1(二月三日――午前一時四分~午前一時二七分)
十月以内に完成させる予定です。
始 動
1(二月三日――午前一時四分~午前一時二七分)
――初弾を回避された。久郷は喉から出かかった苦悶の声を飲み込み、すぐさま二撃目に移ろうとスコープを覗き込む。
そして、絶句した。
小さな円形に切り取られた枠の中で、標的は真っ直ぐとこちらを見据えていたのだ。
悪寒が身体を突き抜け、冷や汗が吹き出す。スコープから標的が見えなくなった直後、反射的に銃を投げ捨て、その場から飛び退いた。
瞬間、バキバキと銃に亀裂が入り、勢いよく砕け散った。破片は無数の凶器と化してこちらに襲いかかる。即座に非常階段の陰に飛び込み、破片の雨を回避する。
生唾を飲み込み、腰から小型のサブマシンガンを抜く。
――何が起きた?
突然の出来事に頭が回らない。
いつもと何ら変わりない『仕事』だったハズだ。電話越しに依頼主から依頼内容を聞き、メールで送られてきた顔写真と名前から標的の情報を知り、報酬の額を確認して――いつも通り殺しに行く。
そう、いつもと同じはずだった。これまでに何十回と繰り返されてきた日常だった。
なのに――それは一瞬の内に崩れ去ってしまう。
「こーんばーんはー、殺し屋のオッサン」
先ほどまで銃のあった場所には――スコープ越しでなければ視認もできなかった標的の姿があった。
標的の青年は不自然な色合いの銀髪を除けば、いたって普通の人間だ。
到底ブランド品とは思えない、黒のジャケットに細見のブラックジーンズ、黒と白のコントラストが特徴的なブーツといったいでたち。しかし、その全身の黒さが、彼の銀髪をよりいっそう際立たせている印象があった。
「俺の事狙ってたのってアンタだよな? ビックリしたよ、マジで。いきなり銃弾飛んでくるんだもんな」青年がいたって軽快な口調で、言葉を紡ぐ。その立ち姿に焦りのような色は感じられない。まるで、殺されそうになったという自覚がないかのように。
二〇階建てのビルの屋上で、数瞬前まで地上にいた青年は、さも当然のように君臨する。
「…………」サブマシンガンを握る手がじっとりと汗ばむ。
――この男は一体何だ?
一撃目は完全に意識外からの狙撃だった。確かに、今までも初弾を外した事は何度かあった。しかし、それは偶然、標的が頭を動かしたなどして文字通り『外した』だけだ。
奴は違った。
この青年は、六〇〇メートル先からの狙撃を意識的に頭を振って『躱した』のだ。
当然、そんな事、ただの人間にできる訳がない。だが、青年はそれを当たり前のように実行し、それだけでなく、先述の通り『六〇〇メートル』の距離を一瞬で詰め、『二〇階建て』のビルの屋上まで一瞬で登ってきた。
「いやいや……一応警戒しといて助かったぜ……この街に戻ってきてから、もう何回襲われたか分かったモンじゃねえな」青年はガシガシと後ろ髪を掻きながら言った。「こりゃあ……ちょいと急いだ方がいいかもな。『彼女』にも危害が及ぶかもしれねえ」
今、自分がどういう表情をしているのか分からない。
ただ、自分の唇が異常に乾いている事だけは感じ取れた。
青年は周囲を見回して、「それにしても、ずいぶんと懐かしい場所だな……」と呟いた。「七年ぶりくらいか……ま、『彼女』以外には嫌な思い出しかないけど」
久郷と青年の佇むビルの周囲には、ここと同じくらいの高さの建物が乱立している。
建物の側面には黒い焦げ跡が刻まれていて、窓枠にガラスははまっておらず、屋上に来るまでに通った部屋の中は、泥棒にでも荒らされたかのように、酷い有り様となっていた。
巨大な建造物が乱立する、この一帯は急造の壁で囲われていて、本来なら立ち入り禁止となっている場所だ。過去に大火事が起きた事により、封鎖された集合住宅街である。取り壊す費用すら惜しいのか、数年に渡って放置されているのが現状だ。
青年は、その整った顔立ちから覗く切れ長の眼をこちらに向け、口角をつり上げて、「オッサン、まさかビビってる?」と緊張感のない声で問いかけた。
「…………」
「おいおい、だんまりかよ。ヒトに鉛玉ぶち込もうとしておいて、そりゃないんじゃね?」
特に気を悪くしたような様子もなく言葉を紡ぐ青年。それと同時に、彼はおもむろに虚空に手を伸ばす。身構えるこちらを無視して青年は呟いた。
「――『セフィロト』」
瞬間。
眼を焼き焦がすような、青白い閃光が青年の右手から発せられた。
「なッ!?」眼を見開く久郷。
「そんじゃー第二ラウンド開始だぜ、オッサン?」青年が言い終わると同時、彼の右手から発せられていた閃光が、まるで生きているかのように動き出した。
粘土のようにぐねぐねと。四方八方に青白い光をばらまいていたそれは、徐々に収縮し、何かのシルエットを形作る。
でき上がったそれは、光り輝く刀剣だった。青年の右手から生えるように精製された剣は、ジリジリと熱された鉄板のような音を発している。
「――――ッ!」直後、久郷は青年に向けてサブマシンガンを連射した。消音器の取りつけられた銃は、僅かな発砲音を打ち鳴らし、銃口から吐き出された無数の銃弾が青年に襲いかかる。
しかし、それが青年に届く事はなかった。
理由は明快。
不可視の速度で振るわれた青年の持つ剣が、刹那にして全ての銃弾を迎撃したからだ。
金属の割れる甲高い音が響き、鉄屑と化した銃弾が落下する。
「一寸の迷いもない銃撃……いいね! 『今日』は久々に楽しめそうだ!」子供のような無邪気さの溢れる表情を覗かせた青年が、楽しそうに笑う。「んじゃ……今度はこっちの番だぜッ!」
瞬間、コンクリートを踏み砕く爆音が炸裂し、青年の姿が視界から消えた。
「ッ!?」あまりの唐突さに息を呑む。全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。普通の人間なら、ここで一歩も動く事は叶わなかっただろう。しかし、久郷は違った。
長年の経験と直感が、反射的に身体を動かした。非常階段から飛び出る。直後、耳許で小さな擦過音。
ドバッ!! という滅茶苦茶な轟音と共に。
非常階段が青年の放った斬撃によって両断された。
巻き上げられた粉塵を、剣のひと振りで掻き消し、青年はこちらを見据えた。
「いいね、いいね、いいね! 最高だよ! 俺相手にして一〇秒持った奴は、オッサンが初めてだ!」
歯を剥き出しにして笑う青年の肩は震えていた。しかし、それは恐怖によるものではないという事は明らかだった。武者震いに近いものだろう。
「さあ! 楽しませてくれよッ!」光の剣を振りかざし、青年が一直線にこちらに迫る。
久郷は恐怖ですくむ身体に鞭を打ち、床を転がるようにして斬撃を躱す。懐からスモークグレネードを取り出し、歯でピンを引き抜く。これがあの青年に対してどれだけ役に立つかは分からないが、ないよりマシだろう。
とっさに投げつけたグレネードが爆裂し、辺りに白い煙が撒き散らされる。
即座に立ち上がった久郷は、近くのドアを開け放ち、階段を駆け下りた。途中で脚がもつれ、転倒しかかるが、走るスピードは緩めない。踊り場の壁に『3』という数字を確認した久郷は、ドアのなくなった通用口を通り、人のいない廃ビルの薄汚れた廊下を走り抜け、近くの窓ガラスを銃のグリップで叩き割る。
ガラスのなくなったサッシに脚をかけ、三階分の高さから飛び降りる。外壁に張り巡らされていた、配管の一つを掴んで落下スピードを落とし、着地。再び駆け出す。
(人通りの多い場所へ移動するか? ……いや、ダメだ。今の状態は目立つ。俺の顔が一般人に割れるのは許容できない……何が何でも、あの男を始末するしかない……ッ!)
久郷は、近くの路地裏に駆け込み、違法投棄され、山積した粗大ゴミの中に身を潜めた。
(狙撃ライフルは破壊された。手持ちはサブマシンガン、拳銃とその予備弾倉が僅か……。そして、スモークグレネードと手榴弾が二つずつ……か)
携行品を確認しながら、周りには聞こえないほどの音で舌打ちする。
――少ない。圧倒的に。
もはや、あの青年を下そうとするならば、暗殺という方法が失われた以上、白兵戦以外に道はない。しかし、青年に銃弾は通用しなかった。サブマシンガンの連射を、全て止められたのだ。あの、光り輝く剣に。
そもそも、『アレ』は一体何なのか? 明らかに物理法則を超えたあの『力』。映画や漫画――物語の中でしか見た事がないような、実在など誰も信じていない、くだらない妄想。それが今、自分の眼の前に現れ、命を脅かそうとしていた。
(人生……それなりの年月を生きていれば、多少は驚く事にも出会ってきたが……まさか、こんな事があろうとはな……)
小さく溜息をつきながら、考える。
あんな状況に鉢合わせたにも関わらず、頭の中は随分と冷静な事に自分でも内心軽く感嘆していた。長い間、こんな仕事をしてきたせいだろうか。今まで考えた事もなかったが、自分はそれなりに神経が図太かったらしい。
(さて……)
久郷は凹凸だらけの粗大ゴミ寄りかかり、サブマシンガンの弾数を確認する。
――今まさに、自分の背後にいる青年をどうするか。
コツコツと、靴底が床を踏み鳴らす音が鼓膜を叩く。まるで気配を隠そうとしていない。よほど、自分の腕に自信があるという事か。
(いや……違う。自身があるとかそんな事じゃない……。気にする必要すらないんだ……。ヤツは俺の事など眼中にない。ヤツにとってコレは『戦い』じゃない。ただの……単なる『虐殺』だ……!)
――自分が生き残る為だけに、全身全霊を注いでいる久郷。
――自分と違い、この状況を楽しんでいる青年。
この二つが、今この状況で、彼ら二人の明確な立場の差を生んでいる。肉食獣同士の戦いではなく、肉食獣と草食獣の関係。狩る者と狩られる者。
だが。
――だからといって、一方的に喰われる義理はない。
草食獣にだって、抗う権利くらいは与えられている。その手段は様々。あるものは『角』であったり、またあるものは『脚』であったり。
自分には――『兵器』。無骨な金属の塊が、彼の牙。
「…………」もはや邪魔なだけの消音器を取り外し、銃の引き金にゆっくりと指をかける。指が震える。鼓動が高鳴る。呼吸が荒くなる。それらが引き起こされる原因となる感情を押し殺し――覚悟を決めた。
身を翻し、粗大ゴミの陰から飛び出すと同時。
「――――――――ッッッッッッッッッ!」
細かい狙いをつける事もせず、サブマシンガンを連射した。狭い路地裏に響き渡る銃声。辺りを埋め尽くすほどのマズルフラッシュ。
しかし、それらは一瞬にして虚空に消え去り、床に落ちた空薬莢の乾いた音を最後に、静寂が訪れる。巻き上げられた砂埃が、周囲を包み込む。
(どうだ……!?)
完全に意表をついた自信はあった。反応不可能な速さで、ありったけの鉛玉を叩き込んだのだ。鼓膜を突き刺す轟音の中で、銃弾が何かを食い破る音も聞こえた。
「――してやられたね」
変わらず、楽しさを含ませた青年の声が響く。砂埃の中に黒いシルエットが浮かび上がり、左のこめかみから一筋の血を滴らせる青年が姿を現す。
黒いジャケットは薄く砂埃がかかって汚れているが、それだけだ。青年からは、こめかみ以外に負傷は一切見られなかった。
「オッサンがあまりにも速すぎたんで、『防御』が遅れちまったよ」
軽い調子で話す青年の周囲には――無数の弾丸が浮いていた。
否――違う。弾丸は受け止められていた。
熱された鉄板から発せられたような、ジリジリという音。眼を焼き焦がすかと思うほどの、青白くまばゆい閃光。
青年の周囲に張り巡らされた、生き物のように蠢く光が、全ての弾丸を掴み取り、青年のもとへ迫る事を許さない。青年が指を鳴らすと、光が溶けるように消え、推進力を失った銃弾が次々に落ちていく。
「ほら、コレで終わりじゃないだろ? かかってこいよ、オッサン! 俺を楽しませてくれ!!」叫び、青年は再び光の剣を出現させる。
「……いや、残念だが、これで終わりだ」久郷は青年に向けて小さく呟いた。
「は……?」久郷の言葉を受けて、青年は心底意味が分からないという表情を浮かべた。そして、次の瞬間だった。「――ふざけてんじゃねえぞクソジジイがあぁッ!!」
「――ッ!?」
「何勝手に諦めてんの!? まだお楽しみは始まったばっかりだろうが!! テメエがその手に持ってるのは何だよ!? 武器だろ!? 生き物殺すための道具だろうが!! 構えろよ! 撃てよ! 思う存分戦った後に俺にぶっ殺されるのがテメエの役目だろ!? ナメたマネしてんじゃねえッ!!」
先刻までの飄々とした態度から一変。視認できるほどの太さで、青年のこめかみに血管が浮き上がり、口角から泡を吐き出しながら吠える。周囲の大気が震え、小動物くらいなら一瞬で死に絶えてしまいそうなほどの迫力の咆吼。
しかし、それを真正面から受けてなお、久郷は眉ひとつ動かさなかった。
怯える理由がなかった。屈服する理由がなかった。
なぜなら。
左手で拳銃を抜き撃ちし、青年の足許に転がっていた手榴弾を撃ち抜いたからだ。
「――――――――――――ッッッ!?」青年が眼を見開く。
直後、火薬が破裂し、金属を食い破る爆音。一瞬にして周囲が爆炎に蹂躙され、同時に発生した強烈な爆風が久郷の身体を叩きつける。それを気に留める事もなく、彼は拳銃を右手に持ち変えると、吹き荒れる風の中、一直線に狙いを定め、連続して撃発。
マガジンから全ての弾薬が吐き出された事を確認すると、すぐさまリロードする。久郷は拳銃を構えたまま、ゆっくりと爆心地へと歩み寄る。煙が晴れた瞬間、久郷は青年の姿を視界に捉えた。
アスファルトの上に膝をつき、だらりと腕を下げている。俯いているせいで表情は確認できない。黒ジャケットをはじめとする、青年の身につけていた衣服がところどころ破れ、火傷の痕を刻んだ皮膚がそこから覗いていた。青年の身体の周りでは、パチパチと静電気に似た音と共に、青白い火花のような光が断続的に瞬いている。
「その『光』でとっさに爆炎を凌いだようだが……全ては防ぎきれなかったようだな」久郷は手に持つ拳銃の銃口で青年を捉えたまま告げる。「銃弾もいくつか命中しているな。本来ならこれで終わらせるつもりだったのだが……死んでいないところを見ると、『光』で急所だけでも守ったか……」
久郷が沈黙すると、青年は壊れた人形のように、ぎこちない動きで顔を上げた。
当然のごとく、顔の方にも火傷の痕がある。
「……いつのッ……間にッ…………!?」青年が乾いた声を絞り出す。爆風を吸い込んで、肺の中も傷ついたのかもしれない。その先の言葉は青年から出てくる事はなかったが、おそらく手榴弾の事について言いたいのだろう。
「別に、特別な事をした訳ではない」久郷は抑揚のない声で語る。「直前の銃撃の最中に弾幕の中に隠して、ピンを差したままの手榴弾をお前の足許に投げつけておいた。後は、銃撃が止んで、お前が一番油断している瞬間を見計らい、手榴弾を撃つだけだ」
「この……短時間で……対策を考えたッていうのか……!? 『セフィロト』を見て……まだ一〇分も経ってない、この状況でッ……!」
「『殺し屋』として、未知のモノとの遭遇は珍しくない。毎度毎度、自分の常識の外にあるものを見て慌てふためいているようでは、こんな仕事などやっていられないからな」久郷は肩を小さくすくめる。「それでも、その『光』を見て、驚いた事は事実だがな」
これで話は終わりだとでも言うように、久郷は拳銃の引き金に人差し指をかけた。
「すまないが、最期の言葉を聞いてやるほど、できた人間ではない」
引き金にかける力を徐々に強くしていく。理解不能な現象を操る男ではあったが、自分のやる事は変わらない。確実に仕事をこなすだけだ。
「……ククッ…………」不意に青年が小さな笑い声を洩らした。
「何がおかしい?」久郷が眉をひそめる。拳銃を握る手が僅かに揺れた。
「ククク……ヒヒッ……ギャハ、ギャハハハハハハハッ、ア――――ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッッッ!!!」
青年の笑い声が徐々に大きくなってゆく。引き裂くような笑み。焼け爛れた肺の中から、乾いた空気と共に赤い液体が吐き出された。青年の口許から血が伝う。
「ッ――!」とっさにその場から飛び退き、拳銃を向ける。
青年は、歪み、崩れたその表情を久郷に見せつけながら、おぼつかない足取りで歩み寄ってくる。靴の底が地面をこすり、耳障りな音を立てる。傷口から垂れた血が、アスファルトに小規模な水たまりを作った。
「……無駄な抵抗はやめた方がいい……。その傷ではもう手遅れだ。病院に駆け込んだところで助かる見込みはない。おとなしくしていれば――」
「『セフィロト』……」青年が久郷の言葉を無視し、再びその『単語』を呟いた。青年の身体に吸い込まれるように、青白い光が集まってゆく。
「俺に捧げろ、お前の『生命力』」
――ボンッ、と。久郷は耳許で、自転車のタイヤがパンクした時のような音を聞いた。
――グシャリ、と。続けてどこからともなく、何か柔らかい物が潰れる音がした。
――いつの間にか、右腕の感覚がなくなっていた。
――いつの間にか、左眼が見えなくなり、視界が狭くなっていた。
鼓膜を突き破るような絶叫が、自分の口から発せられていた事に、しばらく時間が経ってから気がついた。そして、その時には、すでに久郷の身体は、彼自身が作り出した深紅の水たまりの中に浸かっていた。
――寒い。
二月という時期を考えれば当然の事だが、そう思わざるを得なかった。全身をドライアイスで固められたような感覚と形容すればいいだろうか。体内の血管という血管が収縮し、血液が循環していない気がする。強烈な冷感はやがて、焼け焦げるかのような熱さに変わったが、顎は小刻みに震え、前歯をガチガチと忙しなく打ちつけている。
直後、視界が歪んだ。
マーブル模様のように、周囲の光景が掻き乱され、奇妙な紋様が眼前に浮かび上がった。
「できれば使いたくなかったんだよね、コレさあ」朦朧とする意識の中で、青年の軽妙な言葉が響いてきた。その声色に数瞬前までの、干からびた砂のような感覚はすでになくなっていた。「傷が全部なくなってくれんのは嬉しいけどさ……しばらく力、使えなくなっちまうんだよね」
先刻までの立場はすでに逆転していた。青年の声に生気が戻っていくにつれて、反比例するように久郷の意識は遠ざかっていっている。
「……オッサン」青年が僅かにトーンを落とした声で言った。しかし久郷には、それに反応するだけの気力もない。青年は構わず、「悪いけど、とどめ刺せそうにないわ」と言った。「オッサンの生命力吸っちまった『副作用』で、ただの人間クラスにまで堕ちちまったからな。まあ、少しすりゃ戻んだけどね」
警察とかに見つかっても厄介だしな、と青年はつけ足した。
「つーわけで俺はもう行くわ。中々楽しかったぜ? ……まあ、せいぜい最期の走馬灯を思う存分堪能してからくたばれよ。じゃあな」
足音が遠のいていく。それと時を同じくして、空から大粒の雨が降り注ぎ、血に濡れた久郷の身体を洗い流していった。
――どれくらいの時間が経っただろうか。
まだ数秒かもしれないし、数分かもしれない。あるいはすでに何時間も経った後かもしれない。流れる時間の感覚はもうない。
不思議と意識はハッキリしていた。先ほど、混濁しきった意識が途切れそうになった時、自分の身体が限界を迎えたと思った時。不意に、自分でも驚くほど、意識が鮮明となった。
しかし、それが単なる『回復』でない事は分かっていた。むしろ逆。もうすぐ死ぬという事実から、久郷の脳が無意識に眼をそむけようとしているだけなのだろう。
久郷はうつ伏せに倒れた体勢のまま、まぶたを開けた。立体感が損なわれた視界の中、雨に溶けて薄い色になった自分の血液が、アスファルトを汚していた。
――死ぬのか。
久郷は内心呟き、再び眼を閉じた。
後悔はなかった。仕事柄、ろくな死に方はしないだろうと理解はしていた。運が尽きた時、人眼につかぬ場所でただ一人、誰に知られる事もなく、無様に死に絶える。それが自分に定められた、避けようのない運命だ。その運命が今この瞬間、巡ってきただけ。
次々に滴る水滴が地面を叩きつけ、耳障りな音が響く。途切れ途切れの呼吸と共に、白い息が洩れ、そしてすぐに虚空に消え去ってゆく。
とうとう寒さの感覚までもが失われた時、久郷は死を覚悟した。
――刹那、足音がした。
小刻みな音は、徐々にこちらに近づいてくる。奇妙だったのは、その足音が、靴底が硬い地面を打ち鳴らす音ではなく、ぺたぺたという、さながら裸足で歩いているかのような、柔らかいものだった事だ。
足音は久郷の前で止まった。彼は、ぼやけ始めた視界の中で足音の主の姿を見た。
大きめのサイズの、薄汚れた灰色のコートのフードを深く被り、表情は読めない。かなり小柄な体型だった。見ればコートの下から素脚が覗いている。身体つきは女性のそれだった。
彼女は、久郷の横に座り込んだ。コートの袖から白くしなやかな腕が現れる。
「…………」彼女は黙ったまま、その小さな手で、何かを確かめるように久郷の首筋に触れた。感覚を失ったハズの皮膚に、かすかな温もりを感じたのは気のせいだろうか。
次の瞬間、奇妙な浮遊感が久郷を覆った。気がついた時にはすでに、彼の身体は、彼女の二本の腕に抱き留められていた。
――そして、抱きしめられていた。
さほど強い力でもない。だが、今の久郷にそれを振り払うだけの力は残されていなかった。いや、たとえ四肢が動いたとしても、拒絶する気は起きなかっただろう。
優しく久郷の身体を包み込む、彼女の体温がコート越しに伝わってくる。それは、一切の温度をなくした久郷に、ほどよい心地良さを浸透させた。
見知らぬ人間に抱擁されているという、異常な状況を何の抵抗もなく受け入れた久郷は、素直に体重を彼女に預けた。
今日は最期まで理解不能な事だらけだったが――こんな締め括りも悪くない。久郷は胸の内で苦笑しながら、静かにその時を待つ。
「……『セフィロト』…………」
鈴の音のような、澄んだ声で発せられた彼女の言葉を聞いた瞬間、久郷は自分の意識が急激に彼方に遠ざかっていくのを感じた――。