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巡る。  作者: 松本遊心


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 寸七翁は父親の顔を知らない。これまで父親のことを訊いたことはなかったし、また母もそのことを自ら語ることはしなかった。

 寸七翁が物心ついたときには、母とふたりで暮らしていた。一人親ということに劣等感を感じたことはなく、むしろ女手ひとつで育ててくれた背中をずっと見てきたので、口にこそ出さないがいつも感謝していた。


 先日、彼がデパートで母の買い物につき合っていると、ペットショップの前で、一羽の白い鳥と目が合った。なにか琴線(きんせん)に触れるものがあり、引き寄せられるようにそばにいった。鳥かごの上に”オカメインコ”と書かれたプレートが下がっている。彼の母親がすぐ後ろにきた。

「オカメインコ、気になるの?」

 寸七翁はオカメを見つめたまま、こくりと小さく頷いた。キョキョキョとさえずっている。

「買ってあげようか?いつも誕生日、何もいらないっていうから。うちのマンション、ペット大丈夫だし」

「ほんと?飼いたい。これからあと、なんにもいらないから」彼は振り向いて笑顔を見せた。

「ふふっ、そんなこと気にしなくていいよ。じゃあ、あとケージと餌とかも買わなきゃね。寸七翁、店の中に入ろ」

 そういってふたりは店内に入っていった。


 オカメインコを飼いはじめて数か月が経った。名前はピコと名付けた。

 寸七翁は部屋の中では放し飼いにしていたが、それだけだと彼が退屈で可哀そうに感じて、いつからか折り畳み台車にケージを載せて近所の公園に連れていっていた。もっといろんな景色を見せてあげたかったようだ。公園と自宅マンションは歩いて三分ほどの距離だ。

 ある日、いつものように学校から帰ってきて、「ピコ、公園行くよ」と声をかけてケージを持ち上げようとするとピコがケージ内で暴れてバサバサと飛びはじめた。甲高い激しい鳴き声を上げつづける。”オカメパニック”と呼ばれるものだった。飼いはじめて間もないころ、夜中に一度パニックを起こしていたので、対処法は勉強していた。

 彼は部屋のカーテンを少しだけ開けて、やや明るい程度の光を入れたあと、ケージの中の止まり木や水差しなどぶつかると危ない物をいったん取り出して、オカメにやさしく声をかけた。

「ピコー、大丈夫だよー。落ち着いてー。ぼくがそばにいるから」 

 しばらく様子を見ていたら、落ち着いておとなしくなった。静かないつものオカメに戻っている。寸七翁はケージからピコを出すと、怪我がないか両手で持ち上げて全身を確認した。そして無傷だったことに彼は胸をなでおろした。それと同時に、公園に連れていくのはもうやめようと考えていた。オカメを不安がらせて、いつまたパニックを起こすかわからない。

 ケージ内を元に戻し、ピコを中に入れた。壁の時計を見ると十六時半をいくらか過ぎていた。彼はやることがなくなって思案していたが、ふと閃き、木のバットと軟球のボールを持って部屋を飛び出し屋上へ向かった。そこには誰もいなかった。コンクリートの隅の一角には大家の趣味で、ゴルフ練習用の全面をグリーンネットで覆われたものが設置してあった。彼らは同じマンションの最上階に老夫婦だけで住んでいて、気のいいふたりは、すれ違えばいつも穏やかに挨拶をしてくれた。そして野球をしにバットを持った寸七翁を見て、いつだったか、屋上のゴルフネット、誰もいなかったら好きに使っていいよといわれていた。

 彼は左手のボールをひょいと投げると、渾身の力でスイングした。母が帰宅する十八時ごろまで時間をつぶすつもりだった。


 やがて寸七翁は中学・高校と卒業すると、学費の負担を考えて大学へは行かずに地元で就職した。都会へ出るには母の事が気になったからだった。

 勤め先は、県内のみで五店舗あるスーパーで、はじめは品出しとレジから覚え、段階を踏んで事務作業や商品の発注などを任されるようになった。

 そして(のち)の妻となる、このときパートだったひとつ年上の(かえで)と出会う。年末の忘年会の席で彼女から告白された。寸七翁はそれまでに誰とも付き合ったことがなく、女性に対する免疫がまったくなかったので、すっかり舞い上がって返事もまともにしないままお酒のグラスを重ねて酩酊(めいてい)した。


 寸七翁が三十二才のとき、ふたりは結婚した。交際十年、同棲期間が四年だった。

 あるとき部屋で夕食を食べていると、楓がふと思い出したようにパスタをフォークで丸める手を止めて口を開いた。

「ねぇ、なおくん。小学校のときの同級生でキリオタツキって子知ってる?」

 彼は赤ワインを含みながら、考えるように視線を上に向けた。「キリオ?……いや、知らない」

「あたしの知り合いの弟なんだけど、ちっちゃいころから相撲をやってて、わんぱく相撲?だったかな。それの全国大会で準優勝したらしいんだけど」

「あーっ、わかった。いたいた、違うクラスにでっかいやつが。桐生ね。……で、彼がどうかしたの」

「うん。なおくんは相撲観ないから知らないだろうけど、彼、いま大相撲で関脇らしいよ」

「うそ」彼は別世界の話を聞かされているようだった。

「案外、身近に大物がいるもんだね。あたしも相撲はよくわかんないけど」

 そういって彼女はパスタを食べ終えると、ごちそうさまでした、と手を合わせた。


 寸七翁は四十三歳になった。楓との間に子宝には恵まれなかったが、度重なる長い話し合いの末、ふたりだけの人生を楽しもうという結論に至った。

 勤務するスーパーでは店長を任されて六年になった。そんなある日、日ごろつき合いのある食品メーカーの主任に誘われて居酒屋で飲むことになった。

「泉くん、もう店任されて長くなるね」

 砂田(すなだ)という寸七翁より十ほど年上のその男はネクタイを緩めながら、ビールジョッキを手にすると半分ほどを一息に飲んだ。

「いえ、まだぜんぜん駆け出しみたいなものですよ」

「謙遜しなさんなって。おたくの社長も、泉は真面目が取り柄だから、っていってたよ」

「ははは……。そうですか」他に褒めるとこないのかよ、と彼は内心思った。

 砂田は枝豆をつまみながら、「ところで泉くんは格闘技とか興味ある?」と訊いた。

「いやー、格闘技はあまり……。野球は小・中・高とやってたんですが。砂田さんはたしかキックボクシングをされていましたよね。大会にも何度も出られているとか」

「まぁ、少々ね。でも野球やってたんならそこそこ体幹あるね。君もおれと同じ中肉中背だしね。……そうそう、先週さ、会場でプロレスを観た帰り道で高校生くらいの二人に絡まれて、あまりに口の利き方がなってないから説教しようとしたら、胸ぐら掴まれて顔に唾を吐かれたからさ、カッチーンときて裏拳一発入れて、回し蹴りを……と思ったけどやめたよ」

「殴ったんですか?!」

「いやいや、ちょんって軽くね。そしたら、そのひょろマッチョ二人、しっぽ巻いてったよ」

「だめですって、砂田さん。素人に、しかもそんな若い子にプロが手を出しちゃ」

「なんでか、絡まれやすいんだよな俺。さ、飲もうよ泉くん。今日は三軒くらいつき合ってくれるだろ?」

「ご冗談を。明日はふつうに出勤です」

「不真面目な取り柄も勉強しないと、もっと出世できないよ」

 そういって砂田は豪快に笑った。やれやれと寸七翁も追従(ついしょう)した。


 寸七翁が六十八才のとき、楓が膵臓(すいぞう)がんでこの世を去った。母もその二年前に心不全で亡くなっていた。

 定期健診で見つかったときには、すでにステージ4で、五年生存率一~五%の状態だった。彼女はきっぱりと化学療法による延命の選択を捨てて、自宅で通常通り生活する道を選んだ。

 結局、診断から約半年しかもたなかった。眼球や身体じゅうに黄疸(おうだん)が出て、日に日にそれが広がっていくのを見るのは、寸七翁はあまりに辛かったが、表面上はなんでもない顔で彼女の身体を毎日拭いてあげていた。

 ある日の夜、布団をかけてやっていると彼女が寸七翁を見上げて微笑んだ。

「なおくん、今日まで本当にありがとう。お迎えがそこまで来てるみたい。あたし、あなたと出会えて心から感謝してる」

 彼は楓の手を握った。「そんなこというなよ。まだ、ぼくには君が必要だ。お願いだから弱気にならないで」

「……そうだね、わかった。あたし眠くなっちゃった。……おやすみ」

 それが楓の最期の言葉だった。彼女自身が苦しまないで、その時を迎えたのが何よりの救いだった。


 寸七翁は九十六歳になった。

 一日のほとんどを布団の上で過ごしている。十二年前から訪問介護を利用していた。施設への入居も考えたが身元保証人がいないため困難だった。

 ヘルパーは四年前から同じ人がきて、彼の世話をしてくれている。年金の記帳や介護の支払い手続きなど、お金の管理もすべて任せていて、当の本人は現在どれくらいの預貯金があるのかさっぱりわかっていなかったが、もうそんなことはどうでもいいと彼は思っていた。

 やがて、その時は訪れた。その時間ヘルパーはおらず、寸七翁は仰向けに布団で寝ていた。

 近ごろは日中でも夢か(うつつ)かわからない日々がつづいていた。楓もこんな感じだったのかなぁ、とぼんやり思った。そして、ハサミで細い糸をちょきんと切るように、その生命は途切れた。

 彼は心の中で晴れやかな気持ちだった。”いい人生だったと。”

 

ーー日曜日。時刻は十五時半を少し過ぎている。

 少年は、ネットに入れたサッカーボールをちょんちょんと蹴りながら帰路についていた。自宅では、父が庭の草刈りと書棚を作っているはずだが、どっちも終わってるかなー、とぼんやり考えていた。自宅までは、すぐ先のT字路を曲がって緩やかな坂を上った所にあって、歩いて十分ちょっとだ。

 よく晴れた日だった。キーパーの彼は、我ながら今日の試合はよくセーブしたと、かなり満足して悦に入っていた。仲間からも褒められた。

 よーし、家までダッシュだ。と、勢いよく少年が角を折れた先に大型車が眼前に接近していた。

 車の急ブレーキ音と鈍い音が重なり合った。

 サッカーボールがてんてんとどこかへ転がっていった。

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