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Like A Broken Mirror  作者: 勾田翔
再会
27/51

16(二月七日――午後五時五八分~午後六時四九分)


   16(二月七日――午後五時五八分~午後六時四九分)


 一度殺されかけた相手の前に戻ってくるというのは、普通に考えて気分の良いものではない。すぐにでもこの場から逃げ出したいという気持ちが、胸の中に渦巻いている。

 だが。

 ここで引きさがる訳にはいかないのだ。

 今現在、鈴鳴の事を守れるのは自分しかいないのだから――。

「ほらほら! どうしたんです!? せっかく格好よく戻ってきたのに、これじゃあ台無しですよ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッ!!」

 恐怖に鷲掴みされた心に追い撃ちをかけるように、狂気に満ちた青年の笑い声が響く。

 どんな状況にあっても青年の敬語が崩れる事はないが、その全身からは、これでもかというほどの狂気が留まる事を知らず溢れ出してくる。時折、建物の隙間から覗く青年の顔は、他人に暴力を振るうという行為に対して快感を抱いているかのように恍惚としていた。

 おそらく。

 これこそが青年の本性なのだろう。

 人を痛めつける事自体が、自分自身の生きがいとなってしまっているのだ。何の罪もない人を絶望の底に叩き落として、苦しみもがく様を傍観して楽しむ。

 青年の話す敬語や、柔和に形作られた顔面は、彼のどうしようもない『正体』を隠すために造られたものなのだろう。異臭を発する生ごみの詰め込まれたゴミ箱に蓋をするように。嫌悪感を拭う事が絶対にできないものを、どうにかして見ないようにするために。

「――そこですかあッ!?」

 乾いた発砲音が木霊し、五十嵐が背を預けていた民家の塀に弾丸が突き刺さる。

(くそッ……!)

 自分の潜む場所の側が銃撃されるたびに、強烈な吐き気が込み上げてくる。身体を襲う震えは増し、心臓の鼓動が早くなる。

 安全な場所を探して動き回る行為自体がすでに危険。走っている最中に飛んできた銃弾に身体を貫かれると考えるだけで、背筋がぶるりと怖気に襲われる。

(ちきしょう……! ビビッてんじゃねえぞ俺! 余計な事考えてる暇があったら集中しろ! 生き残るために!)

 五十嵐は奥歯を噛み締め、周囲を見回す。

 辺りはすでに夜の闇に飲み込まれている。ところどころに設置された街灯や、自販機の明かりだけが、頼りなく夜道を照らし出していた。

 ここにきて、分かった事がひとつだけある。

 最初からおかしいと思っていた事ではあった。

 いくら大雪が降っているとはいえ、ここまで『人がいない』というのはありえない。

 五十嵐のアパートで青年と対峙した時も、あれだけ派手に暴れて、双方ともに大声をあげたというのに、他の部屋からアパートの住人が出てくる事は一向になかった。特に五十嵐の隣の部屋に住んでいる無職の中年オヤジは、夜中にちょっと音楽やラジオを流しただけで怒鳴り散らしてくるほどに雑音を嫌っており、そんな奴があの状況において一切介入してこなかったというのは、どうにも不可解だ。

 そして。

 この現象を説明するための命題のひとつが――五十嵐の周囲の景色である。

 さきほど、街灯や自販機の明かり『だけ』が、夜道を照らしていると言った。

 そうだ。それ『だけ』である。この現代において当たり前であるはずの、夜間に点灯している民家からの明かりが――ここには一切ないのだ。

 どの家を見渡しても、窓には電気が灯っていない。どこもかしこも真っ暗である。これが深夜ならともかく、今はまだ六時前だ。たいていの家は誰かが帰って来ていて、電気をつけて部屋の中でくつろいだりしている時間だろう。

 なのに――まるで深夜のように、この一帯に光は存在せず、どこからも青年のもの以外の音声は聞こえてこない。

 これが、何を意味しているか。

 五十嵐は生唾をごくりと飲み込んだ。顔の表面を冷や汗が伝う。傷ついた側頭部に塩分を含んだ体液が染みて痛かった。呼吸が小刻みになる。息を吐くたびに、眼前に白い煙が立ち込める。

 ――あともう少し。もうすぐのはずなんだ。

 五十嵐は自らに言い聞かせるように、内心で唱える。この地獄をもう少しの間耐え抜けば……!


「見つけましたよ」


「ッッッッ!!」青年の肉声を鼓膜が捉えた瞬間、反射的に飛び退く。すぐ近くで強烈な破裂音が響き渡り、路面に積もった雪を吹き飛ばす。同時に五十嵐は地面からむしり取った雪の塊を、声のした方向に思い切り投げつけた。

 直後に、「わぶッ!?」という驚愕の声。人間の体温で溶けた水分が眼に入ったのだ。いくら戦いのプロだと自称していようが、ゼロ距離で広範囲に撒き散らされた雪の煙幕を完璧に躱す事なんてできはしない。

 青年がひるんだ一瞬の隙間を縫って、五十嵐は全身の体重を乗せた体当たりをかます。直前に五十嵐が与えておいた『脚』のダメージが効いているのか、青年は踏ん張る事ができずに、そのまま転倒。

「らあッ!」立ち上がりざまに、拳銃を握った青年の右手を蹴り飛ばす。青年の手から拳銃が離れ、路面を転がった。

 しかし、それで終わりではなかった。青年がダッフルコートの内側に左手を突っ込む。彼はそこから抜き放った大型のナイフを、五十嵐めがけて投擲。とっさに身を捻ったが、回転する刃が右肩の肉を切り裂いた。

「ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!」

 信じられないような激痛が体内を蹂躙し、大きく開け放たれた口から絶叫がほとばしる。

(くそッ! そもそも接近されたのが失敗だったッ!)

 涙目になりながらも、五十嵐は両脚を動かす。一刻も早く青年から距離を取らなければ。

 だが。

「――逃がす訳がないでしょうッッッ!!!」

 ドゴンッ! と。

 路面に何か硬質なものを叩きつける鈍い音が鳴った。

 逃げる五十嵐の後頭部を鷲掴みした青年が、五十嵐の顔面を渾身の力でアスファルトに向けてぶつけたのだ。

「がッ……!?」額に灼熱の鉄板を押しつけられたような感覚が走る。刹那の内に、なけなしの意識を根こそぎ刈り取られてしまいそうな、激烈な一撃だった。

 額が割れて溢れ出した血液が垂れてきて口に入り込んだのか、口内が異様に鉄臭い。

 力の抜けた身体に、青年の拳が幾度となく突き込まれる。肉と肉がぶつかるたびに、暗闇の中にキラキラと輝く深紅の花が咲く。

 青年は、五十嵐の体躯を強引に仰向けにひっくり返して、凶悪な笑みを存分に見せつけてくる。

 彼は、ふうふうと獣じみた呼吸を繰り返しながら、「もう逃がしませんよ」と言った。「彼女はまだ動けないでしょうから……それまでの間、存分にあなたをいたぶれますねえ……ッ!」

「はははッ……! そうかよ……」

 しかし、絶体絶命となったこの状況で、五十嵐は笑った。

 青年は五十嵐のその笑みを、追い詰められた末の自暴自棄から来るものだと考えただろうか。

 違う。違うんだよ。殺人狂のクソ野郎……それはテメエの勘違いだ。

 五十嵐は青年の事を見ていなかった。彼が見ていたのは、青年の真後ろ。

 ついに――『来たんだよ』。


「俺が逆転するための最後の手段がなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!」


 ドオンッ! という腹に響く音だった。遠方から聞こえてきたのは。

 眼を見開き、間抜けな表情を晒した青年の顔が目の前に現れた時、五十嵐は、「ざまーみやがれ」と吐き捨ててやった。

 青年の着ていたダッフルコートの腹部には、真っ赤なシミが浮かび上がっていた。

 それは――血だった。

 それは――銃創だった。

 それは――一切の反論なく断言できるレベルの致命傷だった。

 何が起きたのか分からないという表情で固まったまま、青年は前に倒れ込んだ。身体はビクビクと痙攣していて、口許がもぞもぞと動き、言語と呼ぶにはあまりにも支離滅裂な何かを呟いている。

 ザグッ、と。堆積した氷の結晶を踏みしめる音がした。


「なんとか間に合った……って事でいいのよね、これ?」


 それは血生臭い悲劇に毒された空間を浄化していくような、美しい響きだった。

 心が、恐怖から解放されていく。絶対零度の中に放り込まれ、凍りついた心が徐々に解凍されてほぐされていく。五十嵐は、そこでようやく安堵の息を吐いた。

「来て……くれたんだな……」五十嵐は精力の薄れた声と共に、口許を緩めた。

 緊張から解き放たれ、今まで押し殺していたものが一気に込み上げてきたかのように、五十嵐の両眼には涙が溜まっていく。

「あんな状況ライブ中継されちゃったら、行かない訳にいかないじゃない……!」声はちょっとだけ照れたように言う。手には最新のスマートフォンが握られていて、すっかり静まり返った空間には二人の肉声の他に、お互いの携帯電話を通じて変換された電子的な音声がスピーカーから流れてくる。「それにしても……ずいぶんとこっ酷くやられたみたいね」

「俺はただの高校生だからな……」

「よく言うわ」声の主――セミロングの茶髪をなびかせる少女、葛城真彩は呆れたように言った。「銃持った相手に丸腰で立ち向かった時点で、アンタはもうただの高校生には程遠いわ」

 そう。五十嵐の狙いは最初から徹底して時間稼ぎ。鈴鳴を公園に隠したあと、葛城の番号に電話をかけ、この付近の住所と一緒に助けを要請する。自分がピンチだという信憑性を高めるために通話状態にしたまま、青年と戦い、葛城がここに到着するまで耐え抜く。

 彼女の腕を確かなものとして信じたうえでの作戦。上手くいく確率は極めて低かったが、五十嵐は成功を勝ち取ったのだ。

 葛城はスマートフォンを持つ手とは逆の手に握ったシャーペン型の拳銃を、カバンの中に放り込み、次いでスマートフォンの方も通話を切ってカバンに入れる。

 彼女は五十嵐の前に屈み込むと、「一人で歩ける?」と尋ねてきた。首を横に振ると、彼女は五十嵐の肩に腕を回してきて、立つのを手伝ってくれた。「あの子はどこ?」

「この先の公園の……遊具の中に隠してある……」

「分かった」葛城は頷くと、五十嵐に肩を貸したままゆっくりと歩き始めた。

 ――彼女の体温は、雪と出血で凍えた身体にはとても心地良かった。



 公園まで辿り着き、ドーム状の遊具の中に残してきた鈴鳴を迎えに行く。戻ってきた五十嵐の姿を確認した鈴鳴は、泣きながら抱きついてきた。

「よかったあ……! ホントによかったよう……!」

「な、言った通りだったろ」五十嵐は鈴鳴の頭を撫でながら、優しく微笑みかける。

「ずいぶん懐かれてるのね」二人の間に割って入るように葛城は言う。「……でも、悠長な事はしてられないわ。早くここから離れるのよ」

「あ、ああ……」彼女に急かされ、五十嵐は鈴鳴を抱きかかえる。ここに来るまでに、動ける程度には身体も回復していた。「……つっても、これからどこに向かえば……」

 自分のアパートはもはや、人の住める状態ではない。周囲の民家が全て、あの青年に襲撃されたあとだと考えると、どこかの家に匿ってもらう事もできない。

 そんな考えを巡らしながら頭を悩ませていると、「どこに行くって、決まってるじゃない」と葛城が断定するような口調で、こちらを見やってきた。

 五十嵐は眉をひそめる。「え? それってどこ……」

「私の家」葛城は即答した。「そこなら、私自身が用意したセキュリティシステムもあるし、絶対安全だから。さ、まずは電車乗って学校近くの駅まで戻るわよ」

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