければ。
自分と、人を傷つけないように。
年々、痛感するようになりました。
それは今でも変わらない、私の課題です。
これを読まれている方で、周囲に発達障害の子や大人がおられる方には、思い当たるところもある話だったのではないでしょうか。
悪気が無いことを全ての免罪符にせよとは申しません。
ただ、少しばかり寛容になり、許容範囲を広げて、彼らと、私たちと接していただけませんでしょうか。
少しずつ学ぶ姿を、見守っていただければ、と願います。