◆(二月八日――時刻不定)
◆(二月八日――時刻不定)
おじさんがいなくなり、とうとうここには私達だけになる。
私の身体が冷たいのは、降りしきる雪のせいなのか、それとも『生命力』を失った事で衰弱しているせいなのか、もう分からない。
口から白い息を吐きながら、私は彼の倒れているところへ歩み寄る。
彼は気を失ってるみたいだった。まだ死んではいないけど、おじさんの言う通り……そう長くはないと思う。彼を中心にして広がる真っ赤な水溜まりが、それを物語ってた。
彼の前で屈み込むと、さっきみたいに、背中に腕をまわして慎重に抱き上げた。前髪で隠れた額を、そっと撫でる。
すると彼の口から、「う……」という呻き声が洩れ、ゆっくりとまぶたが開いた。意識を取り戻した彼と私の視線が絡み合う。
「私ってさ、卑怯だよね……。あれだけあなたの事を拒んでおいて……こうやって、あなたが死にそうになって初めて……向き合う気になれた……」
「……すず、な……?」彼は、その瞳に私を明白に映すと、両眼から大粒の涙を流し始めた。「鈴鳴……ッ! 鈴鳴……ッ! やっと……やっと君が、俺に……!」
彼は心の底から歓喜するように、ほとんど動かなくなってしまった顔の筋肉を必死に動かして精一杯の笑顔を作る。それを見て、私は胸の中で安堵した。――ああ、彼の笑顔だけは、今も昔も全然変わってないなって――。
でも。
その喜びは、長くは続かない。直後に彼は、喉の奥から何度も苦しげな声を吐き出してむせ返ると共に、大量の血を吐き散らした。
「い……嫌、だ……」彼は今にも消え入りそうな、うつろ声を洩らす。「鈴鳴……、俺、死にたくない……ッ! ずっと一人っきりで、何年も何年も君を探し求めて……ようやく君に会えたのに……。これで終わりだなんて……絶対に嫌……だ、よ……」
ぽたぽたと。赤色と混じって濁った雫が、彼の頬を伝って地面に滴っていく。
「大丈夫だよ。もう、私はあなたを一人にはしないから。これからは……私も、ずっとずっと一緒にいられる……だから、怖くないよ……」
私は満面の笑みを彼に向けながら、自分自身にも言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
異質な緊張が、全身を這い上がってくる感じがする。私の心のどこかが怯えているんだ。最後の警告を私に向かって発してきてる。
――ちゃんと分かってる。彼が元凶なんだって事も。彼はこれまでに、たくさんの命を奪い去ってきた。いろんな人を不幸にさせてきた。彼があんな事を起こさなければ、私達の絆が引き裂かれる事だってなかった。この世界に私がもう一度放り出される事もなかったんだ。
けど――
「――本当に……あなたの事を、嫌える訳がないよ……!」
だって。
「何も持ってなかった……空っぽだった私に、生きる意味を……鈴鳴って名前をくれたのは……あなたなんだから……!」
気づけば。
私の両眼からも、どんどん涙が溢れ出していた。
止まらない涙を全部下に落とすように、私は空を見上げる。
――言えた。やっと、胸にしまってきた本当の気持ちを……。
私一人じゃ逃げ続ける事しかできなかった。
あの夜、あのおじさんと出会った時から私の世界は変わった。おじさんを助けて、力を使い過ぎたせいで意識が朦朧としてる時に、あの人が私を助けてくれた。怖い人に捕まった時にも、赤の他人でしかない私のために命を張ってくれた。あの人と一緒に、彼から逃げている最中、追ってきた彼に見つかった時、コートのおじいさんが逃がしてくれた。
たくさんの人が、私と彼を取り巻く問題に巻き込まれてしまった。
そのせいで、きっと流れる必要のなかった涙が流れただろうし……傷つく必要のなかった人達が、深い傷を負わされた。いなくならないでよかったはずの人達が、いっぱいいなくなってしまった。
私や彼と関わった人達は、それぞれの意思で、ここに踏み込んできたんだと思う。
詳しい事情なんて知らなかったかもしれない。どっちが悪で正義なのかも、気にしていなかったのかもしれない。あったのは、自分自身が信じる信念だけ。
それを貫き通すために、皆はこの場所に集まった。それぞれの思いを胸に抱いて、それぞれが最後の戦いに挑んで、それぞれが何かしらの決着をつけた。
私達のために……ううん、私達のせいで皆は死んでしまったんだ。
皆を殺したのは、彼だけじゃない……私もなんだ。
だから――いろんな犠牲が積み重なってできた、この悲しい物語に。
最後に私自身の手で、『終わり』を書き出そう――。
「鈴鳴……何を……?」
「一緒に行こうね」
彼を抱き留めたまま、私は力を解放させた。この世界に散らばる不思議な欠片。ひとつひとつは、眼に見えないちっぽけな粒。それらを集めて形にする力。
『セフィロト』。
誰が名づけたかも分からない、その光の集合体は――私と彼を中心として空まで伸び上がる。ぐんぐんと、どこまでも終わりなく続くように。立ち込めていた厚い雲を引き裂いて。どこまでも、どこまでも。私の持つ限界を超えてまで、止まる事なく一直線に、天を目指して伸びていく光。
『生命の樹』。
その名を冠するにふさわしいほどに、大きく広がってたくましくなった幹と、芸術的なまでの様相で繊細に枝分かれした無数の樹冠。
雪と一緒に、その煌めきを街に振りまく樹は――きっと架け橋だ。
私と彼。二人の使徒を元の居場所へ帰すための。
そびえ立つ樹の下で、私は彼に笑いかける。
「ね? きっと今度はさ、こんな力を持った存在じゃない……普通の女の子と、男の子に生まれて……そしたら、また友達になろうよ…………奏太……」
ぽつりと。私は言葉の最後に、そう口にする。
片時も忘れた事はなかった、その二文字。千条神羅じゃない。彼の――本当の名前。
世界にたったひとつしか存在しない、絶対に替えの効かない宝物。
その言葉を聞いた瞬間、何かを懐かしむように、彼は私のよく知っている、優しさと悪戯っぽさを含ませた無邪気な表情になった。「その名前は、あんまり好きじゃないんだよな……。それによ、今の方がカッコイイだろ?」
「あはは……あなたってさ……誰かに名前をつけてあげるのは、すごく上手いのに……自分に名づけるのは苦手なんだね?」
「余計なお世話だっての。俺は気に入ってるんだよ」彼の話し声には、さっきまでの絶望感はなかった。声はしわがれていたけど。顔は血まみれだったけど。そこにいたのは、確かに私のかけがえのない友達だった。
音のない世界の中で、しばらくの間二人きりで笑い合ったあと、私は静かに言った。
「もう時間だね……」
「ああ、そうだな」彼も寂しそうに囁いた。「鈴鳴……今の約束、絶対に忘れるなよ?」
「うん、忘れないよ。次会う時は二人一緒。誰にも邪魔されないで、二人で好きなだけ遊ぼうね……だから、寂しいけど少しの間だけ――」
「「――さようなら」」
樹が、よりいっそう強く瞬いた。
やがて溶けるように光が消えたあと、まるで全てを見届けて満足したかのように雪は止み、朝が来るまでの短い時間、月明かりが世界を優しく照らし続けた。




