3(二月六日――午後五時二二分~午後五時三一分)
3(二月六日――午後五時二二分~午後五時三一分)
五十嵐は首筋に突き刺さる冷たい風に、顔をしかめながらマフラーを巻き直した。学生服の中もそれなりに着込んではいるが、真冬の寒さだけはごまかしようがない。呼吸するたび、凍てついた空気のせいで、鼻の奥が痛む。
――当然の事ながら、冬は日が落ちるのが早い。五時を回った今、空は濁った黒に染まり、グレーの雲の隙間からは、淡く輝く三日月が顔を覗かせていた。しかし、暗いのは空だけだ。地上はこれでもかというほど明るい。短い間隔で設置された街灯、コンビニや飲食店の中から発せられる照明が、夜の街の景色を鮮明に照らし出している。――入院している患者の人数が少ないのか、少し遠くに見える大学病院の窓には、まばらにしか電気がついていなかった。
五十嵐は不機嫌そうに舌打ちした。
(くそ……どうして俺がこんな目に遭わなくちゃいけねえんだ……!?)
前方。彼の視線の先。そこには、周囲の人間から発せられる好奇の視線など、全く意に介した様子もなく、悠然と歩く一人の少女の姿があった。
――葛城真彩。
ウチの学校の制服を完璧に着こなし、モデルのような歩き方で歩を進める彼女。誰が見ても反論のしようがないほどの美人で、入学当初は同学年、上級生問わず、相当な人気があった。
そう、『あった』。つまり過去形だ。今では五十嵐の通う学校に彼女を好意的に見る者は、ただの一人もいない。
なぜか。いたって簡単な話だ。彼女――葛城真彩の本性を知ってしまったからである。
男女、学年、教師を問わず行われる、日常的な暴力や恐喝。
中には彼女に不埒な行いを実行しようとした不良グループや、セクハラ教師を撃退したとかいう明らかな正当防衛もあるにはあるが、それはごく一部の話である。
本来なら留年、それどころか退学になってもおかしくないレベルの揉め事を葛城は起こしている。しかし、教師達はそろって、彼女に対して無介入を貫いていた。それについては、すでに彼女が全ての教師(全部で五〇人はいる)の弱みでも握って、彼女が意のままに彼らを操っているからではないからか、などといった憶測が校内で飛び交っていた。
立て続けに事件を起こす彼女を、まだ恋愛の対象をして見られる人間がいるのなら、ぜひともお眼にかかりたいものだ、と五十嵐は胸の内でこぼした。
そして。
どうして彼が、そんな惚れてもいない女(それもとんでもない問題児)のあとをつけているのか。
全く無関係の人間が今の状況を知れば、間違いなく五十嵐の事をこう思うだろう。『ストーカー』だと。だが、今の彼にとっては、誰が自分の事をどう思おうと全くもって関係ない。
理由は簡単。時は数時間前にさかのぼる。
「ちょーいとつき合ってくれんかね、五十嵐くん?」
昼休みに、甘ったるい猫なで声で、クラスメイトにそう声をかけられた五十嵐は即座に逃走を試みた。だが、部活も入らずロクな運動もしていない自分では、もちろんの事、大の男一〇人を叩き伏せるほどの彼女から逃れる事はできなかった。
そんな訳で。
哀れみの視線をこちらに投げかけながらも、一切、助けには入ろうとしない友人(裏切り者)共を恨みがましく見返しながら、五十嵐は葛城真彩に襟首を掴まれ、半ば引き摺られる形で教室から連行された。
連れてこられたのは……まあ、こういう時の定番ともいえる校舎裏。壁に張りつけられるかのような体制で直立させられた五十嵐は、震える声で尋ねた。「あのう……葛城さん……僕に何か用でしょうか……?」
「いやあ、ごめんね~! キミにど~しても頼みたい事があってさ~!」五十嵐とは対照的に、葛城の方はなんとも間延びした声だった。全く裏表のなさそうな、ウインクつきの笑顔が、五十嵐にとんでもない圧力をかけてくる。「実は今月、すごいピンチでさ~……よかったら貸してくれない? ――『有り金、全部』」
言い返す事はできなかった。
かといって、素直に金を渡そうとした訳でもなかった。
なぜなら、彼女を前にした恐怖で萎縮した身体が一ミリたりとも動かなくなってしまっていたからだ。
葛城のニコニコ顔を向けられる事、約一〇秒。従う気がないと彼女に判断された五十嵐は、無言の内にフルボッコにされ、尻ポケットに入っていた財布を強奪されたのだった。
――その中に、自分の家の鍵と、電車の定期券が入っていた事に気づいたのは、放課後に保健室で眼を覚ましてからである。
そして、五十嵐は一人暮らし。
要約すると、自分の家に帰れなくなったのである。
(……なんとしてでも、あの女から財布を取り返さねえと……! このままじゃ、最悪野宿になるぞ……!)
こんな真冬に野宿なんかするハメになれば、間違いなく一晩で死ぬ自信がある。それどころか、制服のままである事を考えると、誰かに警察を呼ばれても不思議ではない。このまま突き進めば、俺には破滅しか待ち受けていないのは明確だ。
しかし、この残された最後の道は、あまりにも危険。半殺しにされた相手の前にもう一度立って、奪われた物を返してもらうとか無理難題過ぎる。
結果、どうしたらいいのかも分からず、葛城を尾行している内、即席ストーカー五十嵐の完成である。
(やっぱ、声かけてみるしかねえかなあ……。もう金の方は諦めるとして、鍵と定期だけでも……さすがにそれくらいならあの女も……)
彼女を見失わないように気をつけながら、眼を閉じてゆっくりと深呼吸する。なけなしの覚悟を決める。まぶたを開ける。次いで、彼女のもとへ駆け出す。
「あの――」こちらの姿に気づいた様子もない、葛城の背中に声を投げかけようとした瞬間だった――。
五十嵐のすぐ真後ろで轟音が鳴り響き、アスファルトが粉々に砕け散った。