13(二月七日――午後一時三分~午後五時二六分)
13(二月七日――午後一時三分~午後五時二六分)
「……なるほどね」五十嵐から事のいきさつを聞いた葛城は小さな声で呟いた。
顔面を笑い事では済まないレベルで真っ赤に腫らした五十嵐は、涙目で顔を押さえながら、「まあ……。昨日、あの女の子を連れて帰ってからの出来事は大体こんな感じだよ」とぶっきらぼうに言った。
ちなみに先ほど葛城から、『なんかもう、かたっ苦しいから、やっぱ敬語ナシで』というありがたいお言葉をいただいたため、ようやく普通に会話を交わす事ができるようになりましたと。気分のコロコロ変わる面倒くさい奴だなという感想を飲み込みつつ、五十嵐は彼女の方を見て、「で、他に何か訊きたい事とかってあんの?」と尋ねる。
「あ、そうだそうだ。アドレス教えて」
「唐突ッ!?」
最新型のスマートフォンを手に、こちらに歩み寄ってくる葛城。
「いやあ……ぶっちゃけ私ってさあ、この学校に全くと言っていいくらい話す相手いないからさ? せっかくだし私の話し相手になってよ、アンタ」
「……とか言いつつ、本心は?」
「もちろん手軽な使いっパシリを確保したい」
「――ッざけんなばはあああああッッッ!?」最後まで言い切る前に突き刺さる右拳。ただでさえ先ほどの痛みの残る顔面に重ねて叩き込まれたおかげで、激痛は絶頂に達する。
五十嵐は渋々承諾すると、自身の携帯電話を差し出す。
番号とアドレスを交換し終えると、彼女は底意地の悪い笑みを浮かべて、「それじゃあ、最初のお仕事を頼もうかな」と言った。思いっきり嫌そうな顔をする五十嵐を無視して、彼女は笑顔のまま――
「私、このまま学校サボっちゃうからさ。担任のハゲに怪しまれない言い訳でごまかしといて」
「……ゼッテエ無理。やりたくないとかじゃなくて、可能性の意味で」
「私が直接、『早退したいです』とか言いに行っても、間違いなく門前払いだもん。それならアンタみたいな第三者に任せた方が、まだマシでしょ?」
五十嵐は溜息をついて、「第一さ」と前置きする。「何で学校抜け出さなきゃいけない訳?」
「仕事よ」葛城は簡単な調子で断じた。
その言葉に五十嵐の眉がピクリと反応する。彼女の言う『仕事』。それは彼女の職業――殺し屋としての仕事。つまり、彼女は――
「まさか……今から、人を……ッ!?」
「うん、殺しに行くの」あっさりと葛城は肯定する。その表情には、僅かな変化だって見られない。まるで、自分にとっては、それこそが当たり前だとでも言うように。「アンタには特別に見せたげる。標的はコイツ」
そう言いながら、彼女は五十嵐の眼前にスマートフォンの画面をかざす。画面は写真つきのメールだった。タイトルは『依頼内容』と記されてあって、差出人の欄には『刈谷』と表示されていた。
そして、添付されていた写真。そこには一人の男性が写っていた。証明写真のような、無地の背景に肩から上の顔写真である。写真の中に佇む男の年齢は、見た感じ五〇代くらい。皺の刻まれた顔は、厳格な雰囲気を醸し出していて、学校の教師程度には絶対に感じないであろう怖さがある。
不意に、五十嵐は写真の男を眺めながら、ひとつ気になるものを見つけた。彼が身に纏っているのは青系の制服だった。写真だけでは全体像は確認できないが――それは確かに、警察官の制服のように見えた。写真の下には、画面から見切れてしまって読む事のできない文章らしきものが続いている。予想が正しければ、タイトル通りの『依頼内容』が綴られているのだろう。
「なあ……この人って、もしかして……?」五十嵐は囁くように、目の前の少女に問いかけた。
答えはすぐに返ってくる。「うん、警察官。警視庁刑事部捜査第一課に所属している武田っていう刑事。コイツを今から殺しに行くの」
「じょ、冗談だろ!?」思わず声を荒げる。「相手、警察……公務員じゃ……ッ!」
「そんなの関係ないよ」葛城は冷徹な声で、「私は契約内容に従うだけだから」と言った。「今までも、そしてこれからも。私が仕事をこなしたあとに、どこの誰が困ろうが知ったこっちゃないわ」
「…………」
「ま。今回については、そんな心配はいらないけど」葛城は自分の髪を軽く弄りながら、「刈谷……あ、そいつ、私に仕事を依頼した仲介人なんだけどね」と補足する。「刈谷が言うには、この依頼……警視総監直々のものらしいの」
五十嵐の表情がさらに険しいものに変わる。「警視総監って……警察のトップだろ……? つまり、そいつは自分の身内を殺そうとしてるって事かよ……!? 一体どうして……」
「さあね、そこまでは知らされてないし、はっきり言って興味もない。何にしても、依頼人にとって、この武田っていう刑事が、殺すに値するだけの『何か』をやらかしたっていうのは事実ね」
「特にまっとうな理由のない、依頼人の身勝手な頼みだとしたら?」
「それでも、やる事に変わりはないわ」葛城は揺らぎのない瞳で五十嵐を睨みつけてくる。「私はこの刑事を見つけ出して――殺すだけ」
淡々と言ってのける彼女を前にして、五十嵐は小さく息を吐いた。
率直に言って、五十嵐は彼女の語る内容を疑ってはいない。突拍子もない話だろうが、自らを殺し屋だと名乗る彼女の話を、自分は信じている。
人間など、そのほとんどが命を軽視しているものだ。日常的に、自分に対して害となる者に『死ねばいい』と考えたりしているだろうし、口ゲンカになれば、自身の口から直接、『死ね』や『殺す』などといった言葉を相手に浴びせかけるだろう。
そして、そういった人間のほぼ全ては、心の底から本気でそんな事を切望している訳でも、口走っている訳でもない。
だからこそ。
葛城真彩の言葉には上っ面だけではない、確かな重みがあった。本気で、ひとつの生命を摘み取ろうと考えてしまっている一人の人間。飾り気なく味気のない言葉で、すらすらと人の生死について語る彼女の感情には、一切の容赦は存在しなかった。
ふと五十嵐は考える。一体どうして、まだ高校生でしかないような彼女が、そんな仕事をやっているのか? どんな人生を送ってくれば、人を殺す事に対して、ここまで冷静になれるのか?
率直に言って、葛城は普通に学校生活を過ごしていれば優等生で通るはずだ。授業そのものは、単位を取るために必要最低限の回数しか受けていないが、成績は必ずと言っていいくらいに上位に入っている。
その上、彼女はこの容姿だ。他人とつき合う事において、第一印象が肝心な事は言うまでもない。性別関係なく、顔の造形の整った者ほど、本人が何もせずとも自然に人は寄ってくる。事実、入学当初の葛城の人気は相当なものだった。容姿については、いいとこ、中の下でしかなかった五十嵐は、学校の中でも華やかな者達で構成されるグループなどには全く縁がないし、クラスの女子とも会話を交わした事など、数える程度しかない。
それで、何が言いたいかというとだ。勉強できて見た目もいい――少なくとも学校生活を過ごす上で、これほど有利な条件を兼ね備えている彼女が、どうしてわざわざ他人を遠ざけるような振る舞いを演じ、危険な仕事に手を染めているのだろう?
五十嵐には想像もつかないような、やむを得ない理由があるのかもしれないし、もしかしたら特に深い理由はないのかもしれない。どちらにしろ、他人である五十嵐に、それを知る術は存在しない。
「それじゃあ、私はもう行くから」思考にふけっていた五十嵐の耳に、彼女の澄んだ声が響いた。「あとは頼んだわよ」
まっすぐとした足取りで立ち去っていく葛城。
五十嵐には、その姿を見送る事しかできない。
六限目の終わりを告げるチャイムの音が響く。
ホームルームが済むと、足早に教室を出る。このまま帰ろうとするクラスメイトや、部活に向かう準備を始める生徒達、教室の掃除を始める者達――もちろん、その中に葛城の姿はない。結局、昼休みに別れたきり、彼女が戻ってくる事はなかった。
友人にこれから遊びに行かないかと誘われたが、自分としては家に置き去りにしたままの、あの少女――鈴鳴の事が気になるので、なくなく断った。
一人、校門を出て帰路につく。薄暗くなった道を歩いて駅につくと、改札を通り、ホームから電車に乗る。電車の中は時間も時間なだけあって、人は少ない。学校から早足でここまで来ていた事もあり、同じ学校の人間もいなかった。
不規則に揺れる車内で、五十嵐はふと車窓の方に視線をやった。そこで、「あ……」と小さな囁きを洩らす。
曇った空から、純白の雪が降り注いでいた。今年初めての雪だった。今朝コンビニに行っていた時から、空模様から考えて、『もしかしたら今日、降るかもしれないなあ』と思っていたので、予想は当たったようだ。雪の勢いはまだ弱いが、降り続ければ、かなり強くなっていくかもしれない。
……と言っても、たいていは強くなる前に止んでしまうものだが。
揺られる事、十数分――五十嵐の住むアパートの最寄駅まで到着すると、電車から降り、すぐに家を目指す。この一帯もそれなりに雪が降っていたので、早く帰らなければ濡れてしまう。制服が多少湿る分には構わないのだが、カバンの中の教科書まで濡れてしまうと、それはそれで困る。乾かすのが面倒くさい。
人の少ない道を歩きながら、五十嵐は、鈴鳴の事を思い浮かべた。朝に五十嵐が家を出るときには、彼女はすでに眠ってしまっていたので、そのまま家に寝かせたままにしてきたのだが……彼女はまだ家にいるだろうか? 五十嵐の事を警戒していたあの様子から考えると、もしかしたらもう家を出て行ってしまっているかもしれない。
なんとなく。
五十嵐は、彼女がまだ家にいる事を望んでいた。
汚れた服に、砂埃まみれの身体、手入れのされていない髪。
そして。
あの時、鈴鳴が見せた異常なほどの怯えよう――。
「…………」五十嵐は無言の内に空を見上げる。
彼女の境遇について、五十嵐は何も知らない。そして、それを知ろうとする事も野暮な事だ、と彼は思う。誰だって他人に話したくない過去のひとつやふたつ、あるものだろう。それでも……たとえ、何も知らなくても、きっと彼女のためにできる事はあるはずだ、とも思う。
「……よし」と五十嵐は何かを決したように呟いた。「あの子がまだ家にいたら……このあと、どっか連れて行ってやろうかな」
時刻を確認する。まだ五時前なので、閉まっている店はそうそうないだろう。まず髪を直してやるために、美容院にでも行こう。そのあとは服だ。あの汚れたコート一着というのは、あまりにもかわいそうだし。それが済んだら、美味しいものでも食べに行こう。一人暮らしの野郎の手料理よりも、よっぽど喜んでくれるはずだ。
いささか自分の勝手が過ぎるのではないかとも考えるが、あの交差点から彼女を連れて来てしまった以上は、責任というものがある。
鈴鳴が、五十嵐の提案を断ったのなら、それは素直に受け入れるし、出ていくというのであれば拒みはしない。
それでも連絡先を教えるとか、ある程度の世話は焼くつもりであったが。
そんな思いを巡らせながら歩いていると、自分の住むアパートが見えてきた。五十嵐は小走りでそこまで向かうと、階段を上って二階の自室に歩を進める。
鍵を開けて中に入る。少女の姿を確認しようと部屋を覗き込んだ時、彼は気づいた。
――いない。
狭い部屋の中には、あの少女の姿はすでになかった。人がいなくなった事により、元々の静けさを取り戻したような音のない空間。ちょっとした非日常が、足跡も残さず過ぎ去ってしまった感覚。
だが。
それを『仕方がない』の一言だけで済ます事など、できなかった。
「何だよ……これ……ッ!?」喉の奥からしわがれた声が出てくる。
家につくまでの間に、鈴鳴がいなくなってしまっている事については予想していたが、そもそもの話において、家についた瞬間、『自室のドアの鍵が閉まっていた事』で五十嵐は、彼女がまだ家にいるものだと思い込んでいたのだ。家の鍵にスペアはないので、たったひとつの鍵は自分だけが所持している。つまり鈴鳴が家を出て行っていたのなら、ドアの鍵は解放されたままでいなければおかしいのだ。
なのに、ドアの鍵は閉まっていた。
なのに、彼女は家の中にいなかった。
そして。
五十嵐が今この瞬間、驚き焦っているのは、先述の理由のためではない。
「どうして――――」
額から染み出た汗が頬を伝い、コンクリートの床に滴り落ちる。
「――俺の部屋が、こんなメチャクチャにされてんだよッッッ!?」
部屋の中は凄惨な状態だった。
木製の机は叩き割られ、水道の蛇口は折れ曲がり、粉々に割れた皿やコップの破片が畳の上に散乱している。本棚にしまってあった本は、まとめてなだれ落ちて、ページがビリビリに破れてしまったようなものもある。
ものというものが破壊され、その様相は、まさに部屋の中に直接台風でも突っ込んできたんじゃないかと思うほどだ。ベランダの戸のガラスも割れ、壁や床にも無数の傷があり、修復するのにも相当な費用がかかるだろう。
しかし、そんな事はもはやどうでもよかった。
「おいッ! どこだ! どっかにいるなら返事してくれ!」切羽詰まった声で鈴鳴を呼ぶ。
おそらくは、空き巣にでも入られたのだろう。泥棒は、この部屋に誰もいないと思っていたのだろうが、狙い外れてここには彼女がいた。
室内に残された形跡からして、争った可能性が高い。そうでもなければ、ここまで壮絶な破壊の爪痕は刻まれないはずだ。
靴を履いたまま、部屋を探し回る。床を踏みしめるたびにガラスの砕ける雑音が耳につく。そして部屋の片隅に付着したものを見つけた瞬間、五十嵐の呼吸が止まった。
血痕。
時間が経って赤黒く変色した体液。それが誰のものかなんて、嫌でも想像がつく。
「……あ、あああ……」かすれた声と共に、脳裏に一種の感情が芽生える。
――俺のせいだ。俺が、自分の勝手な都合で彼女を家に連れてきたから。本来なら起こり得なかった悲劇が起きてしまった。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。ガラスの破片がいくつか脚に刺さったようだが、それを気にする心の余裕なんてなかった。
自分の行動を後悔しても、もう遅い。素人の自分でも分かる。これだけの量の血液を撒き散らして、人間が生きていられるはずがない。あの少女は、五十嵐の知らないところで、すでに――
「おかえりなさい」
――だから、背後から響いたこの声は鈴鳴のものではない。少し高めの声ではあったが、これは間違いなく男性の声質だった。そして五十嵐は、ある事に気がついた。今の一連の流れの中に、『幼い少女』のすすり泣くような声が混じっていた事に。
「――――ッ!」とっさに声のした方向に振り向く。
視線の先――玄関の前には、二〇代ほどの男の姿があった。
ウェーブのかかった黒髪、造形の整った顔には黒縁眼鏡。着込んでいるのはベージュのダッフルコート。外見の印象だけなら、おしゃれな大学生といった感じだ。
だが――そんな青年に対する印象は、一瞬の内に崩れ去る。理由は明快。
青年の腕には、血に濡れた鈴鳴が抱かれていて。
少女のこめかみには、無機質な光沢を放つ拳銃が突きつけられていたからだ。
「君、五十嵐君で合ってるかな?」青年の顔には笑みがある。この状況においても、その表情は崩れない。「まあ、鍵開けてこの部屋に入ってきた時点で間違いないんだろうけど、一応確認をと思ってね」
「…………」五十嵐は何も返す事ができない。眼前の惨状を脳が処理しきれずにいた。
鈴鳴は虫の息になりながらも、まだ生きていた。しかし、それを素直に喜ぶ事などできはしない。この状態を馬鹿正直に『無事』だなんて言える訳がない。
五十嵐の事など構わずに青年は続ける。「本当……『エデンの使徒』を殺すのは骨が折れるよ。昨日だってそうだ。対物ライフルを使って、あれだけ広範囲を狙撃しても、こうやって当たり前のように生きているんだからさ」
「……え?」そこでようやく五十嵐が反応を見せた。今の青年の言葉に、僅かに引っかかるものがあったからだ。「そげ……き……?」
――そげき。ソゲキ。狙撃? 今、この男は狙撃と言ったのか?
「そうさ」青年は頷く。「昨日の大学病院前の交差点での爆発だよ。『彼女と関わりを持っている』以上、君は覚えているはずだろう?」
青年は、血まみれの鈴鳴の頭を拳銃の銃口で軽くつつく。たったそれだけで、彼女の顔が言いようのない苦痛に歪められる。一体、どれだけ痛めつけられれば、こんな悲惨な姿となるのか。少なくとも数回殴った程度では、こんな傷はつかないだろう。
「『セフィロト』ってのは反則だね。やろうと思えば、制限なく莫大な力を引き出し、それを存分に振るえるんだから。無敵の攻撃手段にも、絶対の防御手段にもなる。対物ライフルの弾丸の軌道すらそらし、コンクリートで造られたビルだって簡単に薙ぎ倒す。今回は彼女の寝込みを襲えたから偶然上手くいったけど……僕達みたいな脆弱な『人間』にとっては、まさに天敵だ」
五十嵐には、青年が何を言っているのか分からない。何が言いたいのかも分からない。
こんな――幼い少女を痛めつけておいて、眉ひとつ動かさず、笑顔のままでいられるような『化け物』の考えている事など、理解できてたまるか!
「――ふざけた事言ってんじゃねえぞッ!」瞬間、激高した五十嵐が立ち上がる。拳を振りかぶりながら、青年に向かって突撃する。「その子を離しやがれええええッッ!」
「おお、なかなか勇敢だね」さして感嘆した様子もなく、青年は囁く。「でも――」
五十嵐の拳が青年の顔面を捉えようとした時、不意に視界が反転した。
「え」という短い言葉を発する事もままならず、身体が一回転し、そのまま背中から床に激突する。背筋を鈍い痛みが走り抜け、一瞬呼吸ができなくなる。「ごッ、え……!?」
「その勇気は賞賛しますが」激痛のため朦朧とする頭に、青年の声が響く。――ガチリ、と。まるで、何かのスイッチが入ったかのように彼の言葉は無機質とも取れる敬語に変わっていた。「あなたのような単なる学生が、戦闘のプロに勝てる訳がないでしょう?」
痛みで引きつる顔の筋肉を無理矢理に動かし、眼を見開いて青年を見やる。彼は、その場から一歩も動いていなかった。もちろん腕には鈴鳴を抱いたままで、もう片方の手は拳銃を握り、彼女の頭に突きつけている。
つまり、青年は左右どちらかの脚を使って五十嵐を転倒させたのだ。片手間にこなす流れ作業のように、何の感慨もなく、何の苦労もなく、五十嵐を叩き伏せた。
精神が恐怖一色に塗り潰されていく。敵うはずがない。この青年には、葛城とも違う、一種の狂気じみた何かを感じた。
「さて」青年は退屈そうに呟く。「念のため、彼女は銃で牽制しておきたいですし……五十嵐君の方はどうしましょうかね……」
直後、腹部に激痛が突き刺さる。青年の靴底が容赦なく突き込まれたのだ。先ほど、背中を打って身体から力が抜けていた事もあり、無防備だった身体が突然の刺激によって尋常でない悲鳴をあげる。
体内から湧き上がってきた絶叫が、口から吐き出されそうになった時――ゴンッ! という鈍い音と共に視界がブレる。青年が、五十嵐の頭部を蹴り飛ばしたのだ。
「仕方ないですね……少々気が引けますが、頭を潰して黙らせますか」
そこだけは。
人間を殺す手段について語ったこの時だけは、本当に心の底から困ったような表情を彼は浮かべた。
まるで、自分の思い描く通りの殺害方法を選べない事を嘆くかのように。
脳震盪を起こし、混濁した意識がかろうじて青年の言葉を聞き取る。
「おそらくあなたは、今、自分の身に何が起こっているのかなんて全く分かっていないでしょう。事実、あなたがこんな理不尽な暴力に蹂躙されなければならなかった理由なんて、なかったんですから。しかし、あなたは関わってしまった。昨夜、あの交差点で僕らの戦いに巻き込まれてしまった。極めつけには、彼女を自らの手で保護してしまいました」
青年は、五十嵐の頭部をサッカーボールのように体重を乗せて踏みつける。
「その時点で、あなたは僕達の殺害対象になってしまったんです。この決定は覆りません。すぐに記憶を抹消できない以上、あなたを生かしておく訳にはいきませんから」
メキリと。
合成樹脂でできた靴底が、頭部の薄い皮膚に沈み込んでいく。
割れるような痛みが神経を蝕んでいく。一切の容赦のない暴力に、悲鳴をあげる事も許されない。
「――やめてッ!」
意識が飛びかけた時だった。恐怖と痛みの染み込んだ頭の中に、それらの感情をまとめて吹き飛ばすかのように。鈴の音のような澄んだ声が鳴り渡った。
「お願い……私、おとなしくついて行きますから……! だから……これ以上、この人に酷い事しないで……!」
青年によって痛めつけられ、今にも息絶えてしまいそうな姿にされてしまった少女。
軽くつつかれただけでも激しい痛みに苛まれるような彼女が、今、自分の事など構わず、他人でしかない五十嵐を庇おうとしている。
――やられっぱなしでいられるかよ!
五十嵐の意識が覚醒する。そして次の瞬間、「うあああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」というメチャクチャな咆哮が周囲に撒き散らされた。右手で青年の脚を掴み、それを支えにして――無理矢理、自分の頭を真横にスライドさせる。決して滑らかとは言えないコンクリートの表面が、ゴリゴリと皮膚を削り取る。奥歯を噛み締め、必死に激痛に耐える。
「なッ……!?」と、そこで初めて青年が焦りの表情を見せた。
五十嵐は止まらない。側頭部から鮮血を滲ませながら、自身を踏みつける青年の足から逃れようともがく。踏みつける力が強まっていくが、所詮、丸く不安定な頭に乗っていただけの足は、やがてあっさりと退かされてしまった。
しかし、『反撃』はここで終わらない。
五十嵐は青年の脚を掴んだままだ。そのまま自分の顔を脚の前に引き寄せる。
ガリッ、という硬いものを削るような音がした。
「――――――――――――ッッッッッッッッ!?」青年が声にならない声をあげる。
五十嵐の口が大きく開かれ、青年の穿いていたカーゴパンツの生地を突き破り、その奥にある人体に白い歯が深く食い込んでいた。五十嵐はさらに力を込める。食べ物に食らいつくように、渾身の顎の力をもって青年の脚の肉を噛みちぎる。
耳をつんざくような絶叫が放たれ、バランスを崩した青年がよろける。
「――ッ!」その隙に五十嵐は身を起こし、クソ不味い人肉を吐き捨てると、悶える青年に詰め寄り、殴り飛ばす。青年の身体は驚くほど簡単に横転し、鈴鳴を手放してしまう。
五十嵐は突然の状況に戸惑う彼女を、有無を言わせず抱きかかえ、即座に逃走を開始した。
「ッ……! 待てッ!」床に転がったまま、頭だけを起こして叫ぶ青年。同時に、彼は手にした拳銃の銃口をこちらに向けてきた。
首筋に悪寒が走る。撃つ気だ。青年の憎悪に満ちた瞳には、糸クズ程度の躊躇もない。
眼の前には一階に下りるための階段。悠長に下っていれば、間違いなく背中を撃ち抜かれる。迷っている暇はない。五十嵐は意を決して、階段から飛び降りた。
奇妙な浮遊感。直後に頭上で炸裂音が轟く。
一気に一階まで辿りつく事はできず、階段の途中で落下。段差だらけの坂で、まともな着地になど当然できる訳もなく、転倒し、鈴鳴を抱えたまま階段から転げ落ちる。
「だッ……大丈夫か……!?」
「なんとか……っ!」
呼びかけると鈴鳴が弱々しい声で返してくる。五十嵐は鈴鳴に向かって頷くと、起き上り、彼女を抱えて再び走り出す。逃げる二人を追うように散発的に銃弾が飛んでくる。
背筋がピリピリと痺れるような感覚がする。砂漠にでも放り出されたかのように、喉がカラカラに乾いている。全身の震えは周囲の気温のせいか、恐怖のせいか、すでに区別がつかなくなっていた。
雪の降る続ける道を走りながら、五十嵐は考えを巡らす。
(どうする……!? 奇襲が成功したとはいえ、相手は拳銃を持ってやがる……! このまま逃げ続けてるだけじゃジリ貧だ……)
鈴鳴は重傷。自分も彼女ほどではないが、怪我を負ってしまっている。体力だって、そう長く保たない。いつかは絶対に追いつかれるだろう。あの青年が何者かは分からないが、少なくとも偶然五十嵐の家に忍び込んで盗みを働こうとした泥棒でない事は確かだ。
むしろ――青年の口ぶりから考えて、最初から鈴鳴と五十嵐を狙って襲撃してきた可能性が高い。ならば……奇跡的に青年を撒いて、この場を切り抜けられたとしても、それは一時的なものに過ぎない。
今度こそ万全な態勢を整えて、自分達を殺しにくるかもしれない。
「……くそッ……!」五十嵐は歯軋りする。どうやら自分達の安全を確保するためには、何としてでもあの青年を無力化するしかないらしい。
(どうすればいい……!? この状況をひっくり返す一手は……――ッ!)
――そうだ。
ある。この絶望的な展開を一気に打破するための手段が!
確実性はない。半分以上は運頼み。この一手を実行に移そうとすれば、もう一度死線を潜る必要もある。下手をすれば、そこで死ぬ可能性だってある。いや、むしろそうなる可能性の方が圧倒的に高い。
それでも今の自分には、この方法しか残されてはいなかった。試す以外に道はない。
鈴鳴をかかえて薄暗い道を走っている途中、五十嵐は眼についた近くの公園に駆け込んだ。雪が強くなってきたせいか、辺りに人がいる気配はない。
公園内の中央付近、ドーム状の遊具があるところまで近づくと、そこで鈴鳴を降ろす。
「どうしたの……? 早く……逃げなきゃ……」今にも消え入りそうな鈴鳴の声。
しかし五十嵐は、彼女の言葉には取り合わず、彼女の肩を掴んで、「いいか、ここに隠れているんだ」と言った。「お前を見捨てる訳じゃない。むしろ逆だ。俺達二人が生き残るために、いったん別れるだけだ」
この作戦を遂行するにあたって、動けない鈴鳴を連れているのは都合が悪い。一人で動かなければ、成功する確率は極めて低い。もちろん……一人であろうと危険な賭けである事に変わりはないのだが。
「本当に……?」再び鈴鳴が尋ねてくる。その今にも泣きだしてしまいそうな顔は、自分がこのまま見捨てられてしまうんじゃないかという怯えから来るものだと思っていたが、五十嵐の邪推は見当違いだったようだ。「本当に……死んだりしない……? 私なんかのために、死んじゃったり……しない……?」
「……ああ、絶対に死なない」五十嵐は静かに答える。
この少女は、こんな状況においても、まだ五十嵐の事を心配しているのだ。
本当なら恐怖に塗り潰され、自分の事しか考えられなくなるような状態で、まだ……。
「大丈夫だよ。絶対に俺は死なない。……あんまりカッコイイやり方じゃないけど……アイツをぶっ倒して、必ずここに戻ってくる」
「もしね……危なくなったら、私を囮にしていいから……あなただけでも……」
「そんな事言うんじゃねえよ。俺は絶対お前を裏切ったりしない」五十嵐はまっすぐと鈴鳴を見据えて言い放つ。その瞳に迷いはなかった。「ほら、もたもたしてたらアイツが来ちまう。早く隠れるんだ」
「うん……」
鈴鳴を遊具の中に残し、五十嵐は立ち上がる。
「何か……不思議だよな……」五十嵐は小さく笑って言った。「俺達、まだ出会ってから二日も経ってないのにさ……。今、俺……何があっても君を守りたいって思ってる。君をあんなヤツには渡したくないって思ってる。こんな気持ち……おかしいかな……?」
「ううん」鈴鳴は首を横に振った。「そんな事ないよ……あなたはとっても優しい人……。私、あなたみたいな人に会った事……今まで一度もなかった……」
「そっか」五十嵐は口許を緩めて、鈴鳴を見返した。
本当に……この少女はこれまでどんな人生を歩んできたのだろう。
僅かにだって信じる事ができる人さえ、彼女の周りにはいなかったのだろうか。
もしそうだとしたら、それは一体どれだけの苦痛だろう。
自分の味方をしてくれる人間が一人もいないというのは、どんな気持ちなんだろう。
――俺には、きっと理解できない。少なくとも、俺はこれまで人並みの幸せというものに恵まれて生きてきたはずだから。
少女の苦悩を、本質的なところまで分かってあげる事はできない。
でも。
「助けてやる事は……できるよな。たとえ同じ場所に立つ事はできなくても、そこに手を差し伸べてやる事はできるよな」
身体には無数の傷。側頭部は擦り切れて血が滲んでいるし、何度も踏みつけられたために、全身は鈍痛に支配されている。自身の出血も少なくない。
それでも、まだ身体は動く。
なら、諦める理由はまだない。あがいてやる。逆らってやる。生き残るために、どれだけ惨めな姿を晒そうとも、その細く頼りない糸に死にもの狂いでしがみついてやる。
身体はまだ恐怖に震えている。理性は、鈴鳴を見捨ててさっさと逃げてしまえと諭し続けている。――臆病な自分は引っ込んでろ。わざわざ出てきてんじゃねえ。
恐怖ですくむ脚を動かす。五十嵐は最初の一歩を踏み出した。




