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数学と人生 シリーズ

数学と人生 番外編「歩き始めたふたり」

作者: 松本 ゆり

 あれから、四年が経った。

 私は四年生の夏頃に就職先が決まり、単位も問題なく取れていたため、無事卒業することができた。増田(ますだ)先生はというと、来年度もこの大学で講師を続けることになったようで、毎日講義の準備や研究に追われているようだった。


 私が大学を卒業したことで、私たちは晴れてお付き合いを始められることになったのだが、そのきっかけは、卒業式の日にもらった増田先生からの手紙だった。そこには相変わらずのきれいな字で、先生の名前と、連絡先が書いてあった。

 なんだか夢のようで、その手紙を見ながら何度も頬をつねってみたものだった。だがそれは紛れもなく現実であり、先生とお付き合いできるということに偽りはないようだった。


 そうして私は今、先生との初デートのため、駅にやってきた。

 先生との初デート、と言ったが、人生で初のデートと言い直したほうがよいかもしれない。私は今までお付き合いというものを経験したことがなく、もちろん、デートというものもこれが人生初なのである。だから、どの程度おしゃれをしたらよいのか、待ち合わせ時間の何分前に着けばよいのかと、わからないことばかりで、一つひとつ友達に相談してはため息をつかれたものだった。


 友達のアドバイス通り、約束の時間の十分前に駅にやってきた。人ごみの中先生の姿を探してみるが、なかなか見つからない。それもそうだ。スーツ姿の先生しか見たことのない私は、私服を着た先生のイメージができず、顔のみで先生かどうかを判断しなければならないからだ。

 辺りをキョロキョロと見回していると、急に後ろから肩を叩かれた。振り返ると、先生ーーではなく、学生風の若い男性が立っていた。


「君、一人? 暇なら俺と食事でも行かない?」


 もしかしてこれが、俗に言うナンパというものなのだろうか。

 私が困って何も言えずにいると、その男性は私の手をとってどこかへ連れて行こうとした。


「あの、私、待ち合わせしてるんです」

「でもまだ来てないんでしょ? その人来るまでどこか行こうよ」


 思った以上に力が強く、手を振りほどくことができない。どうにかして逃げようともがいていると、私の手を握るその男性の腕を誰かが掴んだ。


芳乃(よしの)、大丈夫?」


 そう声をかけてきたのは、増田先生だった。私服姿のため雰囲気は普段と異なるが、優しい眼差しは確かに彼のものだった。


「先生、あの……」

「彼女、僕と待ち合わせをしていたので。手を離してもらえますか」


 先生は口調こそ冷静だったが、その顔には普段見せないような怒りの感情が浮かんでいた。先生のこんな表情を見るのは初めてだったので、少し驚いてしまった。それは相手の男性も同じだったようで、素直に私の手を離すと人ごみの中へ消えていった。


「ごめんね、遅くなって」

「いえ、大丈夫です。まだ、待ち合わせの時間じゃないですし……」

「よかった、渡辺(わたなべ)さんが無事で」


 先生はほっと胸を撫で下ろした。

 そういえばーー普段先生は私のことを名字で呼ぶのに、さっきは下の名前で呼んできた。なぜだろう?


「とりあえず、何か食べに行こうか」


 先生はそう言うと、自分の左手を私の前に差し出した。


「なんですか?」

「手繋がないと、はぐれたら大変だから」

「て、手……ですか」


 先生って、女慣れしているというか。でも、先生の年代だったら、これくらい普通のことなのかな。

 私は、ためらいつつもその手に自分の右手を添えた。初めて触れた先生の手は私より大きくて、あたたかくて、優しかった。

 なんだかとても恋人らしいことをしているみたいで、恥ずかしくなる。気をそらすために周りを見てみると、休日だからかカップルの姿が多く見られた。みんな、手を繋いだり腕を組んだりしている。付き合っているのなら、それが普通のことなのだ。私は自分自身にそう言い聞かせ、少しでもこの羞恥心を捨て去ろうとした。




 昼食は、先生の行きつけだという和食屋へやってきた。全席半個室のつくりで、ゆったりとした空間は落ち着きがある。私たちは窓から中庭の見える席に案内された。


「何食べようか」


 メニューを開きながら、先生が問いかけてくる。


「先生は……何を」

「Aランチセットにしようかな」

「じゃあ、私も同じもので」


 先生が注文を済ませると、二人の間に少しの沈黙が流れた。


「一つ、確認したいことがあるんだ」

「何でしょうか」

「名前……どうする?」


 名前? 私がしばらく考え込んでいると、


「名前の呼び方。付き合っているんだし、今のは変えたほうがいいかと思って」

「それも……そうですね」


 先生のまっすぐな視線に耐え切れず、うつむいてしまう。


「芳乃、でもいいかな」

「え! ええ、大丈夫です」

「僕のことは、何て呼びたい?」

「そ、それは……」


 そんなふうに聞かれても……困ってしまった。

 普通なら、私も先生と同じように、下の名前を呼び捨てで呼ぶべきなのだろうが、それは私にとってはハードルが高すぎる。だが、名字で呼ぶのも少しおかしな気もする。

 すると、残された選択肢はーー。


章人(あきひと)さん……とか、大丈夫ですか」

「もちろん。下の名前で呼んでくれるなんて、嬉しいな」


 先生……章人さんは、少し照れたように笑った。

 その表情は、普段学校で見せているものとは全く違うものだった。それを私だけに見せてくれていると思うと、ようやく私にも、彼とお付き合いを始められたのだという実感がわいてきた。




 食事を終えると、近くの映画館で最新作を見ようということになり、二人で歩いて向かっていた。当然、章人さんは私の手をさりげなく握ってきたのだが、うぶな私はそれにいちいち反応して顔を赤くしてしまった。

 章人さんのそばにいるだけでも緊張してしまうのに、触れられるなんて、恥ずかしくて考えることさえできない。

 私が一人頭の中で葛藤を繰り広げていると、章人さんが急に立ち止まって私の顔を覗き込んできた。


「芳乃、大丈夫? 体調悪い?」

「い、いえ、大丈夫です。ちょっと、緊張しているだけです……」


 章人さんは私の頭を優しくなでると、


「あまり気負わなくていいんだよ。芳乃はいろいろ考えてしまうようだけど、何か不安なことや心配なことがあれば、何でも言ってくれて構わないからね」


 その言葉で、私の心は少し軽くなったような気がした。章人さんは、見ていないようで、実はしっかりと私のことを見て、考えてくれていたのだ。これが、ただの教え子と恋人との違いなのだろうか。


「あの、章人さんは、どうして私のことを……その、好きになってくれたんですか?」


 突然の問いかけに、章人さんは目を丸くして驚いているようだった。しばらく考えた後、再び私の手を引いて歩きながら、ゆっくりと話し始めた。


「最初は、ほっとけない子だなって思ってただけだったんだ。でも、芳乃のことを知っていくうちに、勉強熱心で、謙虚で、一途なんだとわかった。いまどき、そういう子は珍しいから、とても印象に残ったんだよ。……それに、情け無い話だけど、僕の講義であんなに熱心に聞いてくれる学生は、君くらいしかいなかったからね。素直に嬉しかったんだ」

「章人さんの講義は、とてもわかりやすくて。学生のために、いろいろ考えて講義されているんだって、私にはそう見えましたから……」

「そう言ってくれるとありがたいよ。ーー芳乃は、どうして僕のことを?」


 章人さんは、少し楽しむように私の目を見つめてきた。


「私は……あまり、はっきりとはわからないんですけど。章人さんの、一番近くにいたいって、思ったんです。誰でもなく、私が章人さんの一番の人になりたいと思ったんです」

「意外と、独占欲の強いタイプなのかな」

「そうかも知れません……。そういうのは、嫌い……ですか?」

「いや、芳乃がそう思ってくれるのは、すごく嬉しいよ。ただ……僕も、人のことは言えないんだけどね」

「え?」


 章人さんは少し恥ずかしそうに目をそらすと、大きなため息を一つ、ついた。


「今日、芳乃がナンパされてて、すごく動揺してしまったから」


 ーーそういえば。急に下の名前で呼んできたり、珍しく怒った表情を見せたり。普段の章人さんとは明らかに違う点がいくつかあった。


「でも、章人さんが助けてくれたこと、すごく嬉しかったです。それに、私……章人さん以外の人は、考えられません」


 私がそう言うと、章人さんは珍しく顔を赤らめて、何も言わずうつむいてしまった。


「芳乃は……そういうこと、しっかり言えるんだね」

「べ、別に、変な意味ではないです! ただ、章人さん以外の人とお付き合いするなんてことは、考えたくないって意味で……」

「わかってるよ」


 章人さんはひとしきり笑った後、私の目をじっと見つめた。


「これからも、こうしていろいろなことを考えながら、歩いていくんだね」


 春の風が、私たちの間を駆け抜けていった。

 章人さんの穏やかな表情が、私の心をゆっくりと、やさしく満たしていく。ーーこれが、愛なのだろうか。私にはまだその答えが見つけられないが、これから進む道の途中で、必ず出会うことだろう。

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