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「いきなり意味の分かんない電話かけてきて、そのまま音信不通になってたと思ったら……どーいう事なのよ、これ」
ある大学病院の一室だった。部屋は個室になっていて、そこには二人の人間しかいない。
ベッドの横にある丸椅子に腰かけた一〇代半ばくらいの少女は、いかにも不機嫌そうな表情を浮かべて、ベッドに横たわる男を睨みつけていた。
その少女に睨まれている張本人こと――警視庁刑事部捜査第一課の刑事である武田は、苦虫を何百匹も噛み潰したような顔をして、少女に言われるがままとなっていた。
武田の眼前にいる少女は、彼の娘である香織である。
ついさっき昏睡状態から眼を覚ました際、まっさきに視界に飛び込んできたのが、数年ぶりに会う実の娘の顔だった。
武田はバツの悪そうな表情で、「どうって……見りゃ分かんだろ?」と言った。「大ケガして、これはもう死ぬなって思ったから、最後にその……家族の声が聞きてえなって思って、電話したんだよ……」
「とか言いつつ生きてんじゃん」バッサリ斬り捨てる我が娘。
「俺だっていまだに信じられねえんだよ。……あれだけ派手にやられて、こうしてまだ生きてるっつうのがよ……」
「銃にでも撃たれた訳?」
「そんなモンじゃねえさ……」武田は自嘲気味に笑う。
そう、そんな生ぬるいものではなかった。はっきりとあの光景が脳裏に焼きついている。千条神羅に手も足も出ず、徹底的に痛めつけられ、とどめを刺された。あの青白い光――生命力を操る力『セフィロト』によって形作られた剣で、割って入ってきた笠峰もろとも串刺しにされたのだ。
助かる見込みなんてなかったはずだ。
それでも、今こうして自分は娘と面と向かって言葉を交わしている。
「ま、何にしても元気そうでなによりって事で」適当な調子で言いながら香織は席を立った。「アタシ、もう行くね。明日も学校あるし」
武田に背を向け、出口に向かう香織。武田はそんな彼女の後姿を見送りながら、僅かに胸を締めつけられるような感覚がした。
しょせん、自分は一度家族を捨てた最低な人間だ。そんな自分を、彼女達が心配してくれるはずなどない。香織だって、本当は自分になど会いたくなかっただろう。今まで、父親らしい事なんて何ひとつしてやれなかったのだから。
「あ、そうそう」と香織は何かを思い出したように、こちらに振り返った。「お母さんから伝言頼まれてたんだった」
「伝言?」武田が眉をひそめると、香織は底意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべて――
「『怪我が治ったら、一回こっちに寄りに来い。アンタが本当に反省してるんだったら、とりあえずは考えてはやる』だってさ」
「あ……そりゃあ、どういう……」
「さあ? 私にはさっぱり分かんにゃーい。ただ、そっちが理解できてないんなら、『とりあえずは考えて』もらう事もできないってのは確かだと思うよー」香織は間延びした調子で言いつつ、武田を見つめると、「じゃあさ、ヒント出してあげる」と笑った。「これで分からなかったら、やっぱり一生軽蔑するかも?」
香織はくすくすと笑って、それから満面の笑顔を顔いっぱいに咲かせて――
「じゃあまたね、お父さん!」
――こちらに向かって手を振りながら、病室から出て行った。
香織が出て行ったあと、すぐにまた病室のドアが開いた。入ってきた人影を見た瞬間、武田は露骨に嫌そうな顔をした。「……どうしてテメエがここに来る?」
「なに、単にそちらに用件があったからだ」松坂だった。SATを使って今回の一連の騒動を解決しようとした警視総監だった。「なかなか父親思いの良い娘じゃないか」
「ちッ、盗み聞きしてやがったのか」
「あいにくと、私が来た時には取り込み中だったようでね。入り口近くで待たせてもらったよ」松坂は肩をすくめながら、武田の前までやってくる。
武田は仏頂面で、「なあ」と言う。「テメエ、話聞いてたんなら、アイツが何を言おうとしてたのか分かったのか? ヒントだとか何とか言いながら、そのまんま帰っちまったが」
「分かるとも」松坂は即答した。「ヒントどころか彼女は、答えを言っていたように私には感じれたがね」そう言って彼は小さく笑う。
「ちッ」と武田はまた舌打ちした。「で、何の用で来やがったんだよ」
「報告と質問」松坂は指を二本立てた。「あれからの事の顛末から話そうか」と言った。「お前や私達が追っていた『エデンの使徒』――千条神羅は死んだ」
「何!?」武田は慌てて身を乗り出した。「一体誰が……SATか……!?」
「いや、違う」松坂は首を横に振る。「裏の住人……久郷という殺し屋の男が、相撃ちの形で決着をつけたらしい。遠方から観察していた者が、その瞬間を見ていたと言っている」
「久郷……そいつはどうなったんだ?」
「行方不明、だな。増援が駆けつけた時には、その殺し屋の姿はすでになかったそうだ。ちなみに千条神羅についても、もう一人の『エデンの使徒』の少女と共に、姿を消した。こちらについては、物理的に、とでも言うべきかな」
「どういう意味だ?」
「致命傷を負った千条神羅と共に、その少女は『セフィロト』の莫大な力を使って、自分達の身体を塵ひとつ残さずに、この世界から消滅させたんだ。いわゆる心中、だ」
「…………」
「何にせよ、脅威は去ったという事だ。その日の内にSATが証拠隠滅を行ったからな。かくして全ては元通り、という訳だ」
「違えよ……」武田は押し殺したような囁きを洩らした。松坂が不審そうな顔を向けてくる。「元通りになんか、ならねえよ」と天井を見上げた。「死んだ人間は……笠峰の野郎は、もう戻ってこない……」
「彼か」と松坂は言った。「私達が到着した時には、もう死亡していたな」
「俺が千条神羅に刺されそうになった時……俺を庇って、死んだんだ。人体じゃとても受け止められねえ一撃を、結局は二人ともが貫かれる形でな」
「だが、それでお前は生き延びた」松坂は断定するように、武田を見た。「今、まがりなりにもお前が呼吸できているのは、勇敢な若者が自身の命をなげうって、行動に出たおかげだ。解析班によると彼の身体が刺された時に、刺突の威力が弱まったらしい」
「そうか」武田はぼんやりと言う。「あいつが……俺の命を救ってくれたのか……」
「そこで二つめだ」と松坂は話題を切り替えた。「質問の方だ。これからのお前には、二つの道が用意されている」
「道?」武田が反芻すると、松坂が頷いた。彼は鋭い視線をこちらに向けて、「裏の世界を知ってしまった以上、お前を野放しにしておく訳にはいかない。このまま記憶を消されて、普通の警察官に戻るか――もしくは、SATとして裏の仕事に従事するか。どちらかを選べ」と迫った。
「須磨って奴を拷問した時に聞いたが、『対象となる事案に深く関わり過ぎた人間の記憶は消せない』んじゃなかったか?」
「それはあくまで、『不特定多数の人間の記憶を一斉に削除する』時だけの制限だ。直接、劇薬でも投与してしまえば、記憶など簡単に奪い取れる。事件後の証拠隠滅の際、SATが拘束するために襲った者達は、一人一人捕らえて記憶を消した。そして……あの住宅街にいた、今回の事件に何かしらの関わりを持っていたと思われる少年も、その場で拘束し、記憶を抹消した」
松坂の言葉を受けて、武田は、あの学生服を着た少年を思い浮かべた。
彼は、あの『エデンの使徒』の少女を必死に守ろうとしていた。松坂の言っているのは、おそらくあの少年の事だろう。つまり、彼はもう忘れてしまったのか。自分が守ろうとした少女の事を、もう思い出す事すらできないのか。それはどんなに、つらい事だろうか。
いや……その気持ちすら、どこかに置いてきてしまったのか。
「世の中……不条理なモンだな……」
「ああ、この世界にまともな条理なんて存在しない。いつだって、人は理不尽な選択を押しつけられながら生きている。だから、この場でお前にも問おう。全てを忘れて、日常に戻るか。記憶を胸に抱いたまま、自由を奪われるか」
どちらにしても、武田にとっての幸福は、そこには存在しない。
だからこそ。
「そんなモンは、決まってる」武田は迷う事なく答えた。「俺は『生きる』。死んでいったアイツの遺志を引き継いで――『今』の俺として生きてやる!」
「覚悟は、あるのだな」松坂は射抜くように武田を見据える。
最後の確認を取ろうとしているようだった。
「その代わり」武田は松坂を睨み返す。「俺は、お前の思惑通りには絶対動かねえぞ。お前が一般人の犠牲を許可しようが、俺はそれに従わねえ。それに従って罪のない人間の命を奪おうとする奴らがいたとしても、全員俺が止めてやる」
「頼もしいな」彼は小さく笑って踵を返す。「後日、またここに来る」
松坂の足音が病室の外に消えていく。狭い室内には、今度こそ自分一人だけになる。
「……裏の世界……か」武田は窓から覗くビル群を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。
自分の常識の通じない世界。事件解決のためなら民間人の犠牲すらいとわない特殊部隊達。金のために関係のない人間の生命を、いとも容易く消し去る事ができる殺し屋。自分を執刀したらしい、『闇医者』と名乗る怪しげな男。
そして、この世のものとは思えない力を振るう化け物。
そんな不条理の渦中で、これから自分は生きていく事になる。今回のような悪夢そのものとも言える出来事と、何度も対峙していかなければならない。
おそらく。
この騒動ですら、氷山の一角。
世界の深いところでは、今もなお、おぞましい事件が起こっているのだろう。道端に転がる石ころのように、誰の眼も届かない場所で、多くの命が失われているのだろう。
「……はッ、考えただけでチビりそうになっちまうな」
希望の一切が削ぎ落とされた奈落の底。いつ命の灯火が尽きるかも分からない状態で、これから自分は戦っていく。平穏の二文字とはかけ離れた日常の中で。
「つっても……ここで尻尾巻いて逃げちまえば、お前に笑われちまうな」空を見上げながら武田は、ここにはいない誰かへと向けて言葉を紡ぐ。「安心しろよ。俺は死ぬまで、『お前の尊敬する上司』でいてやる。……だから、そこから見といてくれ」
武田は隠し持っていた箱から煙草を一本抜き取ると、咥えた煙草の先端に火をつけた。吐き出した煙は薄れゆきながらも、ゆっくりと確実に、開いた窓から天に昇っていく。
死者への手向けにしては随分と無粋な色の花だったが、おそらくそれを気にするような二人ではない。
今生の別れとなってなお、かつての上司と部下の絆は途切れる事はない。




