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Truth Cascade  作者: 伊阪証
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ある元軍人とある元特殊部隊員について

殺人ミステリー──それは数多くの嘘や勘違いによって成立する奇妙な自称だ。 その流行は、説明不可能な事件が多発した結果として生まれ、どうにか説明しようとする試みが、いつしか“物語”と呼ばれるようになった。

事件はやがて増える。思想が増えたように、多様な殺人が増え、誤魔化す技術も進化し、あらゆる犯罪が高度化すると同時に、どこまでも平凡になっていく。 法律の厳格化や法治主義における厳罰の限界は、時として望まぬ結果をもたらす。

──そんなロンドンに、一人の異質な探偵がいた。 事件の解決、それも“本当の解決”。関与した人物すべてを諌めることができる女。 逮捕歴八十回、周辺国家からはブレグジットを理由に立ち入り禁止。経由した渡航すら封じられ、もはや安楽椅子探偵としてしか活動できない。 だが、彼女の前では嘘は通用しない。 彼女の前では、すべてが些細なロジックだ。

──だからこそ、彼女は探偵として、今日も追及を続ける。 「……犯人の核心を知りたい。それこそが、私の“緋色の研究”さ。」

ホリー・ムーア。元貴族にして元政府高官。現在はロンドン市内で私立探偵事務所を営む。その身体にはかつての戦火による無数の傷が刻まれ、事故で摘出された内臓によって子供も産めぬ身体となっていた。かつての栄光は失われたが、彼女の観察眼と追及力はいまだ健在である。

今日もまた、街のどこかで誰かが嘘をつき、そしてその嘘が、小さな事件の火種になる。

冬の午前十時。ガラス天井から差し込む光がショッピングモールの中央ホールを照らしていた。人通りは多く、週末の賑わいが通路に広がっている。ホリーとディオンは、モール中央の服飾エリアを歩いていた。

ホリーは薄手のロングコートに身を包み、黒のパンツスタイルでまとめていた。足元はヒールではあるが歩行には問題のない高さで、今日の服装はあくまで視察と日常の延長という体である。対してディオンは──見る者が目を引くほどに、動きやすさと主張を両立した奇妙なファッションをしていた。

「これよくないですか!!」

ディオンは突如立ち止まり、棚からスカジャンを引き抜いて振り返った。どぎつい金と赤の配色。背中には翼を広げた虎の刺繍。明らかに悪目立ちするそれを、少年のような無垢な笑顔で誇らしげに掲げている。

ホリーは歩みを止め、額に指をあててため息をついた。

「絶対にダメ。何その下品な色合い……目が痛い。」

ディオンは言葉を飲み込み、しゅんと肩を落とす。だがその手つきは丁寧で、スカジャンを元の棚に戻す動作一つにも几帳面さが滲んでいた。

「ちぇー……」

そのときだった。空気を裂くような悲鳴が、モールの上層階から響いた。

ホリーは瞬時に首を巡らせた。叫び声の位置──二つ上の階層、別棟の通路。その方向を見据えるディオンが、真剣な表情で視線を固定していた。

「あっちの別棟。二つ上の階です」

声色が変わった。ホリーも即座に判断し、彼に頷く。

「行きましょう」

だが、次の瞬間、ホリーは足元を見せるように片足を出して言った。

「ちょっと、私ヒール……」

視線を落としたディオンが足元を確認し、わずかに眉を寄せる。 迷いは一瞬だった。すぐにホリーを抱き上げた。

「持ちます」

「やめなさい、恥ずかしい……」

「後で怒ってください」

そのまま走り出す。ディオンの体幹は揺れず、ホリーを抱えたままでも安定していた。走りながら、彼は構造を頭に入れるように視線を上下させ、エスカレーターの位置を確認する。

一段飛ばしでエスカレーターを駆け上がり、途中の手すり部分にわずかに重心を預け──跳んだ。

跳躍は正確だった。中央ホールの吹き抜けを一気に超え、二階層分の距離を空中で縮めた。光を背に受けたその姿は、まるで都市を駆ける影のように鮮やかだった。

騒ぎの中心へと向かう彼らの動きは、やがて都市の裏側に潜む真実の連鎖を紐解いていくことになる。


着地の衝撃を殺すように、ディオンの膝が深く沈み込んだ。ホリーを抱いたまま、身体のバネだけで勢いを吸収する。靴底が大理石の床を叩き、鈍い音が一つ。体勢を崩すことなく、彼はそのまま加速した。

腕の中のホリーは無言で視線を前に据え、彼の首に片手を回してバランスを保っていた。見知った構造、記憶していた動線──彼は即座に別棟への最短経路を選び、一直線に駆け出す。

モール内はざわつき始めていた。高層階で響いた悲鳴が中央吹き抜けを伝い、複数のフロアへ波紋のように広がる。客たちは不穏な空気を感じ取り、店舗の中へ戻る者、スマートフォンを構える者、様々だった。

連絡通路前には、すでに簡易の金属バリケードが設置されていた。二人の警備員が通行を止めていたが、近づく人影に目を見開いた。

「すみません、上の階は──」

言い終える前に、ディオンの姿が視界を横切る。

地を蹴った瞬間、背筋が鋼のように伸び、ホリーを支えたままバリケードの向こう側へ跳躍。足が鉄枠をかすめ、警備員の手が届くより早く着地した。

「探偵です」

ホリーがひと声、抑えた口調で名乗る。

その名を聞いた瞬間、警備員の顔色が変わる。

「ムーアさん!? あっ、どうぞ、通ってください!」

彼女の名が持つ重みは、法律の外側でも健在だった。

ディオンは扉を右手で押し開け、躊躇なく管理通路へと踏み入る。鋼製のヒンジが軋み、内側から押し戻す風が頬を撫でた。

中は冷たい。 照明は非常灯のみ。オレンジ色の光がパイプの壁に影を伸ばす。コンクリートの床はわずかに湿っており、埃と金属の臭いが立ちこめる。

段ボール箱、乱雑に積まれた備品、脚立。狭い通路は直線ではなく、いくつもの折れ曲がりがあった。ホリーは軽く片手を肩に置き、圧力のかけ方を調整する。彼女の眼差しはすでに緊急事態のそれだ。

ディオンは何も言わず、重心を低くしながら進む。足音は確かに鳴っていたが、騒音ではなかった。体重を分散させるように蹴り出される足は、走るというより滑るように進んでいる。

三度目の曲がり角を抜けた瞬間、赤いフラッシュライトが壁を染めた。火災報知器が作動した。

──ベル音。断続的に高音が鳴り響き、空気が震える。

「警報が作動したわ」

「残り階層、あと一つです」

ディオンは速度を落とさず、鉄の階段へと踏み込む。ステップがきしむ音が重く響いた。ホリーは背中から覗く階層案内板に目をやる。

──『B棟3F:電化・専門機器売場』

火災か、あるいはそれ以外か。 判断は、目で見るまで保留された。

ディオンの背は、何かを恐れてはいなかった。だが、それ以外の全員は、すでに怯え始めていた。

B棟3階。封鎖された区画の前、ホリーは静かに足を止めた。 廊下の先からは焦げた金属とオゾンの匂いが流れてくる。

「この階……明らかにおかしいわ」

天井の照明は半数が落とされ、通電しているはずの防犯カメラも沈黙していた。 消火器や消火栓の位置には目隠しがされ、侵入者が見落とすよう細工されている。

ホリーはヒールの爪先で床を軽く叩く。中空の音。 「床材の下に空洞。たぶん、何かを仕込んでる」

ディオンが背後でうなずいた。 「ボクの嗅覚でもわかります、ここ……爆薬がある」

「構造図を確認した。数年前までこの棟には旧病院設備が保守区画として残っていたはずよ」

「MRIとかの施設?」

「ええ。今はモールに転用されてるけど、医療用の液体ヘリウムタンクが一時保管されていた区域が地下にある」

ディオンは腕を組む。 「つまり、そこに持っていけば爆弾を冷却できるってこと?」

「理論上は可能。ただし、タンクが残っていればの話よ」

ホリーはポケットからタブレット端末を取り出し、構造データを表示する。 「地下フロアB1。元放射線診断部の倉庫。そこに補充用の液体ヘリウムタンクが保管されていた記録がある。もし今もあるなら、そこが目的地になる」

「じゃあ爆弾を担いで、そこまで?」

ホリーは静かに頷いた。 「この状況では、外からの搬出は不可能。空からの侵入もフライトプラン的に無理。あとは“運ぶ”しかない」

ディオンは不敵に笑った。 「よし。任せて。人一人分の重さなら、抱えて走れる」

「誤解しないで。これは実力行使でも武勇伝でもない。“手段”の一つ。やれるならやりなさい。ただし──」

ホリーはディオンの胸元を指先で突いた。 「“無傷でやり遂げなさい”。これは任務よ」

ディオンは姿勢を正し、小さく敬礼する。 「了解。リリー」

「……その呼び方、外ではやめなさい」

二人はすぐさまフロアを離れ、地下の旧医療棟へ向けて移動を開始した。

長い廊下を抜け、非常用階段を駆け下り、封鎖されたドアの前で足を止める。 ホリーが特殊なICカードを取り出し、鍵穴に差し込むと、ドアは無言で開いた。

中には銀色の金属タンクが4本、並んでいた。 床に貼られた注意書き。 《低温高圧注意》《LIQUID HELIUM》《酸素欠乏危険》

ホリーが読み上げる。 「これよ。予備の液体ヘリウムタンク。サイズは……150リットル級。まだ使えるわ」

ディオンは一歩踏み出して手を触れる。 「冷たい……でも、持てる。中身は半分くらいかな?」

ホリーは目を細めた。 「そのまま使うのは無理ね。設置場所が問題になる。爆弾を持ってきて“この中に”入れるしかないわ」

ディオンは真顔になった。 「え、ボク、あれを背負ってここまで走るの?」

「今さら?」

「いや、いいけど……HEって書いてあるからさ……」

ホリーが一瞬だけきょとんとした。 「High Explosiveの略だと思ったの?」

「違うの?」

「Helium。化学記号。ガスよ。爆発物じゃない」

ディオンは口をぽかんと開け、すぐに笑った。 「てっきり、戦車ぶっ壊すやつかと……」

ホリーは呆れたように目を細める。 「脳筋にもほどがあるわ……というかタンク運ぶ前提はおかしいわ」

空気が少し和らいだ。

だが次の瞬間、警告音が走った。

『カウントダウン開始──制限時間:12分』

「リリー、急ぐよ。爆弾、回収してくる」

「“私が”じゃなくて、“私達が”よ。判断は私がやる、あなたは走って運べばいい」

「了解」

二人は視線を交わし、一斉に走り出した。

──目的はひとつ。 液体ヘリウムタンクに、爆弾を突っ込んで凍らせること。 時間はない。

だが、手段はある。 十分に冷たい手段が。

ディオンは軽く顎に手を当てたあと、にっこり笑った。

「じゃあ、スカジャン買いに戻る前に、まずは爆弾探しますか」

ホリーは無言で睨んだ。


──残り時間、10分。

「リリー、爆弾、抱えて運ぶよ!」

ディオンはホリーの指示を待たず、すでに動き始めていた。二人が突入したB棟3階のフロア、封鎖された空間の奥で発見した爆弾は、金属製のスーツケースに収納された高性能炸薬。視認できるだけでも五重の起爆回路が組まれており、外殻には簡易遠隔受信モジュール、内部には加速度センサと湿度反応層。

ホリーは即座にタイマー表示を外部接続に切り替え、ディオンが視認できる位置にコードを変更する。

「冷却タンクは地下の旧医療棟。そこまで走るわよ」

「了解、リリー!」

ディオンはスーツケースを両腕で抱えると、そのまま非常階段へと突進した。25kg超の重量を物ともせず、踵から着地する足音が反響する。

「エスカレーターは封鎖。階段でB2を経由して保守区画を目指す。ルートは私が先導する!」

ホリーが叫び、先行するディオンの背中を追いかける。ヒールの底が金属階段を滑りかけるが、構わず飛び移った。

──そのとき、別棟の方角で鈍い破裂音。

「第二波か……!」

「起爆連鎖、残ってるのね!」

ガラスの破片が吹き上がり、吹き抜けの空間に白煙が広がる。警報が鳴り響き、館内放送が避難指示を繰り返す。

階段の途中、逃げ遅れた客数名と鉢合わせる。

「す、すみません!足を──」「いいから座ってて!」

ディオンが片手で爆弾を抱えたまま、もう片手で客を片端から壁側へ押しやる。ホリーが後ろから担ぎ上げるように補助。

「リリー、こっち!」

「わかってるわ、喋らなくていいから集中して!」

B1階層に到達、保守用ドアの前でホリーがICカードを操作。ディオンは歯を食いしばり、爆弾を腹に固定して滑り込む。

扉の向こう、冷却室には銀色の大型タンクが並んでいた。壁面のラベルには『LIQUID HELIUM』──液体ヘリウム。

「リリー、これ『HE』って書いてある。これ、戦車ぶっ壊すやつ?」

「違うわよ、バカ。Helium。ガス。爆薬じゃなくて冷却剤!」

「……あ、そっちのHEか」

「あとこの会話二回目よ」

ホリーが呆れながらも制御装置を操作。安全弁を外し、上部蓋を開ける。

「吸い込んだら高音域で喋れなくなるから、息止めなさいよ!」

「うおっ、やべっ、声が……変になりそ……っ!」

白煙が噴き出す中、ディオンがスーツケースを慎重に抱えて持ち上げる。

「沈めるよ!」

爆弾を液体ヘリウムの海に投下──

──シュウウウウウ……ッ!!!

爆薬の金属外殻が一瞬で凍結、タイマーは0:07の時点で停止。

「やった……間に合ったわ」

ホリーは息を吐き、ディオンの肩を軽く叩く。

「さすが、元・戦車級突撃兵器」

「さっきまで“HE”って信じてたからね……まさか冷却用とは」

銀色の霧が漂う中、二人は無言でうなずき合った。

タンク内で凍結した爆弾の処理が終わり、施設全体の警報も次第に落ち着きを見せていた。避難誘導された一般客がロビーに集められ、ざわつきながらも徐々に秩序を取り戻しつつある。

ホリーは冷却チャンバーから離れ、隣接する旧モニタールームに入った。古びたターミナルが並ぶ中、バックアップ用の記録装置を見つけ出す。

「やっぱり……」

操作ログは残っていた。直近30分以内にセキュリティルームから映像の書き換えが行われた痕跡。

「映像記録を“上書き”……いや、これは“加工”されてる。映像そのものに手を入れてるわ」

「つまり、誰かがこの爆弾を設置する瞬間を消そうとした?」

ディオンが室内に入ってきて尋ねた。

「違う。犯人は、最初から映像が使われることを想定してた。映り込んだ“余計な情報”を消すためにね」

「余計な情報……例えば?」

ホリーはスクリーンの一つに録画データを再生する。時刻は爆弾設置の前日。画面には作業員風の人物が荷物を運び込む姿──そして、その後ろを通り過ぎる別の人物の背中。

「……この後ろ姿、あんた気づいた?」

「……これって」

「間違いないわ。先週“退職した”ってことになってた、ここの副施設長」

ホリーは指でタッチパネルを操作し、映像の一部を止めて拡大する。画面の右隅に一瞬だけ映るIDカード。

「“上層部の許可で退職”したはずの人間が、鍵付きの設備エリアに勝手に出入りしてる。これは記録改ざんと構造的な隠蔽。間違いなく内部犯行」

「ってことは、この副施設長が──」

「主犯ではないわ。こんな手際のいい“改ざん”が単独犯で出来るはずがない。組織だ。組織の後ろにいる誰かが、彼を使ったのよ」

ホリーの口調は淡々としていたが、視線には火が灯っていた。

「それを探るには、まず“どの情報を隠したがってるか”を見ないと」

再びホリーが再生を始める。IDカードが映った直後、画面が一瞬だけ砂嵐に切り替わる。

「これ、ノイズじゃない。手動で挿入された“映像切り替えトリガー”。つまり、この一瞬だけは“誰かが見られたくなかった”時間」

ディオンが、そっとホリーの横に立つ。

「映ってたのは?」

「“処理用タブレット”を持った人物。市販のものじゃない、政府機関か軍の専用機器。それが映ってる」

ホリーは静かに言う。

「つまりこの事件、軍の関係者、もしくは“それ以上”が関わってる可能性が高いってこと」

部屋に一瞬、静寂が訪れる。

「……リリー、これって」

「ええ。これ以上は私たちの範疇じゃない。捜査の継続には国際的な組織、たとえば合同タスクフォースの許可が必要になる」

「じゃあ、ここで捜査は……?」

「中断させる」

ホリーは短く言い切った。

「情報はすでに私の記録に残した。誰かが口を出せないように、ロンドンの外に“託した”わ」

「さすが」

ディオンが、肩の力を抜いて笑う。

「でも、私は納得してない。次があるなら……ちゃんと踏み込むわ」

「期待してる」

ふたりは施設を後にする。白く霞んだ空の下、ロンドンの風がコートの裾を揺らしていた。


人の家のコンセントは、通常、勝手に使うものではない。 ましてや壁一面を覆うほどのコンセントがあるならば、それはもう“共有”ではなく、明確な意思表示だ。侵入、あるいは利用を拒む、何かの。──それを見てなお躊躇なく踏み込める者だけが、この国で探偵を名乗れる。

ロンドン北部、整備の行き届いていない古い団地。 四階建ての最上階、角部屋にて発生した火災は、建物全体に強い焦げの臭いを残していた。現場に残されたのは焼死した一名の男性──そして、異常な数のコンセントだった。

ホリー・ムーア探偵事務所が動いたのは、地元警察の動きが鈍かったからだ。 捜査本部は立たず、報告は単純な事故死か自殺として処理されつつある。だが彼女は、そのどちらでもないと確信していた。

「法的管轄が曖昧? いつものことね」 「あと人員不足も理由みたいです」

黒のスーツに身を包んだディオンが、慣れた様子でホリーの隣を歩く。 シャツの第一ボタンはきっちりと留められ、髪は寝癖一つなく整っていた。彼にとって“場に適した装い”とは、ホリーが選んだものそのままだ。

現場前にはテープも車両もなく、警官の姿もない。ただ、建物の前に立っていたのは──

「ご足労おかけします。私、この建物の管理人兼大家です」

笑顔を崩さない中年男性。 軽い挨拶と共に、手には自作の鍵の束とスニーカー。妙に場慣れしている態度だった。

「部屋は開けてあります。焼けてますが、通れるくらいには片付けました。ご協力できることがあれば」

「ありがとうございます。とても助かります」

ホリーは自然に笑い、軽く頭を下げる。声には一切の疑念も硬さもなかった。 ディオンも続いて一礼。外見上は、ごく普通の礼儀正しい客人として振る舞っている。

だがホリーの脳裏には、入室前から情報の整理が始まっていた。

(通れるように片付けた、という言い方。自分が現場を荒らしたことを先に封じようとしたか、あるいは他の誰かに入られた痕跡を消したかったか)

彼女はそうした“判断”を言葉にも態度にも出さない。ただ、一つ一つを積み上げるだけだ。

古びた鉄製の階段を上がる途中、ディオンがふと立ち止まった。

「これ、壁……何か変ですね」

配線が不自然に露出し、同じ階層だけ異常な数の電力設備が集中している。 カバーを外された電線、仮設工事のような配管、それらが壁の内部から無理やり引き出されている。

「偶然じゃないわね。意図的な集中配線。しかも古い設備を生かしてる……最初からこうだったとは思えないわ」

ホリーの視線は配線から天井、床、部屋全体の歪みへと移る。 彼女は内心で問う。

(何を動かしていた? 何のために? これだけの電力を使って──)

四階の突き当たり、現場の扉に到着。 チャイムもなく、扉はほんの少しだけ開いていた。

中に足を踏み入れると、鼻をつく焦げ臭さ。 壁一面に焼け焦げたコンセントが並び、黒く炭化した床材がかろうじて“そこに誰かがいた”ことを物語っていた。

だが、ホリーが注目したのは死体の形ではない。 焦げ跡の範囲と、焼け具合の不自然さだった。

部分的に強く燃えている箇所がいくつもあり、それらはすべて配線の集約点に重なっていた。

彼女はひとつ、壁際のスイッチカバーを外してみる。

──焦げていない。

中の配線が熱を帯びておらず、出火元は別であることを示していた。

「ディオン、これだけの設備……誰が何のために?」 「発電機? いや、でも外部電源は来てなかったはず……」

「誰かが、ここで“何か”を生産していたわ」

ホリーは部屋の奥、バスルームへと歩を進める。 そこもまた異様な数の延長コードが配され、湿気対策の跡が残っていた。

(水と光と電気。そして密閉された空間……)

彼女の中で、仮説が形を取り始める。

「自殺でも事故でもない。──この部屋の“都合”による死よ」

そして、その“都合”を作った人物。 協力的な笑顔を見せるあの大家こそが、今もっとも“自分に近づかせたくない人物”であるということを、彼女は微笑みながら確信していた。


焼死事件の現場はマンションの一室。 だが、外から見た限りでは火災の形跡がまるでなかった。 ベランダには煤の痕もなく、壁も焦げていない。だが、部屋の中は確かに焼けていた。焦げ臭さが廊下まで漏れ出している。

ホリーは扉の前で足を止め、まっすぐにドアノブへ手を伸ばすことなく、視線を横にずらした。

「……妙ね」

扉の右隣、壁の端に小さく設置された配電盤。さらにそのすぐ上にある、マンションにしては異常な数の分岐回線ラベル。

ディオンもそれに気づき、首を傾げる。

「コンセント、多すぎません?」

「ええ。一般家庭用じゃない。恐らくは増設されていた……合法かどうかはともかくとして」

ホリーは穏やかな声のまま、視線を天井へ。 配線が不自然に湾曲し、天井裏に向かって這うように引き込まれている。

「天井裏に分配されてる……この部屋だけじゃないわ。少なくとも、上下か左右。複数の部屋と連動してる可能性が高い」

「この部屋の隣室、調べます?」

「駄目よ。まだ警察の許可がない」

ホリーはそう言いつつも、手元のデバイスで隣室の住民記録を確認し始めた。 名前、年齢、職業。出入り記録。どれも表向きは何の変哲もない。

だが、火災のあった部屋の住人と、隣室の住人は“恋人関係”にあったという話が、通報者の供述に残されていた。

「この建物、内装がやけに簡素化されてる。配線工事のしやすさが最優先にされてるみたい」

ディオンが室内の壁に指を当て、軽く叩いた。コンコン、と鈍い音が返る。

「中、空洞です」

「やっぱり……」

ホリーは軽く頷いた。

「通報者が“焦げた匂いに気づいたのが二時間後”という証言をした割に、警察の初動が遅かったのもおかしいのよね」

「中に入ってすらいないって言ってましたよね」

「ええ。理由は“現場を壊したくない”と。でもそれなら、せめて隣室から確認すべきだった…けど良い判断、犯人が尻尾を出す準備をしているわ」

ホリーの声には、相手を責める色はまったくなかった。ただ、事実として指摘するだけ。 その態度に、ディオンはやや不思議そうな顔を見せたが、何も言わなかった。

ホリーは隣室のベランダに目をやった。わずかに埃をかぶった手すり。開閉の痕跡がないサッシ。

──ここから入れた、形跡はない。

「この部屋からの火災……放火じゃない。あれは事故に近いわ」

「じゃあ、やっぱり……」

「原因を作ったのは別にいる。ただ、実行者は被害者だった。少なくとも、私はそう見るわ」

ホリーはそこまで言い切ると、ふと表情を和らげた。

「ちょっと、大家さんに挨拶してくるわ。情報が欲しいの」

そう言って歩き出す彼女の背を、ディオンは静かに見送った。 その視線には、わずかな警戒と、妙な安心が同居していた。

ホリーは再び現場の部屋に戻った。 焦げた空間は既に封鎖されていたが、彼女の立ち入りは特別に許可されていた。 床に散乱したコンセントの残骸。壁際には、熔けた電気コードが黒く固まっている。

彼女はしゃがみ込み、壁際に取り付けられていた配線の一部を指先で軽くなぞった。

「……こっちの配線は、もともと屋外電源に繋がってた形跡があるわ」

ディオンが入り口で待機していたが、ホリーの声に反応して近づいてくる。

「どういうことですか?」

「この部屋の電源、途中から“別ルート”で引き込まれてる。合法的な供給じゃない。おそらく……別の部屋に、供給の基点がある」

ディオンの顔が引き締まる。

「それって……」

「ええ。事故じゃない。これは、意図的に“火災になるように組まれていた”電気配線よ」

ホリーは立ち上がり、スカートの裾を軽く払った。

「だけど肝心なのは、誰が“電気を供給したか”じゃない。 “誰がその構造を知っていたか”。そこに事件の意図が現れる」

ディオンはうなずきながら、天井を見上げた。

「つまり、これ……ただの薬物栽培じゃなくて、情報工作の一部かもしれないってことですか」

「可能性はある。薬物スキームに使われていたのは確かだけど、火災が“自然発生”に見えるように仕組まれていたのも事実」

ホリーの目が鋭くなる。

「そして、そのシステムの全体像を知っていたのは……おそらく、あの大家だけ」

「大家……制圧します?」

ホリーはわずかに微笑んだ。

「ええ、お願い」

ディオンは何も言わず踵を返し、管理人室へと向かって駆けていった。

その動きに音はなかった。廊下の角を曲がる姿は、まるで壁に吸い込まれた影のようだ。管理人室のドアノブに手をかけ、鍵がかかっていないことを確認すると、躊躇なく内側へ滑り込む。

「なっ……誰だ!?」

デスクの奥にいた大家が、監視モニターから目を離して椅子を蹴立てる。恐怖に引きつった顔で、手近にあった金属製のクリップボードを掴み、盾のように構えた。

「出ていけ!警察を呼ぶぞ!」

虚勢を張る大家に対し、ディオンは答えなかった。ただ、ゆっくりと一歩、踏み出す。その一歩で、二人の間の距離がまるで無くなったかのように感じられた。大家が何かを叫ぶより早く、ディオンの姿がわずかに沈む。

次の瞬間、床を蹴る音もなく、ディオンは大家の懐にいた。振り下ろされようとしたクリップボードを持つ腕が、下から伸びた指先によって肘の内側を軽く弾かれる。それだけで大家の腕はありえない方向に曲がり、力が抜けてクリップボードが床に落ちた。

「ぐっ……ぁ……!」

痛みに顔を歪める大家の首筋に、ディオンのもう片方の手が寸止めで添えられる。冷たい指先の感触に、大家の全身が凍りついた。

「眠っていてもらいます」

囁くような声と同時に、首の後ろに軽い衝撃。それだけだった。大家は白目をむき、崩れ落ちる。ディオンはその体を冷静に支え、床にそっと横たえた。息ひとつ乱れていない。

物理的な障害の排除。それは彼にとって、呼吸をするのと同じくらい自然な行為だった。

ディオンが音もなく室内へ戻ってくる。その表情からは何も読み取れない。

「終わったわね」 「はい。少し抵抗されましたが、今は眠っています」 「何か言ってた?」 「『警察を呼ぶ』と」

ホリーは配線をなぞっていた指をぴたりと止めた。彼女は何も言わなかったが、その一瞬の沈黙が、ディオンには妙に重く感じられた。大家のその一言が、彼女の中で別の何かと結びついたことだけは確かだった。

ホリーは残された室内で、焦げた配線をもう一度確認しながら、静かに呟いた。

「放火に見せかけた事故、事故に見せかけた自殺、自殺に見せかけた殺人……そのどれでもない。“これは、意図の連鎖”。だとすれば……まだ終わってない」


ホリーは、管理人室前のロビーに立ち尽くしていた。 ディオンが既に制圧を終えたらしく、大家は床に倒れて動かない。気絶しているだけのようだった。

「無理に手荒な真似をしたわけじゃないわ。あなたが必要以上に逃げようとしただけ」

ホリーはそう呟きながら、手に持った端末を操作し、現場の電源回路の記録を並べた。

「これがあなたの罪よ。コンセントの数。それ自体が“意図的に設計された異常”だと、あなたは最初から分かっていた」

床に転がる大家を見下ろしながら、ホリーの指先は微かに震えていた。 怒りではなく、確信の震え。

「この建物の電力設計は、住人が自ら改造できるような構造じゃない。あなたが最初から“供給者”で、管理者だった。その立場を悪用して、薬物の栽培施設を入居者に貸し出していた」

ホリーは冷たい視線をそのまま床に投げかける。

「そして、それを知って止めようとした男を事故に見せかけて焼き殺した。証拠は現場に山ほど残ってる」

ディオンがゆっくりと戻ってきて、ホリーの隣に立った。

「取り押さえ完了。大丈夫、起きたらすぐ自供するくらい優しい感じにしてある」

「そう、ありがとう」

ホリーは一歩前に出ると、監視カメラの死角を避けるようにして警察に連絡を取った。 が、その手を止めて彼女は言った。

「でも、まだ足りないわ。大家が設備を貸しただけなら、ただの利己的な加担者。今回の被害者を“狙って殺した”理由が、別にある」

ディオンは首を傾げる。

「殺意の動機……ですか?」

ホリーはディオンの顔を見ず、ただ静かに言葉を継いだ。

「この火災は、偶然にしては出来過ぎてる。事故死に偽装するための仕込みがあまりにも多すぎるのよ」

彼女は再び部屋を見回しながら言った。

「そして、被害者が自分の妹を救おうと薬物生産に手を出した。その事実を知った人物が、彼女を苦しめた犯人をかばう為に、彼を排除しようとした……なら」

そのとき、遠くで警察車両のサイレンが聞こえた。時間切れだった。

「私たちに残された時間は、あと少し」

ホリーは管理人室の扉を開き、中にある書類棚を迷いなく開けると、裏に設置された簡易冷蔵庫を開いた。 中には、あるはずのない書類と、異常な数の監視用SDカードが収められていた。

「……出揃ったわね」

建物裏の廊下。ディオンは血走った目で階段を駆け下り、ホリーと合流した。

「いた!あの人、さっき……!」

通報を受けて駆けつけた警官たちの間をすり抜け、ひとりの青年が建物の影に逃げ込もうとしていた。 黒いフードの下、顔にはひどく動揺した表情。

「間違いない。被害者の妹の兄……つまり、例の爆弾犯ね」

ホリーは追いかけようとするディオンを制止した。

「待って。あれは“逃げようとしてる”んじゃない。……“何かを終わらせようとしてる”顔よ」

ホリーは手にしていた携帯端末で、建物の電力系統と監視カメラのログを確認する。

「……まだ爆発物がある。彼は、それを“処理”するために戻ってきた可能性があるわ」

ディオンの顔が強張る。

「自分で、ですか? この期に及んで?」

「それが“責任”の取り方だと思ってるなら、なおさら止めないと」

ふたりは静かに裏手の搬入口へと走る。 そこには、簡易な保守点検用の扉があり、開け放たれた先に保冷設備のある空間があった。

──液体ヘリウム。

ホリーが目を凝らすと、扉の奥にジェリ缶ほどのサイズのタンクが見える。

「……あった。予備の冷却材。あれなら使える」

爆弾は、すでに制御盤に取り付けられ、赤いLEDが点滅していた。 男はそれを見つめたまま震えていた。

「どうして……俺は……」

ホリーはゆっくりと彼に近づいた。

「爆弾の起動条件には“再起動コード”が含まれてる。あなた、まだ止められるわ」

男は目を見開く。 「妹を……救えなかった。彼女を苦しめたのは……全部俺なんだ」

「違うわ」

ホリーはゆっくりと手を伸ばし、彼の持っていたリモコンを静かに受け取った。

「妹を救おうとした。薬が必要だった、でもあなたにはその手段がなかった。だから、自分の手で作ろうとした。それは“罪”じゃない。“無力だった社会”の責任」

ディオンがその隙に素早く動き、背後から男を抱き止めて動きを封じる。

「安全確保。爆弾、今なら運べます」

ホリーは頷き、タンクを開けると中の冷却材が白い煙を吐き出した。

「入れるわよ」

ディオンは爆弾を手に持ち、冷却タンクの中にそっと沈める。 数秒後、パチパチと音を立てながら表面が凍り、LEDの点滅が停止した。

「……停止、確認」

ホリーは男に目を向けた。

「あなたの行動は、妹を救いたかったという一点に尽きるわ。だとすれば、今やるべきは──生きて償うことよ」

男は何も答えなかった。ただ、静かに肩を落とし、ディオンの腕の中で目を閉じた。

ホリーは証拠のSDカードをポケットに収めると、床に転がったままの大家に冷たい視線を向けた。

「ディオン」

「はい」

呼ばれたディオンは、大家と爆弾魔のそばに屈み、首筋の脈を軽く確認する。

「意識が戻りかけています」

「そう。なら、ちょうどいいわ」

ホリーはハンドバッグから黒いスティック状の物体――高圧スタンガンを取り出した。

「この事件は、おそらく組織的な犯行よ。警察の誰に筒抜けかも分からない。だから、彼には少しの間、確実に黙っていてもらう必要があるわ」

その言葉は、警察外への漏洩を少しでも多く減らし、事件をここで終わらせないという彼女の強い意志を示していた。ディオンは無言でスタンガンを受け取ると、ためらうことなく大家の脇腹にそれを押し当てた。バチッ、という耳障りな放電音と共に大家の体が一度だけ大きく跳ね、完全に沈黙する。

ディオンは続けて、用意していた手錠でその両手を背中で拘束した。

やがて到着した警官隊に、ホリーは冷静な口調で告げた。

「後は任せたけど、階級が一定以下の場合開示禁止。調査機関の執行によって決定されたわ」

沈黙し、事件は終わる。 事件は一人の大家による凶行として、表向きの幕を閉じていく。だが彼女は知っていた。これは終わりではなく、始まりに過ぎないということを。

「今日は逮捕されませんでしたね」

「今回は漏洩したらまずいからね、常連みたいに言うのはやめなさい」

事件の後処理を終え、探偵事務所に戻ったのは深夜を過ぎてからだった。 ホリーはソファに深く身を沈め、張り詰めていた緊張を解きほぐすように長いため息をつく。

そこへ、カチャリとドアが開く音がした。 「お疲れ様です、リリー」 ディオンが音もなく入ってくる。その背中に、銀色に鈍く輝く巨大な金属タンクが背負われていること以外は、いつも通りだった。

ホリーは眉ひとつ動かさず、平静を装って尋ねた。 「……ディオン。説明なさい」

「はい。例の液体ヘリウムタンクです。証拠品として警察に押収される前に、一本確保しておきました。何かの役に立つかと」

悪びれもなくそう言うと、ディオンはよろよろとタンクを事務所のキッチンへ運ぼうとする。

「どこへ持っていくつもり?」 「中身を処理しようかと。シンクに流せば……」

「それ捨ててきなさい!」

ホリーの金切り声が、静かな事務所に響き渡った。

「水道に捨てるな! 気化して部屋中が酸欠になるわ!というかそもそも何で持ってきたのよ! 家の外にでも置いときなさい、今すぐ!」

ディオンは子犬のようにしょんぼりと肩を落とし、「……はい」とだけ言うと、重たいタンクを再び背負ってとぼとぼと外へ出ていった。

一人になった事務所で、ホリーは額に手を当てて天を仰ぐ。 (本当に、脳筋にもほどがあるわ……) 呆れた独り言とは裏腹に、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。



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