転移
()は心の中の声
「」は実際の声のシーンです
転移
暑い夏が終わりを告げ、ようやく気温が落ち着いてきた九月の月曜日。
過ごしやすくなるはずだった季節の空は、しかし分厚い雲に覆われ、肌を刺すような冷たい雨を容赦なく降らせていた。
四時間目が始まってすでに二十五分。
だが、担当教師の姿はどこにもない。
教室には、退屈と不安が混じり合った空気が滞り、時計の針だけが規則正しく時間を削っている。
(……もう三十分経ってるのかよ。このままいけば四限消えるんじゃね?)
そんな期待まじりの思いで窓の外を眺める。
冷たい雨が鉄筋の校舎を叩き続けていた。
教室内では、スマホをいじる者、雑談に興じる者、机に突っ伏して眠る者――緊張感の欠片もない。
だがその緩い空気は、突然割り込んできた声によって切り裂かれる。
「おい、黒川」
田村――クラスの優等生として知られる男が、眉間に皺を寄せながら俺の席に来た。
その眼鏡の奥の瞳は、妙な責任感でギラついている。
「お前、クラス代議員だろ? 先生呼んでこいよ」
(え、やだよ……)
返事に詰まっていると、最悪の人物が横から割り込んできた。
佐々木――普段から俺にだけ妙に当たりが強い男だ。
「おい黒川。先生呼びに行けば“どうなるか”わかってるよな?」
威圧は露骨だが、毎度のことでもある。
だが、そのすぐ後ろから別の声がした。
「ていうかさ、先生もうすぐ来るって。さっき職員室で見たし」
珍しく佐々木の取り巻きがまともな推測をする。
(いつもは害悪でしかないのに、たまには役に立つんだな)
「そうだよな。黒川、お前を代議員に推薦してよかったわ」
満足げに笑って佐々木は友人の輪へ戻っていく。
取り巻きたちもすぐに騒がしく笑い始めた。
田村は最後まで納得しない様子で俺を睨み、渋々席へ戻る。
俺は小さく息を吐いた。
そして――時計の針が、11時30分を指した。
その瞬間だった。
カタ……ッ。
微かな振動。
続いて、
ガタガタガタガタッ……!!
窓ガラスが激しく震え、教室全体が異常なほど軋み始めた。
「え……なに……?」
思考が言葉になる前に、
頭蓋の奥で刃物のような痛みが爆ぜた。
「っ……!? あ、頭が……!!」
「気持ち悪っ……!」
隣の友坂が机に突っ伏し、他の生徒たちも次々に頭を抱え、床に崩れ落ちていく。
誰かの吐く音が教室を満たし、悲鳴と呻き声が混ざり合う。
(なんだ……これ……!?)
視界が歪む。
呼吸が浅く、心臓だけが異様な速度で脈打っている。
額には冷たい汗。
窓の外に視線を向けた瞬間、全身が凍りついた。
灰色の雲が渦を巻き、大気そのものが脈動していた。
雨は斜めどころか、ありえない方向へ叩きつけられている。
そして。
教室全体を、巨大な何かが押しつぶすような“風”が吹いた。
それはビル風でも突風でもなく――
あたかも、空気そのものが別の存在に掴まれたような、異様な圧。
次の瞬間。
世界の輪郭が、音もなくひしゃげた。
隼の意識は、深い闇へと沈んだ。
(……う……)
遠くで、石を叩くような硬い音が響いている。
頭の重さはまだ残っているが、先ほどの激痛は消えていた。
隼はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……どこだ、ここ……」
高い天井。
白い大理石のアーチ。
淡い光に照らされた、神殿のような広大な空間。
次に視線を壁へ向ける。
そこには――
黒鉄と銀の甲冑をまとった兵士たちが整然と並んでいた。
中世の騎士にも似ているが、どこか近代兵器の要素が混ざった、見たことのない武装。
剣のようでもあり、銃のようでもあり、どちらでもない“異文明の兵器”。
教室の生徒たちも次々に目を覚まし、同じく混乱した声を漏らしている。
「なにここ……?」
「夢じゃ……ないよな……?」
隼が前方へ視線を移した瞬間、息を呑んだ。
広間の最奥に、王冠を戴く人物が立っていた。
青を基調とした豪華な衣服に、紫の長い外套。
その左右には臣下と思われる人物たちが列を成し、全員がこちらを見つめている。
そして――
その中の一人。
背が高く、胸にいくつもの勲章をつけた男が、ゆっくりと歩み出た。
靴底が石の床を叩くたび、冷たい音が響く。
隼は、息を飲んだ。
(……これは、本当に“異世界”なのか?
それとも――もっと悪い場所か?)




