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Like A Broken Mirror  作者: 勾田翔
再会
23/51

12(二月七日――午後一二時四五分~午後一時二分)


   12(二月七日――午後一二時四五分~午後一時二分)


「そこまでだ。もう逃げられないぞ」と久郷は、眼の前の男に向かって言い放った。「お前は何者だ? 言っておくが隠しても無駄だ。……『その手の人間』を識別する事には慣れているのでな」

 多少手間はかかったものの、あの初老の男の追跡を振り切り、久郷は自分の追っていた男を追い詰めていた。

「……なるほど、あなたが『裏の世界』の住人ですか……。存在するという事は知っていましたが……直接、この眼で見たのは初めてですね」

 日の光すら差し込まないような、薄暗い路地裏。袋小路にまで追い詰められた二〇代前半ほどの青年は、興味深そうに呟いた。

 緩やかなウェーブのかかった黒髪。人の良さそうな表情には黒縁眼鏡をかけている。ベージュのダッフルコートを着込んだその青年は、穏やかな声色で久郷に話しかけた。

「お会いできて光栄です。同じ『闇』に身をやつす者としては、ぜひとも一度面と向かってお話したかったので」

「そうか。それはこちらとしても嬉しい限りだ」久郷は言葉とは裏腹に、感嘆した様子もなく返した。左手に持ったガバメント拳銃の銃口を青年に突きつける。「だが、俺はお前の事を知らない。……今までで見た事がない雰囲気をお前は身に纏っている。殺し屋でもない……かといって刈谷のような仲介業者でもない――お前は何だ? この世界で一体、どんな立場に立っている?」

「……昨日」と数刻黙ったのち、彼は言った。「あなたが先ほどいた交差点――昨夜、あそこで起きた事を知っていますか?」

「俺は、昨日までそこの近くの大学病院に入院していた。その時、病室の窓から見た」久郷は警戒を緩める事はなく、青年の質問に答える。「あの交差点の道路が、突然爆発した」

「本当に?」青年は薄い笑みを口許に浮かべた。「本当に――『爆発』したと思ったんですか? あなたなら分かるはずでしょう? 『裏の世界』で生きる人間なら――あの瞬間、何が起こっていたのかを」

「…………」

 やはり、自分の読みは間違っていなかった。交差点で高校生ほどの少年と話していた時、不意に久郷の視界を過ぎったこの青年。元通りになっていた事故現場を、高校生の少年や自分とは、全く質の違う視線で眺めていた。

 その瞬間、久郷はほぼ確信した。昨夜に起こった出来事――あの爆発が、やはり『銃撃』によるものであった事。そして、眼前にいる青年の正体――。

「あの爆発は、対物ライフルによる長距離狙撃よるもの……そしてお前の正体は――警察か」

「ご名答です」青年がパチパチと手を叩く。「とはいっても、僕は『表の世界』で生易しい事件を解決するような出来損ないではありません。僕の所属は、警視庁特殊急襲部隊――通称SATです」

「なるほど、納得した。予想はしていたのだが……本人の口から直接聞けてよかった」

「ははッ、やっぱりあなたは面白いですね。今の言葉を受けてなお、全く取り乱さない。そして、それこそが『裏の世界』の住人である事の証……」

「本題に入らせてもらおう」久郷は青年の言葉を聞き流し、切り出した。「何が目的だ? お前達が大勢の一般人を犠牲にしてまで達成したかった事は何だ? ――あの交差点にいた時から――――なぜ、俺を殺そうとしていた?」

 その時、初めて青年は表情を変えた。驚いたように僅かに眼を見開く。「気づいていらしたんですか」

「殺気を隠すのが苦手だろう。あれでは標的に逃げてくれと言っているようなものだ」

 久郷は気づいている。一瞬でも気を抜くような事があれば、青年はすぐさま久郷の命を奪いにくるであろう事を。そして、その機会をうかがっている事自体が、すでにこの青年がプロである事を物語っている。

「二人……でしたね、確か」青年は何かを思い出すように、顎に手を当てた。「一人は名前不詳。そしてもう一人の『エデンの使徒』は……確か、千条神羅と言いましたか」

「――ッ!」ガバメント拳銃を持つ左手が僅かに震える。

 青年は久郷の動揺を見透かしたかのように、「ああ、やっぱり」と言った。「あなたも僕達と目的は同じようですね。……安心しましたよ」

 小さく息を吐きながら、胸をなでおろす青年。

「何だと……?」久郷が怪訝な声を発した直後だった。


「これで――心置きなく競争相手を潰せますからねえッ――!!」


 ダンッ! と、靴底が地面を蹴り抜く音がした。直後、刹那の内に距離をゼロにまで詰めてきていた青年が、いつの間にか右手に握られていた大型のナイフを久郷に向けて振り上げた。

「――――ッッッッ!?」とっさに跳びすさる久郷。顔面の一ミリ手前を切っ先が薙ぐ。

「まだ終わりませんよ」

 楽しそうな声と共に、青年は連続してナイフを振る。寸分の違いもなく、急所を狙った無慈悲な斬撃を紙一重で躱す。間髪入れずに振るわれた頸動脈を狙った刃を、ガバメント拳銃の銃身で弾く。眼球を串刺しにせんと突き込まれた刺突を、頭を振って回避――左のこめかみが薄く切れる。

(よく訓練されている……。単純な運動能力だけなら俺は足許にも及ばないだろうな……)

 それに、と斬撃の豪雨の中で久郷は思う。

(やはり、今の状態では動きにかなりの制約が生じるな……右手(義手)ではナイフを捌く事もできない……。さらにこの視界の悪さ……)

 久郷は小さく舌打ちした。漠然と感じていた事ではあったが、ここにきてその感覚が明確に現実味を帯びてくる。

 ――自分は弱い。

 右手は、もう自由に動かす事は叶わない。機械の義手を装着している以上は、無茶な事はできず、行動の選択肢は大幅に制限される。

 失われた左眼の分だけ自分の視界は狭くなり、映る景色には立体感が欠落する。正確な距離感が掴めない。

「ハハハハハッ! どうしたんです!? さっきから避けてばかりじゃないですか!」ナイフを振る手は止める事なく、甲高い声で笑う青年。「あなたの力はこんなものじゃないハズです! このままおとなしく殺されるなんて僕が許しませんよッ!」

「そうだな」久郷は言う。「こちらとしても、そんな気は持ち合わせていない」

「なら、そっちからも攻めてきたらど――ッ!?」

 青年が言いかけたその時だった。突如、久郷を狙っていたナイフが宙を舞った。

 理由は明快。久郷を仕留めるために、最小限の挙動で振られたナイフの側面。そこを、正確に久郷のつま先が蹴り上げ、強引に弾き飛ばしたのだ。刃渡り二〇センチはあるであろうナイフは、両者の頭上高くでくるくると回転している。

「……ッ!」ナイフを弾かれた際に、手を痛めたのか、青年が僅かに苦悶の表情を見せた。

 そして。

 間髪入れず、久郷は青年の方へ飛び込む。ガバメント拳銃を右手に持ち替え、左手を硬く握り締めると同時、青年の側頭部を狙った左フックを繰り出す。

 直後に鈍い音が鳴り響き、青年の身体がよろめく。追撃を加える絶好の好機(チャンス)

 だが。

 実際にそうする事はせず、久郷はすぐさまバックステップで距離を取った。再び拳銃を左手で構え直すと、威嚇するように青年に突きつける。宙にあったナイフが地面に落ちた。

「気づいてしまいましたか……」青年がゆっくりと、うつむかせていた顔を上げる。

 顔の表面に痣を作りながらも彼は笑みを絶やさない。その手には先刻とは別のナイフが握られている。あのまま肉弾戦を続けようとしていれば、間違いなく刺されていた。

 首筋を冷たい汗が滴るのも構わず、久郷は拳銃の引き金を引く。鋭い発砲音が炸裂する。

 撃ち出した弾丸は三発。

 狭い路地裏の中、逃げ道を塞ぐように横方向に間隔を広げた銃弾は――

「!?」久郷が眼を剥く。

 無理もない。回避不可能と思われた銃撃を、あっさりと青年が躱したからだ。

 具体的には。


 二人の対峙する路地の側面に屹立するビルの外壁――傾斜九〇度のコンクリートの壁に『飛び移り』、そこを走りながら射線から逃れたのだ。


 滞空状態の青年が手にしたナイフを投げ放つ。

 正確に心臓を狙った切っ先を、身体を捻り寸前で回避する。直後に勢いよくナイフが地面に突き刺さった。

「くッ……!」久郷は歯噛みする。

 しかし、すぐさま体勢を立て直し、久郷は青年めがけてガバメント拳銃を撃発。

 依然、青年の体躯は宙に留まっている。

 彼は両端の外壁を交互に蹴り上げながら上方に登っていく過程で銃弾をやり過ごし、高度一〇メートルほどに到達した瞬間、取り出した二対のナイフを構え、一気に急降下。久郷に肉迫すると同時、ナイフを十文字に振り抜く。

 久郷は、とっさにその場から飛び退き、片方の刃を、銃身を使って弾き返す。

 だが、もう片方の刃から完全に逃れる事はできず、みぞおちの辺りを斬りつけられてしまう。焼けるような痛みが身体を走り抜け、傷口から鮮血が噴き出す。

 傷自体はそこまで深くはない。すぐに動けなくなる事はないし、適切な処置をすれば、簡単に死ぬ事もない。

 が。

 この激戦の中において、このレベルの負傷は死活問題だ。この傷によって久郷には『タイムリミット』が設けられてしまったのだ。早々に決着をつけなければ、確実に失血で戦闘不能に陥る。

 もう悠長な事はしていられない。長期戦に持ち込む事ができなくなってしまった以上、危険を承知で短期決戦を挑む必要がある。

「――ッ!」久郷は斬撃のさなか、前方に転がり込むようにして回避行動を取り、その先にあった――先ほど青年が投げつけて地面に突き刺さったナイフを、義手の右手で引き抜いた。

 間髪入れずナイフを薙ぎ払ったが、その刃が青年の首を掻き斬る事はなかった。

「刃物は専門外ですか?」楽しそうな青年の声。いつの間にか久郷の背後に回り込んでいた彼は、久郷の背中に向けてナイフを振り下ろしていた。

「があああああああッッ!!」叫ぶ。久郷は覚悟を決める。

 ぐるん! と。

 久郷は青年の方を振り向くと、迫りくる刃を、自身のナイフの側面を利用して迎撃。青年の左手にあったナイフが弾き飛ばされる。久郷は右手に持ったナイフを捨て、返す刀で、もう一本のナイフを持つ青年の右腕に掴みかかった。

「……ッ!」青年が僅かに顔をしかめる。

 久郷は拳銃のグリップを渾身の力で青年の腕に叩きつけた。青年が苦しげな呻き声をあげ、彼の右手からナイフが落ちる。

 このまま追撃を加えたかったが、そう甘くはない。

 久郷のみぞおちに、青年のブーツの底が突き込まれる。防御が間に合わなかった事と、先ほどこの部分に傷を負っていた事もあり、意識が飛びそうになる激痛が久郷を襲う。

 砕けるほどの強さで、歯を食いしばり、痛みに耐える。何とか転倒を免れる。

「これで終わりですッ!」青年が転がっていたナイフを拾い上げ、久郷に突撃する。

 猛攻が始まる。

 人間業とは思えないほどの軽快さで、幾重ものフェイントをかけながら肉を裂かんと迫る。

 急激に寒気が襲ってきた。身体に限界が来つつあった。出血が無視できる量を超えてきているのだ。視界が霞む。四肢が震え、力が抜ける。

(まずいッ……!)

 遠くなってゆく意識を奮い立たせるため、久郷は躊躇なく自分の下唇を噛んだ。ブチブチという繊維を引きちぎる音と共に血が溢れ出す。激痛に激痛を重ね、意識を繋ぎ止める。

 久郷はガバメント拳銃の照準を合わせ発砲。消音器の取りつけられた銃口から、小さな衝撃音が発せられ、銃弾が飛ぶ。

 だが、青年は久郷の動きを先読みしていたかのごとく、軽く身を捻って銃弾をやり過ごしてしまう。そのまま久郷に切迫。

 そして――まるで、その瞬間を見計らっていたかのように、コートの内側から取り出した拳銃を、こちらに向けてくる。

 距離はゼロ。必殺の領域。避ける術はない。

 全てを悟った久郷の思考が、それでもなお高速回転する。

 瞬間、彼は懐から取り出した予備弾倉を、銃口めがけて投げつけた。それと同時に拳銃が発砲音を打ち鳴らす。

 結果。


 吐き出された銃弾は予備弾倉に被弾し、弾倉の中に納まっていた弾薬の火薬に引火――小規模な爆発が起きると同時、爆風が僅かに銃弾の軌道を捻じ曲げる。


 久郷のすぐそばを弾丸が通過し、コンクリートの床を抉る。

「なッ!?」青年が驚愕の声を発したが、もう遅い。ガバメント拳銃の引き金を引く。発射された二発の弾丸は正確に、青年の右肩と右腿を撃ち抜いた。

「がああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!?」

 路地裏に響き渡る絶叫。先刻までの立場が一気に逆転する。

 久郷が動く。ナイフを持った右手は封じた。機動力も奪った。今現在、相手は完全に無防備。――ここで、決める。

 青年の懐に潜り込む。彼はとっさに久郷から逃れようとしたが、右足に穿たれた銃創がそれを阻む。

 瞬間。

 ゴッ!!! という鈍い音が炸裂した。

 久郷の放った強烈な右膝蹴りが青年の腹部に突き刺さり、彼の身体が後方に吹き飛んだ。

 ビルの外壁に勢いよく背中を打ちつける青年。呻き声と共に、赤い血が口から吐き出される。

「手術後のいいリハビリになった」

 壁に身を預けるようにして、ぐったりとうなだれる青年に向けて久郷は言い捨てた。

「……お見事です……!」青年が苦しそうな声を発する。「現役のSATがまるで赤子扱いですか……ッ!」

 久郷はガバメント拳銃を突きつけたまま、「どうする」と尋ねた。「まだ続けるか? それともおとなしく退くか?」

 青年が怪訝な表情になる。「……殺さないんですか……?」

 久郷は肩をすくめて、「『仕事』以外で命を奪えば、のちのち面倒になるのでな」と言った。「……もちろん、お前が前者を選んだとしても、俺は容赦はしないが」

 数刻、二人の間を沈黙が支配する。

 やがて青年は何かを吟味するような表情で、しばし久郷の顔を眺めてから薄く笑った。「……訊かなくてよろしいんですか?」

「何をだ?」

「千条神羅について」

「ッ!」青年がその固有名詞を発した瞬間、僅かに久郷の眉がしかめられた。

 青年はその変化を見逃さない。「人づてに聞いただけですが……あなた達『裏の世界』の住人は躍起になって千条神羅を追っているのでしょう?」

「…………」

「隠しても無駄ですよ。先刻からのやり取りで確信しましたから。……警察側も大した量ではないですが、千条神羅についてのデータを持っています。その上で問いましょう。――いいのですか? 情報を握っているかもしれない人間を、このまま帰してしまって」

「なぜ、そんな事を訊く? お前自身が不利になるような事を言って、何かメリットでもあるのか?」

「別に。ただ単に気になっただけですよ」ぶっきらぼうに青年は言う。「目的を達成したくてしかたがない人間は、自然と倫理観念を忘れてしまう。目的のためならどんな手段もいとわなくなる。まさに僕達がそうですから」

 青年の瞳に、嘘偽りは感じられない。本当に、純粋に、疑問を持っただけなのだろう。

 彼は意図の読めない薄い笑みを口許に張りつかせ、「ほら、もしかしたら僕は、あなたの知りたい情報を持っているかもしれないですよ」と言った。それから思い出したように久郷の方を見据えて、言葉を続ける。「そういえば……さっきから気になっていたんですが、あなたの右手――義手ですよね? 明らかに、右手を庇いながら戦っていましたから。昨日まで入院していたとも言っていました。ひょっとして、つい最近、千条神羅にやられたんじゃないですか?」

「……お前には関係のない話だろう」

「そうでもないですよ」青年は小さく肩をすくめる。「あの『エデンの使徒』と直接戦って生き延びた人間なんて、そうそういないですから。千条神羅の詳しい外見すら、僕達は把握していない。……どうでしょう? ここはひとつ、情報を共有しませんか?」

「断る」間髪入れず久郷は断じた。「俺達は味方同士でもなんでもない。お前が間違った情報を俺に流さないと、どうして断言できる? その逆もまたしかりだ。殺し屋と警察。両者は絶対に相容れない。敵の敵が味方なんて優しい法則など存在しない」

「……あくまでも、一人で戦う事にこだわる訳ですか」青年は微笑を洩らす。

「そういう事だ」久郷は拳銃の銃口を青年に向け、「早く行け」と言った。「じきに銃声に気づいた者達が集まってくるぞ。お互い、こんなところで通行止めにはなりたくないはずだ」

「…………はあ……」やがて、青年は諦めたように溜息をついた。「分かりました。お言葉に甘え、ここは撤退させてもらう事にしましょう」彼は傷口を押さえながら立ち上がると、転がっていたナイフを回収してから、震える足取りで路地の奥を目指す。「……それに、実は、あなたを見つけたのは単なる偶然だったんですよ。こちらとしては、そこまであなたに執着する必要はないですからね」

「どういう事だ?」怪訝な表情になる久郷。

 青年は久郷の方を見やって、「別に、あの交差点であなたを待ち伏せていた訳では、ないんですよ」と言った。「……ある意味、野次馬と同じですよ。昨日の『僕が破壊した交差点』がどうなっていたか、気になって来ていただけですから」

 なるほど、あの対物ライフルによる銃撃を敢行したのはこの青年か。

 久郷は表情のない顔で、「良かったのか」と尋ねた。「まがりなりにも警察官が『一般人』を殺害する、なんて事をして問題なかったのか」

 久郷の平坦な言葉は、自らは『一般人』ではないという意味を含ませていた。

「心配せずとも大丈夫ですよ」青年は微笑む。「警視総監である松坂さんが、自ら『一般人』の犠牲を許可してくれましたから」

「そうか」久郷の表情に変化はない。

 これで会話は終わりだとでも言うように、久郷は拳銃を下ろし安全装置をかけると、ジーンズのベルトに挟んだ。

「ああ、そうだ」すでに久郷からかなり離れた位置にいた青年は、何かを思い出したように立ち止まった。「せっかくですから、あなたが疑問に思っているであろう事を解決してあげましょう」

「……?」久郷は怪訝そうに眉をひそめる。

「あの交差点……昨夜あれだけの事があったにも関わらず、完璧に元通りになっているのは、SAT(同僚達)が一晩で修復したからです。それと……」彼は楽しくてたまらないといった表情で、「昨夜の出来事を、ほとんどの人間が、全く気にしていない事についてですが」と前置きし、信じられない言葉を紡ぎ出した。


「――あれ、僕達が一般人の記憶を綺麗さっぱり消去(デリート)したからなんですよ」


 その瞬間。

 久郷の表情が凍りついた。今、この男は何と言った?

 ――消した? 消したと言ったのか? 昨夜の現場を目撃した不特定多数の人間達の記憶を、思い出せないように抹消したと言ってのけたのか?

「一般には普及していないですが……そこまで難しい技術でもないんですよ」青年は淡白な調子で言う。「もちろん、その技術自体も完全ではないですし、僕からすれば、『何の制限もなく、無尽蔵に莫大な力を振りまく事ができる存在』の方がよほど信じられない――信じたくない事象ですがね」

「…………」久郷は口を開かない。再び、拳銃に手をかける。

 青年はニコリと笑って、「ご心配なく」と言った。「あなたの記憶を消す事はしませんし、そもそもの話において、『できない』んですよ。この技術の完全でない点は、『対象となる事象に深く関わり過ぎた者の記憶は消せない事』なんです。あなたの頭に昨夜の記憶が残っているのは、そのせいです。『深く関わる』という事の定義は曖昧ですが、おそらく今の出来事も、あなたの脳内から削り取る事はできないでしょう。……では、僕はこれから別の仕事があるので、この辺りでお暇しましょう」

 最後に青年は、「僕の名前は須磨(すま)と言います」と名乗った。「……またお会いする事があれば、その時はよろしくお願いいたします」

 それだけ言い残し、今度こそ彼はこの場を去って行った。

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