1
終 幕
1
午後の授業の気だるさに静まり返った教室のチャイムが鳴った。
学生というのは現金なもので、その電子音が鳴り終わった直後には、さっきまでのグダグダ加減が嘘のように元気を取り戻す。水を得た魚という言葉が、これほどまでに似合う者達はいないだろう。五十嵐は辟易としながら、手早くカバンに教科書を詰め込んで学校を出た。
三月中旬。
学年末考査を終え、もうすぐ春休みが訪れようとしている。気候も徐々に暖かくなってきていて、日が高い時には制服の上着を着ていると暑いくらいだ。
今日の空には雲ひとつない。見渡す限り青空が広がっていて、春の訪れを予感させる。
季節は移り替わって、世界は絶えず変化していく。
――しかし自分を取り囲む環境ってのは全然変わらないな、と彼は思う。退屈で平和な、何の驚きも発見もないただの日常。ここ最近で唯一何かが変わったとすれば、クラスメートが一人いなくなった事くらいだろう。
葛城真彩という暴力女が、何でも両親の仕事の都合とやらで唐突に転校したのだ。
容姿の方は完璧過ぎるくらいに完璧なんだが……さっき言った通り、とてつもなく凶暴な性格なのだ。
入学当初は同学年、上級生問わず相当な人気があったのだが、彼女――葛城真彩の本性を知ってからは……って、あれ? 何か同じような話を前にもしたような気が……。
そういえば、自分の住んでるアパートの住人達が奇妙な事を言っている。
隣の部屋に住んでる無職の中年ジジイが、『最近、兵隊の格好をした奴に簀巻きにされる夢をよく見るんだ』とか意味の分からん事を言い始めたのがきっかけだった。
ジジイの話が広まると、やがてアパートに住む五十嵐以外の者達が全員、口を揃えて、『自分もよく、その夢を見ている』と告白し出した。
そしてアパート周辺の住民達も、その夢を見る時があると口々に言っているのだ。一体どういう事だこれ? 自分以外の全員が、新手のSMプレイにでも目覚め始めたのか?
しかし、様子がおかしいと感じるのは何も他人だけではない。
自分に対しても、ここのところ変な不信感を持つ時があるのだ。
たとえば、先ほどの葛城真彩についてだ。彼女は、親の仕事の都合で転校すると担任には説明された。だが、どうにもそれが納得できないのだ。
――だって彼女は『自分で稼いだ金で、自分一人だけで暮らしているのだから』。
と、そんな身も蓋もないような事を無意識の内に考えている自分がいた。彼女と話した事なんてほとんどないはずなのに、自分は彼女の事をクラスの中の誰よりも知っている――そんなふうに考えていた。
自分自身が、そう思おうとした訳じゃない。まるで自分の大切な友達が、誰かに侮辱された際に、その誰かに対して、「この人はそんな奴じゃない!」と感情任せに反論してしまう時のように、気がついたらそう考えている自分がいたのだ。
さらに、それだけじゃない。訪れた事のないはずの場所で、奇妙な既視感に苛まれる事がある。その場所でテレビの砂嵐のようにノイズがかった、映画のワンシーンのような光景が、脳裏にフラッシュバックする事がある。
――一体、いつからだ? 俺の世界がおかしくなったのは。
顎に手をやり、柄にもなく真面目に考えてみる。そうしてみると、葛城が学校に来なくなった二月九日から、何かが狂いだしていたんじゃないかという結論に行きつく。
九日に学校に行った時、担任から、『どうして昨日、来なかった?』と訊かれた。
二月八日に自分は学校に行っていなかった。理由は風邪を引いていたはずだからだ。八日の記憶はかなりぼんやりとしていて、自分自身、よく覚えていない。一日中寝込んでいて、風邪を引いている時特有の、得体の知れない悪夢のような夢を小刻みに見ていた――と思う。
そういえば最近、誰かにこんな話をしていなかったか? と、またデジャヴに襲われる。
そんな事に頭を悩ませながら歩いていると、首筋にうっすらと汗をかいている事に気がついた。午後の日差しが降り注ぎ、制服の内側の身体を熱しているのだ。
朝はまだ寒い方だが、やはり日中になると話が変わってくる。制服の上着のボタンを外して脱ぐ。畳んでカバンの中にしまおうとした時、胸ポケットから何かが落ちた。
「ん?」思わず眼を細める。こんなところに、何か入れておいただろうか?
アスファルトに転がったそれに視線を移す。
「貝殻の……ペンダント……?」
路面には、銀色をしたアクセサリーが落ちていた。当然、自分のものではない。こんなものを買った覚えなんてなかった。なのに……。
――ああ、またこの既視感だ。
つい最近、このペンダントを眼にしたと訴えている自分がいる。買った覚えもない、ポケットに入れた覚えもないアクセサリーを確かに知っている自分がいる。
と、そこで貝殻の形をしたチャームの隙間から、何か紙のようなものが覗いている事に気づいた。ペンダントを拾い上げ、チャームを開ける。そこには、四つ折りにされた小さな紙片が挟んであった。
紙片を手に取り、広げる。紙には五十嵐のものではない文字で文章が綴られていた。
『手紙書くのなんて久しぶりだなあ。施設にいたとき以来かも。
あなたは今私のとなりでねてる。いつ起きるか分からないからちょっとドキドキしてる。
面と向かって話すのは照れくさいから、手紙にして残すね。
最初、あなたの家で目が覚めたときは、知らない場所でこわくて強くあたっちゃってごめんなさい。でも助けてくれたんだってわかったとき、すごくうれしかった。
私がつかまったときも、助けてくれてありがとう。
真彩のお姉ちゃんも、ちょっとこわいけどすごくいい人だね。この髪型もすごく気に入ってるよ。
でもね……私がいるとみんなにめいわくかけちゃうから、いつまでもいっしょには、いられない。
たぶん、あなたがこの手紙を読んでいるとき、私はもうあなたのそばにいないと思う。
だから、あなたにこのペンダントを受けとってほしいんだ。
もしかしたら、もう会うこともないと思うから。
私のこと、いつまでも忘れないでくれたらなって。
あなたみたいな人に出会えてほんとうにうれしかった。
ありがとう、さようなら。
鈴鳴より 』
――知らない。こんな文字を書く知り合いは、自分にはいない。鈴鳴なんて名前の知り合いなんていない。きっと人違いだ。これを書いた誰かは、別の人にこの手紙を渡そうと思っていて、それを間違えて五十嵐の制服に入れてしまったんだ。
だから――今、この手紙を読んで自分が涙を流しているなんて、何かの間違いだ。
シャツの袖で涙を拭うが、溢れ出る涙は留まる事を知らない。手紙に零れ落ちた雫が、インクを滲ませる。手紙をもとに戻そうとして、チャームに眼をやると、そこには知らない家族の写真が納まっていた。中央、母親らしき人物が抱えた赤ん坊を見た瞬間、堰が切れたように、さらに涙が溢れ出した。
「ちきしょう……ッ! 何だよこれッ!? ふざけんじゃねえ……こんなものッ……!」
歯を食いしばり、乱暴にペンダントを掴み直すとそれを地面に――叩きつける事ができない。これを捨ててしまったら、自分の中で本当に何かが終わってしまう気がして――
「ちくしょうッ……!」
――五十嵐は、涙が枯れるまで立ち尽くしているしかなかった。




