1(二月七日――午前五時四三分〜午前五時五五分)
1(二月七日――午前五時四三分〜午前五時五五分)
それは部屋いっぱいに響き渡る絶叫だった。
思わず、手にしていた包丁を落としてしまいそうになる。
五十嵐は朝食の準備を中断して、声のした方向に振り返った。
ただでさえ狭いボロアパートの部屋を、さらに陣取り、圧迫している(実家から持参した)ベッド。その上に、はあはあと粗い呼吸を繰り返す少女がいた。昨日の夜、悩んだ末に結局、連れて帰ってきたコートの少女である。
家に着くと、すぐに熱を計ってみたのだが、驚く事に彼女の体温は軽く四〇度を越えていた。そんな状態で、たったのコート一枚で街を歩いていたのかと思うと、彼女には悪いが、もはや同情を通り越して呆れてしまう。そりゃあ倒れるだろうと。
とりあえず、お腹が空いているらしいとの事だったので、具合の悪い彼女でも食べれるようにと、おかゆを作ってあげたのだが……。
「…………」五十嵐はちらりと、台所の流し台を見る。そこには、四人〜六人くらいの人間が鍋料理をする時に使うような、大きめの土鍋が鎮座していた。鍋の内側には米粒が付着している。
事の成り行きはこうだ。
五十嵐は、本人が空腹と言っているとはいえ、病気の人間がそんなにたくさんの量を食べれる訳がないだろうと、タカを括っていた。だから作ったおかゆも少量。
そして、今にも死にそうな少女の前にそれを出すと、なんと一〇秒で完食。
おかわりと言うので、もう少し多めにしたのを作ってやった。
今度は一〇秒かからずたいらげた。
全然足りないと口を尖らせるので、少しムキになった五十嵐は、大きめの容器に変えて作ってやった。
そして、それを一瞬で胃袋へ流し込む少女。
――後はこのやりとりの繰り返し。容器はどんどんと大きくなり、ついには買ったはいいものの、使う機会もなく、段ボールに入れっ放しだった土鍋を引っ張り出して、学校の給食さながらに豪快な調理でおかゆをクッキング。
しかし、それすらいとも容易く少女は完食して、そのまま満足したように眠ってしまったのだ。
家にあったハズの二キロの米は気づいた時には、もう一粒も残ってはいなかった。一体この華奢な身体のどこに、二キロの米を収めるスペースがあったのか。おかげで俺の晩飯は、残り物の肉じゃがオンリーになっちまった。
そして、今日。
朝一でコンビニにダッシュして、適当な食材を買って家に戻ってきたところ、悲鳴を上げながら少女が飛び起きた。目深に被られたフードの下の顔は大量の汗で濡れている。何か理由があるのか、彼女は、あのフードだけはどうしても脱ぎたがらなかった。眠っている時もずっと被ったままだった。
「おはよう」言うと、五十嵐は乾いたタオルを持って少女に歩み寄る。「すごい声だったけど、嫌な夢でも見ちまったか? まあ、病気の時ってよくあるよな。俺も内容は忘れたけど、見た事あるよ」
「……ゆめ……?」小さく呟くと、少女は心底安心したように、大きく息を吐いた。だが、それも束の間。直後に彼女は、びっくりしたようにベッドから飛び退くと、警戒心剥き出しで五十嵐を睨みつけてきた。といっても、フードのせいで彼女の眼は五十嵐からは見えないので、あくまでもそう見えたというだけだが。
「ちょ、おい……まだ動かない方が――」
「誰ッ!?」
「は?」突然の問いかけに五十嵐は眼を丸くする。
少女の方はそんな五十嵐の様子など、おかまいなしに叫ぶように喋り続ける。
「ここはどこ!? いつの間に私を連れてきたのッ!?」
「お、おい、急にどうしたんだよ? 少し落ち着けって……!」
どうにかして少女をたしなめようとするが、彼女の方は全く聞いていない。長く伸びた八重歯を剥き出しにして、五十嵐を威嚇している。
(もしかして、昨日の事覚えてないのか……?)
少女の様子から考えると、どうもそうらしい。それもきれいさっぱりに。冗談を言っているようには感じられない。自分はあそこまで高い熱を出した事がないので、いまいち分実感が掴めないが、昨日の出来事も覚えていられないほど、容態が酷かったという事だろう。
「ま、待ってくれ……! 俺は五十嵐。ほら、覚えてないか? 昨日、倒れてた君を連れてきたヤツだよ。あ、ちなみにここは俺の住んでるアパートで……」
「え?」と、五十嵐が早口でまくしたてた言葉の中に何か引っかかるものでもあったのか、少女は不意に眉をひそめた。「倒れてた……?」
「何か思い出したのか?」
訊いてみるが少女は答えず、こちらから目をそらして俯き、黙りこくってしまう。彼女は、しばらく考える素振りを見せてから、やがてハッとしたように顔を上げた。
「そう……だ、あの時……あの人を……して、そしたら……急に……頭が痛くなって……」
いまだ困惑したような、切れ切れの言葉からは、彼女の言わんとしている事は分かりかねるが、どうやら昨日の事とは関係ないらしい。五十嵐としては、少女が自分に向けている警戒心を少しでも解いてくれれば僥倖なのだが……。
と、そんな思いを巡らしていると、いつの間にか少女の顔が眼前に迫ってきていた。
「おわあッ!?」情けない声を上げ、とっさに後ろに引いてしまう。すると、後頭部を思い切り壁にぶつけた。脳にダイレクトに痛みが伝わる。五十嵐は頭を押さえながら、涙眼で少女を見返した。「い、いきなりどうしたんだよ?」
「教えて!」少女はこちらに詰め寄る。
そして、その動作の中で彼女の被っていたフードが僅かに脱げる。
銀。
白髪というほど、真っ白ではない、ほどよく色素が抜け落ちたような、艶のある銀髪。しかし髪自体はそこまで手入れはされていないようで、肩の辺りまで伸びた髪の毛先は、切れ味の悪いナイフでぶち切ったかのように歪な形をしている。
歳は見た目、一二、三歳ほど。
長めの前髪の下から覗く顔立ちは、少しばかり土がついて汚れてはいるが、ぶっちゃけかなり可愛い。ぱっちりした二重まぶたが特徴的な眼。大きな瞳は、髪と同じ銀色で、その濁りのない透明感のある色彩と相まって、こちらをまっすぐ見据える彼女の眼は、精巧なガラス細工を連想させた。
異様な色合いの髪と瞳を携えた彼女の姿は、日本人とも外国人とも判断がつかない、明確な人種すら感じさせないものだった。言うなれば、良くできた人形――そんな印象を与えてくる。
少女は、あれだけ脱ぎたがらなかったフードが脱げている事に、気づいているのかいないのか、そのままの状態でまくしたてる。
「昨日の夜、何があったのか私に教えて!」
まだ、警戒の色はうかがえたものの、とりあえずは五十嵐の話を聞く気にはなったらしい。自分としては助けた側として、少女の身元についていろいろと訊きたい事があったのだが、仕方ない。自分と少女はまだ、出会ってから半日ほどしか経っていない間柄であり、彼女にいたっては昨日の事を覚えていないので、初対面にも等しいだろう。
『目が覚めたら、知らない人の家にいた』。
――そんな状況で、眼の前にいた人間を完全に信用するなど、できるはずがない。
できるかは分からないが、少女と言葉を交わしながら、徐々に慣れていってもらう他ないだろう。
五十嵐は、「分かった分かった」と肩をすくめながら降参したように言う。「とりあえず、教えてはやる。……けど……」
「……っ、何……?」少女が眉をひそめる。
五十嵐は、申し訳なさそうに少女から視線をそらして、「その……あんまり、女の子に言いたい事じゃないんだけどさ……」と苦笑いを見せる。彼は、台所のすぐ近くの扉――風呂場の方を指差した。「……教えてやるのいいんだけど……先に身体洗ってきてくれないかな……? いやさ……ちょっとばかり臭うんだよな、君……」
「へ………………………………………………………………………………………………」
五十嵐の言葉を受けて、少女はしばらくの間、唖然としていたが。
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
突然、ボッ! と顔を紅潮させて五十嵐から飛び退いたかと思うと、そそくさと風呂場の方に向かって行った。その顔は今にも泣きそうになっていた。
……何か、こっちがすごい悪い事した気がする……。




