81度目の逮捕
埃と、乾燥した紙の匂い。市立図書館の特別書庫は、時の流れが澱んだような静寂に満ちていた。天井まで届く巨大な書架が迷路のように入り組み、床に敷かれた分厚い絨毯がすべての足音を吸い込んでしまう。
「……なるほど。これでは調査に一週間はかかるわね」
ホリー・ムーアは、目の前の書架に並ぶ分厚い革張りの本を眺め、うんざりしたようにため息をついた。隣で同じく本を物色していたディオンが、子供のように目を輝かせて振り返る。
「でも、この匂い、落ち着きません? リリー。昔の紙の匂いって、いいですよね」
「感傷に浸りに来たわけじゃないわ。仕事よ」
ホリーが冷たく言い放ち、目的の文献を探すために一歩踏み出した、その時だった。
書架の向こう側から、空気を微かに震わせる音がした。女性のものらしい、押し殺したような短い悲鳴。それは本が床に落ちる音にかき消され、注意していなければ聞き逃すほどのかすかな響きだった。
だが、ディオンの耳はそれを正確に捉えていた。彼の頭が音のした方向へ跳ね上がり、その場の空気が一瞬で切り替わる。
「リリー」
「ええ」
ディオンが動き出すのに、一秒もかからなかった。書架と書架の間の狭い通路を、まるで滑るように音もなく駆け抜けていく。彼の背を追いながらも、ホリーの視線は冷静に周囲を分析していた。そして、すぐに異変に気づく。
一つだけ、不自然な位置に置かれた移動式の書棚。他の書棚が壁に沿って整然と並べられているのに対し、それだけが通路の中ほどへ、何かを隠すように突き出ていた。
先に通路の角を曲がったディオンが、ぴたりと足を止める。その視線の先で、図書館の女性職員が腰を抜かし、へたり込んでいた。彼女は口元を押さえ、声にならない喘ぎを漏らしている。
ホリーが追いつき、ディオンの隣に並ぶ。彼の視線は、職員ではなく、例の移動式書棚が作り出した不自然な空間に向けられていた。
「ディオン」
「はい」
ホリーの短い指示に、ディオンは頷き、重厚な木製の書棚に手をかける。わずかな軋み音を立てて棚が横にずれると、その裏に隠されていたものが姿を現した。
ぐったりと壁にもたれかかる、人影。首に残る鬱血の痕から、その死因は明らかだった。
書庫の澱んだ静寂は、死によって破られた。
警察の到着は、迅速だったが騒々しかった。静寂を保っていた図書館の空気が、無線機のノイズと、分厚い絨毯の上を遠慮なく踏みしめる複数の足音によって破られる。現場保存用のテープが手際よく張られ、鑑識の白い防護服が書庫の薄暗がりの中で不気味に浮かび上がった。
「ムーア。やはり、あなたか」
現場を指揮するグレイブス警部が、うんざりした顔でホリーに声をかけた。彼の目には、長年の付き合いからくる疲労と、わずかな警戒が混じっている。
「ごきげんよう、警部。偶然、歴史的な発見に立ち会ってしまいまして」
ホリーは肩をすくめ、悪びれもなく答えた。ディオンは彼女の半歩後ろに立ち、警官たちの動きを無表情に観察している。
「発見、ね……。外部カメラの映像は確認済みだ。過去二時間、この図書館の出入り口を通過した不審な人物はいない。つまり――」
グレイブス警部は、書庫の外へと顎をしゃくった。
「――犯人は、今もこの館内にいる十人のうちの誰かだ」
警部の言葉を、ホリーは聞き流しているようだった。彼女の関心は、もはや死体にも、警察の初動捜査にもない。その視線はゆっくりと宙を彷徨い、一体の空調設備の吹き出し口でぴたりと止まった。そこから流れ出す冷気が、古い紙の匂いを乗せて、書庫全体に緩やかに循環している。
鑑識官が死体の状況を記録している間、ホリーはディオンの耳元にそっと顔を寄せた。
「ディオン。この匂い……何か気づく?」
「古い紙と、インクの匂いですね。あとは……埃?」
「違うわ。匂いが“強すぎる”のよ」
ホリーは、誰にも聞こえないほどの声で囁いた。
「見て、あの空調。気流が死体のある場所から、書庫の外側……閲覧室の方向へ流れている。この強烈な古書の匂いに乗せて、死臭を隠蔽し、発見を遅らせるための仕掛けよ」
ディオンの目がわずかに見開かれる。単なる死体遺棄ではない。現場の環境そのものを利用した、巧妙なトリック。
「警察は、単純な隠蔽工作としか見ていないでしょうね」
ホリーは冷めた目で現場を見渡した。
「でも、これは違う。衝動的な犯行じゃない。全てが計算された、極めて知的な殺人計画よ」
その言葉を証明するかのように、グレイブス警部の指示が飛んだ。
「よし、館内に残っている利用者と職員、全員を閲覧室に集めろ! 一人残らずだ!」
これから始まる、十人の容疑者と一人の探偵による、嘘と真実のゲーム。ホリーの口元に、かすかな笑みが浮かんでいた。
図書館の閲覧室は、重苦しい沈黙に支配されていた。
高い天井、磨き上げられたオーク材の長机、壁一面の書架。普段ならば知的な静けさに満ちたその場所は、今や尋問を待つ容疑者たちのための、仮設の留置所と化していた。学生、老人、主婦、ビジネスマン――そこに集められた十人の顔には、一様に不安と疑念が浮かんでいる。
「これより、皆様の所持品を検査させていただきます。ご協力を」
グレイブス警部の事務的な声が響き、警官たちが一人一人にビニール袋を持って回り始めた。ディオンは壁際に腕を組んで立ち、ホリーは長机の端に腰掛け、その様子を静かに見守っている。
検査は淡々と進んだ。財布、スマートフォン、手帳。ありふれた所持品が次々と袋に収められていく。だが、一人の若い女性のハンドバッグから血の付いたハンカチが出てきたのを皮切りに、場の空気は一変した。
「……警部、こちらからも」
「なんだと?」
別の警官が、初老の男性が持っていたビジネスバッグから、同じく血痕が付着したタオルをピンセットでつまみ上げる。一人、また一人と、まるで示し合わせたかのように、血の付いた布類が発見されていった。
最初に悲鳴を上げたのは、学生風の青年だった。
「な、なんでだよ! 俺は何も知らない!」
その叫びを合図に、堰を切ったように混乱が広がった。
「嘘よ! 誰かが仕組んだのよ!」
「私のじゃないわ!」
だが、最も奇妙だったのは、半数近くの人間が青ざめた顔で黙り込んでいることだった。彼らは何かを言おうとして口を開きかけ、しかし隣にいる他の容疑者の顔を見ては、怯えたように口を閉ざしてしまう。
やがて、十人全員の検査を終えた一人の若手警官が、信じられないといった表情でグレイブス警部に報告した。
「警部……全員です。十人全員の所持品から、被害者のものと推定される血痕が……」
閲覧室が、水を打ったように静まり返る。
グレイブス警部は額の汗を拭い、怒りと困惑を隠しもせずに叫んだ。
「馬鹿なことがあるか! 現場が汚染されていたんだ! 鑑識のミスだ! 全て回収して再検査に回せ! 今すぐだ!」
警察が混乱に陥る中、ホリーだけが冷静だった。
彼女の目は、恐怖に震える容疑者たち一人一人の顔を、まるで貴重な標本でも観察するように、ゆっくりと見据えていた。彼らの恐怖は、殺人の容疑に向けられたものではない。もっと別の、共有された“秘密”が暴かれることへの恐怖だ。
(これは証拠じゃない。犯人が仕掛けた“呪い”よ)
ホリーは心の中で呟いた。
(血をつけたタオル。それは、この十人を繋ぎ、そして同時に互いを疑わせるための楔。彼らは、犯人が作ったこの舞台の上で、口を閉ざすことしかできない操り人形……)
探偵の目は、すでに犯人が描いた歪んだ脚本を読み解き始めていた。
あれから、時計の針が二周した。
閲覧室の空気は、張り詰めた緊張から、よどんだ疲労へと変わっていた。容疑者たちは長机にぐったりと身を預け、警官たちも手持ち無沙汰に壁際へ立つばかり。鑑識の再検査報告はまだ来ず、捜査は完全に停止していた。
「……だから、それはただの憶測だと私は言っているんです!」
部屋の隅で、グレイブス警部がスマートフォンを耳に押し当て、声を荒らげている。その顔は、焦りと憤りで赤くなっていた。
「容疑者たちの間で、しきりに『ウイルス』だの『検査』だのという単語が出ている、それだけでしょう! 物証は何もない!……ええ、しかし……はい……承知しました」
数度のやり取りの後、グレイブ-ス警部は忌々しげに通話を切ると、近くにいた部下に吐き捨てた。
「くそっ……。上層部が『未知のウイルス』の単語に過剰反応しやがった。バイオテロの可能性を考慮し、専門部隊が到着するまで、全捜査を一時凍結だと」
「凍結、ですか!? 我々だけで聞き込みも?」
「ああ、何もするな、だ。下手に動いて情報を漏らし、パニックでも起きたらどうする、とな」
bureaucratic paralysis、和訳するならば組織麻痺、官僚による停滞。組織が、自らの規則と恐怖で身動きが取れなくなる、典型的な症状だった。犯人の狙いは、まさにこれだ。
その様子を、ホリーは冷めた目で見つめていた。彼女はそっと席を立ち、ディオンの隣へ歩み寄る。
「警察は、見事に罠にはまったわね。犯人が撒いた『ウイルス』という名の幻影に怯え、自ら檻に入ってくれた」
「では、ここからは……」
ディオンが尋ねると、ホリーは静かに頷いた。
「ええ。公式の捜査が止まった今こそ、本当の捜査を始める時よ」
ホリーはディオンにだけ聞こえる声で告げると、毅然として閲覧室の中央へと歩き出した。その動きに気づいたグレイブス警部が、咎めるような鋭い視線を向ける。
「おい、ムーア! どこへ行く気だ。誰も動くなと……」
「あら、警部。私はどこへも行きませんわ」
ホリーは優雅に振り返ると、近くの書架から一冊のハードカバーを抜き取ってみせた。
「ただ、少し読書を嗜むだけ。ここは、図書館なのですから」
その言葉に、警部はぐっと押し黙る。ホリーは誰にも止められぬまま、本を片手に、尋問すべき最初の容疑者が座るテーブルへと、静かに、そして確かな足取りで向かっていくのだった。
ホリーが最初の標的に選んだのは、見るからに気の弱そうな、大学院生風の青年だった。彼は一人だけ離れた席で、指を組んで俯き、小刻みに震えている。ホリーは彼の向かいの椅子に、音もなく腰を下ろした。
「こんにちは。少し、お話を伺っても?」
青年はビクリと顔を上げた。ホリーの穏やかな笑みに、かえって怯えを増したように目を見開く。
「……ぼ、僕は、何も……あの人は、知らない人で……」
「ええ、分かっています。あなたが殺したのではないのでしょう」
ホリーの言葉に、青年は意外そうな顔をした。警察の誰もが疑いの目を向ける中、目の前の女探偵は、あっさりと彼の無実を肯定したのだ。
「私が聞きたいのは、殺人のことではありません。……あなたのその、カバンに入っていたタオルのことです」
その単語が出た瞬間、青年の顔から再び血の気が引いた。
「な、なんですか、急に……」
「奇妙だと思いませんか? 集められた十人全員が、血の付いたタオルを持っていた。まるで、何かの儀式のようです。……あれは、何のためのものだったのですか?」
ホリーの声は、あくまで優しい。だが、青年をじっと見つめるその瞳は、嘘を許さない光を宿していた。青年は視線を泳がせ、しどろもどろに答える。
「あ、あれは……その、健康チェック、みたいな……本人確認のための、簡単な……」
「健康チェック?」
ホリーは小首を傾げた。「もう少し詳しく。例えば、最近流行りのPCR検査のようなものかしら?」
「そ、そうです! それです! PCR、みたいなもので……」
青年は、待ってましたとばかりにその言葉に飛びついた。だが、そこが彼の限界だった。
「まあ、興味深いわ。どこの機関が? どんなウイルスを? 結果はいつ知らされるの? もしかして、何か特別な抗ウイルス薬でも処方されました?」
立て続けに放たれる具体的な質問に、青年は完全に言葉を失った。彼の口からは、「ええと」「その……」というような、意味のない音しか出てこない。彼は、「PCR」や「抗ウイルス薬」という言葉の意味も、その仕組みも、何一つ理解していなかったのだ。
ホリーは、それ以上彼を追及するのをやめた。代わりに、深い憐憫の目を彼に向ける。
(……なるほど。こういうことだったのね)
彼女はすべてを理解した。
この青年も、他の容疑者たちも、殺人犯ではない。彼らは、もっと大きな犯罪計画の末端で使われる、哀れな駒に過ぎない。
誰かから与えられた、聞きかじりの、意味も分からない“それらしい言葉”。その言葉の持つイメージだけで恐怖を植え付けられ、完全に支配されているのだ。
「もう結構ですわ。お時間を取らせてしまって、ごめんなさいね」
ホリーは静かに席を立つ。混乱したままの青年を残し、彼女は次の獲物――ではなく、次の“哀れな子羊”の元へと歩き出した。
犯人は、この図書館にいる人間だけではない。この子羊たちを操っている、狡猾な羊飼いこそが、本当の敵だ。
ホリーが容疑者たち全員から、要領を得ないながらも同じ内容の「言い訳」を聞き出し終えた頃、閲覧室に設置された警察の簡易捜査本部は、新たな情報によって騒然となっていた。
「警部、ロンドン警視庁の特捜から緊急連絡です!」
一人の若手刑事が、ノートPCを抱えてグレイブス警部に駆け寄る。その表情は興奮と混乱で上気していた。
「今から三時間ほど前、ここから5ブロック先の宝飾店に強盗が! 被害総額は未知数ですが百万ポンドは超えると見られます!」
「なんだと? ただの強盗で特捜が動くか!」
「それが……手口から、世界各地で暗躍する怪盗団『ヴェール・キャット』の犯行が確実視されている、と」
『ヴェール・キャット』。
その名を聞いた瞬間、グレイブス警部の顔が険しくなった。東欧の難民で構成されたと噂される、神出鬼没の窃盗集団。彼らの手口は、常に大胆不敵で、まるで芸術のように洗練されている。
「馬鹿な……なぜ、あの『ヴェール・キャット』が、こんな場末の図書館で起きた殺人と関係あるというんだ……」
警部は頭を抱えた。事件のピースは、増えれば増えるほど、全体の形を歪にしていく。
特殊詐欺の受け子グループ。
ウイルスを使ったとされる奇妙な脅迫。
図書館内での計画的な殺人。
そして、国際的な怪盗団による、同時刻の犯行。
あまりにも脈絡のない要素が絡み合い、捜査官たちは完全に思考の迷宮に迷い込んでいた。
「……警部。舞台が複雑になりすぎると、役者は脚本を読み解くのを諦めてしまうものです」
いつの間にか、ホリーがグレイブス警部の背後に立っていた。彼女の声は、騒がしい捜査本部の中で、不思議なほどはっきりと響いた。
「何が言いたい、ムーア」
「これは、そういう“お芝居”なのですよ」
ホリーは、刑事たちの混乱をまるで楽しむかのように、静かに微笑んだ。
「小さな殺人事件は、放っておけばあなたのような有能な警察官にすぐに解決されてしまう。それでは困るから、犯人はすぐ隣に、もっと大きくて、もっと派手で、もっと魅力的な“別の舞台”を用意したのです」
マジシャンのミスディレクション。観客の注意を、華やかな右手に引きつけておき、本当に重要な左手の動きから目を逸らさせる。
(ヴェール・キャットの強盗は、この殺人事件を複雑に見せるための、壮大なカモフラージュ……)
警察が巨大な幻影に惑わされている間に、真犯人は悠々と目的を遂げる。ホリーは、敵の用意周到さと、その悪意の深さに、かすかな戦慄を覚えていた。
ホリーは、警察が作る喧騒の中心から、幽霊のようにすり抜けた。ディオンだけが、その影に寄り添うように続く。彼女が戻ったのは、すべての始まりの場所――テープが張られた、事件現場の書架エリアだった。
「……見事な舞台だわ」
ホリーは、鑑識のチョーク跡が残る床を見下ろし、呟いた。彼女は犯人の思考を追体験するかのように、ゆっくりと現場を歩く。指先が、死体が隠されていた移動式の書棚にそっと触れた。
「警部は、この複雑さにうんざりしている。でも、犯人はこの複雑さをこそ望んだ。なぜ?」
「……時間を稼ぐため、ですか?」
ディオンの問いに、ホリーは首を横に振った。
「それだけじゃない。これは、挑戦よ。パズルを解く人間――つまり、私のような存在に対する、歪んだ挑戦状」
ホリーはぴたりと足を止めた。
「凶器が見つかっていないわね」
「はい。警官たちが全員の所持品を調べましたが……」
「無意味よ。犯人は、そんな素人みたいなミスは犯さない。では、凶器はどこへ消えた? この封鎖された図書館から、どうやって外へ?」
その時、ホリーの視線が、書架に並ぶ無数の本に向けられた。図書館。本を借りる場所。
「……ディオン。この図書館の貸出記録を調べて。事件発生時刻の前後、特に自動貸出機が使われていないか」
ディオンは頷くと、近くの検索用端末に向かい、驚異的な速さでキーボードを叩き始めた。数分後、彼はホリーの元へ戻ってくる。
「リリー。ありました。被害者の死亡推定時刻の直後、自動貸出機で一冊だけ、貸出記録が」
「本のタイトルは?」
「……『緋色の研究』です」
その言葉を聞いたホリーの唇に、氷のように冷たい、しかし確信に満ちた笑みが浮かんだ。
「……ご丁寧に、私へのメッセージ付きとはね」
「凶器を、この本の中に隠して?」
「ええ。そして、堂々と正面から持ち出した。何より、このトリックの真の目的は、凶器の隠滅じゃないわ」
ホリーは、今や舞台の脚本をすべて読み解いた演出家のように、静かに言い放った。
「『犯人はすでにここにはいない』。そう警察に思い込ませるための、見事な心理トリックよ。外に逃げた犯人を追跡させ、中に残った容疑者たちへの警戒を解かせる。……私たちの犯人は、ただの殺人者じゃない。観客の心理を巧みに操る、一流の舞台奇術師だわ」
これで、全てのピースは揃った。
ホリーの頭の中では、すでに犯人の顔が、くっきりと浮かび上がっていた。
ホリーが選んだ場所は、図書館の三階にある、使われなくなった郷土資料室だった。埃をかぶったガラスケースと、古地図が壁に貼られただけのその部屋は、下の階の喧騒が嘘のような静寂に包まれている。
ディオンがドアの前に立つ中、ホリーは部屋の中央をゆっくりと歩きながら、これまで集めた全てのピースを、頭の中の盤上へと並べていった。
「ディオン。犯人の目的を考えてみましょう」
「……口封じ、でしょうか」
「それなら、もっと静かに、別の場所で殺せばいい。なぜ、わざわざ白昼の図書館で、十人もの人間を巻き込んで?」
ホリーは指を一本立てる。
「第一の幕、『ヴェール・キャット』。あまりに華やかで、大掛かりな陽動。警察の目を外に向けさせるための、見事な打ち上げ花火だったわ」
彼女は二本目の指を立てる。
「第二の幕、『ウイルスの脅威』。容疑者たちを沈黙させ、警察の動きを内側から封じ込めるための、心理的な檻。安上がりだが、効果は絶大だった」
そして、三本目の指。
「第三の幕、『貸し出された凶器』。犯人がすでに去ったと誤認させ、残った者たちへの警戒を解くための、小粋なクロージング」
ホリーはディオンに向き直った。その瞳は、すべてを見通したかのように澄み切っている。
「これら全ての大掛かりな舞台装置は、たった一つの、シンプルな目的のために用意された。――『組織の裏切り者一人を、他の協力者たちの目の前で、見せしめとして処刑する』。そのためにだけよ」
ディオンは息を呑んだ。陽動、脅迫、トリック。その全てが、ただの見せしめのための演出だったというのか。
「では、犯人は……この芝居の脚本を書き、演出も手がけた人物……」
「ええ。役者たち、つまり受け子たちは、自分の台詞すらまともに覚えていなかったわ。彼らに指示を出し、監視し、そして自らも舞台に上がって、役者の一人のフリをしていた人物」
ホリーの言葉が、静かな部屋に響く。
「この全ての混乱を、最も冷静に、最も近くで見ていた人間。受け子たちのまとめ役であり、組織の忠実な番犬……『監視役』よ」
ホリーは窓の外、夕暮れに染まり始めたロンドンの空を見つめた。
「脚本はすべて読んだわ。あとは、主役にご登場願うだけね」
彼女はディオンに振り返り、静かに告げた。
「行くわよ。カーテンコールを始めましょう」
ホリーはグレイブス警部に「特に怯えている容疑者から、もう一度話を聞きたい」とだけ告げ、一人の人物を資料室に呼び出した。
それは、十人の中で最も目立たず、最も平凡に見えた、灰色のカーディガンを着た女性だった。彼女は、ホリーに促されて椅子に座ると、か細い声で言った。
「わ、私は、もう話すことは何も……」
「ええ、知っています。哀れな受け子を演じるのは、もうおやめなさい」
ホリーの言葉は、静かだったが刃物のように鋭かった。女性の肩が、かすかに強張る。
「……何のことか、分かりません」
「では、単刀直入に言いましょうか、この舞台の演出家さん。受け子たちを縛っていた、あの馬鹿げたウイルスの話。あれは、数年前に世間をパニックに陥れたパンデミックのおかげで、誰もが知るようになった『PCR』だの『抗ウイルス薬』だのといった言葉を借りただけの、見事なブラフでしたね」
その一言が、引き金だった。
女性の顔から、怯えという名の仮面が剥がれ落ちる。次に現れたのは、氷のように冷たく、揺るぎない信念を宿した、全く別人の表情だった。
「……どこで気づいた?」
「最初からよ。役者たちの台詞が、あまりにお粗末だったから」
ホリーは、女性――この事件の真犯人――と、まっすぐに向き合った。
「なぜ、あれほどの手間を? ただ一人を殺すためだけに」
犯人は、ふっと息を漏らし、まるで哲学を語るかのように、静かに口を開いた。
「彼は、間違え続けた。我々の組織にとって、腐敗しかもたらさない癌だった。これは殺しではない。当然の応報であり、必要な制裁だ」
その声に、後悔の色は一切なかった。
「我々はあらゆる手段で彼に警告し、生きる気力さえも削ぎ落とした。だが、腐敗は止まらなかった。悪が立ちはだかったから、私は正義として、悪の敵になった。ただ、それだけのこと」
「その“正義”のために、あなたは人を殺し、無関係な人間を恐怖に陥れたのね」
「同じ立場にもなれないあなたに、手段の是非を語る資格はない。これは妥当な手段であり、正しい行いだ」
犯人はゆっくりと立ち上がった。その瞳には、狂信的な光が宿っている。
「殺人は、癖になる。それは悪いことだ。だが、殺人でなければ取り返せないものもある。私は、組織への忠誠を誓った。この身が逮捕されようが、その忠誠に間違いはない。これが、私の出した正解だ」
その言葉は、もはや弁明ではなかった。
自らの行いを絶対的な善とする、揺るぎない信念の告白だった。
そして、その告白が終わった時が、言葉によるゲームの終わりを意味していた。
犯人が「これが正解だ」と言い終えた瞬間、その姿がブレた。
灰色のカーディガンの袖の内側から、鈍い光が滑り出る。隠し持っていた、細身のセラミックナイフ。彼女は床を蹴り、無言のままホリーの喉元を狙って突き進んできた。
「!」
ホリーは咄嗟に後方へ跳び、近くにあった重厚な革張りの椅子を盾にする。ガッ、と硬い音がして、ナイフの先端が椅子の背に突き刺さった。狂信者の攻撃に、躊躇いはない。椅子を蹴り飛ばし、犯人はなおも間合いを詰めようと、執拗な斬撃を繰り返す。
狭い資料室が、死闘の舞台と化した。ホリーはひらりひらりと身をかわし、書架や机を障害物にしながら反撃の機会を窺うが、相手の攻撃は獣のように鋭く、一瞬の油断も許されない。ナイフの刃がホリーのコートの袖を切り裂き、白い肌に一筋の赤い線が走った。
(……このままでは、ジリ貧ね)
ホリーは冷静に状況を判断する。体格と凶器のリーチでは、圧倒的に不利。ならば、勝機は一瞬。
犯人が大きく踏み込んできたその瞬間、ホリーは避けるのではなく、逆に相手の懐へと踏み込んだ。ナイフを持つ腕を下から払い上げ、体勢を崩した犯人の脇腹に、全体重を乗せた肘を叩き込む。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃に、犯人の体がくの字に折れ曲がり、床に倒れ込んだ。
だが、その瞳の光は、まだ消えていなかった。床に倒れたまま、なおもナイフを握りしめ、ホリーの足元を薙ぎ払おうと最後の抵抗を試みる。
「……見苦しいわ」
その執念を、ホリーは氷の視線で見下ろした。
彼女は、ナイフを握る犯人の腕を床に踏みつけ、固定する。そして、もう片方の足を高く上げ――そのハイヒールの鋭い先端を、犯人の前腕部、筋繊維が集中する一点めがけて、容赦なく振り下ろした。
ゴリッ、という鈍い音が、部屋に響いた。
「がああああああっっ!!」
それまで気丈に振る舞っていた犯人の口から、初めて苦悶の絶叫が迸る。筋繊維を断ち切られた腕から力が抜け、カラン、と乾いた音を立ててナイフが床に転がった。
完全に無力化された犯人を、ホリーは冷たく見下ろす。そして、その震える体の上に、まるで女王が玉座に就くかのように、ゆっくりと腰を下ろした。
その、完璧な制圧と同時だった。
バンッ!と凄まじい音を立てて資料室のドアが破られ、ディオンが血相を変えて飛び込んでくる。その後ろから、事態を察したグレイブス警部たちが、銃を構えてなだれ込んできた。
彼らが見たのは、床に転がるナイフと、痛みにもだえる犯人、そして――その上に静かに腰掛け、乱れた髪をかき上げるホリー・ムーアの姿だった。
資料室に突入してきた警官たちは、目の前の光景に息を呑み、凍り付いていた。
その異常な静寂を破ったのは、ディオンだった。彼は銃を構える警官たちの間をすり抜け、ホリーの元へと駆け寄る。
「リリー! お怪我は!?」
「かすり傷よ。私のコートの方が重傷だわ」
ホリーはディオンに手を貸してもらうこともなく、すっと立ち上がった。まるで、何事もなかったかのように。その足元では、腕を押さえて呻く犯人が、憎悪と苦痛に顔を歪めている。
我に返ったグレイブス警部が、叫んだ。
「確保しろ! 手錠をかけろ!」
数人の警官が、ようやく犯人に飛びかかり、その身柄を拘束する。
ホリーは、乱れた衣服の埃を軽く払い、拘束された犯人の前にゆっくりと歩み寄った。そして、その耳元にだけ聞こえるように、静かに、しかしはっきりと告げる。
「あなたの忠誠心、見事だったわ。だから、敬意を表して相応の場所を用意させてあげる」
ホリーは、絶望に染まる犯人の顔を見下ろし、最後の言葉を紡いだ。
「防弾防爆という点では大統領用の護送車と差のないお迎えがやってくるわ。そこでじっくり話を聞いてあげるから」
その言葉の意味を理解した瞬間、犯人の瞳から、初めて狂信以外の色――純粋な恐怖が浮かび上がった。自分がこれから連れていかれる場所が、通常の警察署や刑務所などではないことを、悟ったのだ。
グレイブス警部もまた、その台詞の裏にある、国家レベルの権力の存在を感じ取り、ただ黙って成り行きを見守るしかなかった。
やがて犯人は連行され、図書館には再び、事件が終わった後の気だるい静けさが戻ってくる。
ホリーはディオンと共に、誰に言うでもなくその場を後にする。
彼女の“緋色の研究”は、まだ始まったばかりなのだから。