悲鳴
今回は予定を変更した内容でお送りします。
熊本を中心とした地震で被災された、発達障害のご家族のいる方たちが、避難所に入所出来ない、という記事を見て驚きました。
配給すら困難を極める、と。
それで、何か、このエッセイで書かなければと考え、悩みました。
とても難しい問題で、軽々しく誰を責めれば良いというものではありません。
考えた末、まず、「自分が直接に被災していればどうか」という具体例を推測して挙げ、考えることから始めてみることにしました。
私もまた、発達障害者だからです。
そして九州在住です。大きな揺れを何度も体感し、眠れぬ夜も過ごしました。
人よりも色んなものを受け取るアンテナが過敏に出来ているので、地震が起きて以来、なぜか泣き出したくなる衝動に何度も駆られました。気分が滅入り、地震酔いにもなりました。
熊本在住ですらない私がこんな有り様なのに、被災地の中心にいたら一体どうなるか。
考えただけで恐ろしいです。
恐らく、通常の方以上に早く、精神的にダウンしてしまうでしょう。肉体的にも。
そして家族の足手纏いになるでしょう。
もし。
もしも、私の存在の為に避難所に入れないことがあったとしたら、自分を責めずにいられなくなると思います。
「自分さえいなければ」
家族はまだ安全圏と呼べる場所にいられたかもしれないと、きっとそう感じたでしょう。
そのように、自分の存在を否定するのは、とても苦しいことです。
早まった行動に出られる方の可能性をも、危惧してしまいます。
中には私より重度の症状で、よく事態を把握しておられない方もいらっしゃるでしょう。
けれどそんな方でも、人から送られるマイナス感情というのは、鋭敏に感じ取ってしまわれるのではないでしょうか。
元来、そうした、「受け留める感覚」が非常に繊細な作りでおられると思います。
発達障害者を拒絶される方が悪い、と断じるのは簡単です。
しかし、未知への恐怖は、自己防衛の一種でもあります。
発達障害を持つ方は、その性質、特質が解り辛く、ゆえに緊急時には受容もされにくくなるのです。そこが今、まさに難題となっています。
双方の橋渡しを明確にするシステムが、早急に講じられることを願います。
予期せぬ天災に、どんな立場の方も、苦しんでおられると思うのです。