4(二月八日――午前四時二四分~午前四時二七分)
4(二月八日――午前四時二四分~午前四時二七分)
「う……」短い呻き声が、自身の口から洩れているという事実に気づくのに数秒を要した。
全身を鈍痛が駆け巡っている。頬にひんやりとした感覚がある事を考えると、自分はどうやら寝転んでいるらしい。身体を起こそうと、腕に力を込める。だが――
「あれ……?」
――動かない。自分のものであるはずの四肢が、びくともしない。どれだけ全身に力を入れても、身体は言う事を聞いてくれない。
「よかった……眼が覚めたみたいで……」頭上から声がする。鈴の音のような綺麗な声だ。
五十嵐は、声に反応するように頭を上にあげた。幸い、首は動いてくれた。
そこにいたのは、鈴鳴だった。彼女の着ている服や、髪の毛は砂埃にまみれて、まるで最初に出会った時のように汚れてしまっていた。しかし彼女の表情には、変わらず優しみの明かりが灯っている。
「もしかしたら、もう起きてくれないんじゃないかって思ったけど……がんばった甲斐があったな……」鈴鳴は首を傾げて、心の底から浮かべたような温かい笑みを向けてくる。
そこで五十嵐は気がついた。いや、思い出したと言うべきか。
瀕死となった須磨の最期の一撃。一帯の建物をまとめて爆破し、倒壊させ、自分ごと五十嵐達を瓦礫の下敷きにしようとしたのだ。倒れてきた建物の外壁が、眼前に迫ってきたところを最後に、記憶は途切れていた。
自分が動けないのは倒壊してきた建物の瓦礫に身体を挟まれているせいだと、周囲の景色を見渡してからようやく気づいた。首を回して後ろを見やると、到底一人で抜け出せそうにはないほどの瓦礫が積み重なっていた。
「俺……どうして生きてるんだ……?」
「私がやったの」鈴鳴は答えた。「……建物が倒れてきた時、とっさに自分とあなたを『セフィロト』で守ったんだけど……やっぱり完全には防げなくて……」
鈴鳴は五十嵐から眼をそらして、「私もあなたも……大怪我してしまったの……」と、うつむきがちに呟いた。
「怪我……?」言われ、五十嵐は自分の身体を改めて確認してみるが、それらしい感覚は全く感じられない。身体は痛むが、大怪我と言うほどのものではない。彼女の方も見てみたが、それらしい跡は見受けられない。
「だから、治したの」彼女は五十嵐の眼前に、上に向けた手の平をかざす。
すると、そこから淡い光が浮き出てきて、彼女の手を包み込んだ。特殊部隊と戦った時や、千条神羅が操っていた光とは質の違う――とてもとても優しい光。
「この力を使って、あなたに私の『生命力』を注ぎ込んだの……それでも、目覚めるかどうかは分からなかったけど……本当に、良かった」
「俺は……そんなに酷かったのか……」
「うん……あのまま何もしなかったら、多分、本当に死んじゃってたと思う……」
にわかには信じられない話ではあったが、これだけの大質量のコンクリートの塊に生き埋めにされておいて、いまだに生きているというのが何よりの証拠のように感じられた。
「うッ……!」突然、鈴鳴が苦しそうに呻き出す。そのまま膝から崩れ落ちる。
「鈴鳴!? どうしたんだ!?」
五十嵐が泡を食った調子で尋ねると彼女は、「大丈夫、だから……」とこちらを見つめて力なく笑う。「少し……目眩がしただけ……」
彼女の顔には強い疲労の色が見て取れる。紅潮した頬には嫌な汗が滲んでいた。明らかに様子がおかしい。
この症状も、最初に彼女と会った時とよく似ていた。
高熱にうなされていた彼女が脳裏を過ぎる。
「大丈夫な訳あるか! 待ってろ鈴鳴! 今、ここから抜け出して病院に……ッ!」
「いいの……」鈴鳴はフラフラと立ち上がると、「彼の力が……どんどん弱まっていってる……」と遠方を眺望して囁いた。「きっと彼はもう……」
「……何を、言って……?」
「私――もう行かなきゃ」鈴鳴は言った。「彼に会いにいかないと……彼を、あそこから救い出さないと……」
鈴鳴は五十嵐の方へ向き直り、彼の頭に手を回して抱きついた。
「短い間だったけど、ありがとう……」必死で平静を装うような声だった。少しでも気を抜けば、今すぐにでも泣き出してしまいそうなほど震えた声だった。「もう、私の事は忘れて……あなたにはこれから幸せに生きてほしいな……」
「何だよそれ……? 何だよその、もう会えなくなっちまうような言い方は……!?」
五十嵐の問いには答えず、鈴鳴はそっと手を離す。たったそれだけの行為が、彼女に突っぱねられたように思えてしまう。
鈴鳴は胸の前で両手を握ると、天使のように微笑む。
やめてくれ。もっと抱きしめていてくれ。もっと触れていてほしい。もっと見つめていてほしい。もっと側にいてほしい。だから、どこにも行かないで――
「――さようなら」
一言。
五十嵐を絶望の縁に叩き落とすには十分過ぎる言葉を紡ぎ出して、彼女は行ってしまう。
一歩。また一歩。そしてまた一歩。
ゆっくりとした足取りで彼女は五十嵐のもとから離れていってしまう。
まだ、こんなにも近いはずなのに。
そのたった数歩の距離は、永遠に追いつく事ができないように思えてしまって――
「い、行かないでくれッ!」
――五十嵐はとっさに呼びかけていた。
「頼む! 戻ってきてくれ! 俺、お前を苦しませなくていいように強くなるから! お前を狙ってくるヤツがいても、全員ぶっ飛ばしてやるから! だから置いていかないでくれ……! お願いだからッ…………俺をひとりにしないでくれよ……!」
実際は、そんな大それた事なんてできはしない。たった一人の襲撃者相手に殺されかけるような無能な自分だ。自身の力量も限界も知らないような、単なる子供の世迷い言だ。
それでも。
どれだけ無様でみっともない格好を晒したっていい。
彼女が立ち止まってさえくれれば、それでよかった。
自分が、どうして赤の他人でしかなかった鈴鳴の事をこうまでして助けようとしたのか……今ならその理由がはっきりと分かる。分かってしまう。
「俺……きっと、鈴鳴の事が好きなんだ……! 一人の異性として、愛していたんだ……! 出会ってから全然経ってないけど……俺は鈴鳴のためなら何だってできる! 何だって捨てられる! だから、一緒に家に帰ろう……?」
恥も外聞も気にせず、心の内は全て包み隠さずにぶち撒けた。もう、これ以上言える事はなかった。
でも――
「ごめんなさい……私はあなたの気持ちに答えられない……」
――現実は、どこまでも残酷で理不尽で不条理で。何の救いもなく。
俺を、置いていってしまうんだ。




