祈りと応え―語り継がれる神話―:第一章
こんにちは。読みに来てくださってありがとうございます。
このお話は、僕が長く描いてきた世界の「根っこ」にあたる神話です。
日常も理もまだ定かでない、そんな世界に“初めての祈り”が生まれ、それに“応えた何か”が現れる──そんな、始まりの物語。
正直に言うと、すごく地味かもしれません。
でも、祈りって、そういうものだと思っています。派手な奇跡じゃなくて、名前もない誰かの「もうやめてください」が、何かを動かす。
そんな瞬間を、丁寧に刻めたらと思って書きました。
では、どうぞ神話の夜明けへ。
天地の理すら定まらぬ黎明の刻。
昼と夜は溶け合い、東西の境は霞み、
星は空に居場所を知らず、潮は天空へ還ろうとしていた。
燃えぬ水の中で火は揺らぎ、
逆巻く風は誰のものとも知れぬ声を空へと響かせていた。
世界はまだ形を成さず、
まるで夢幻の泡沫の如く、掴みどころなく揺れていた。
それでも、塵常界には人々の暮らしがあった。
誰に教わるでもなく、土を耕し、火を分け合い、水を汲み、言葉を紡ぎ、
闇を裂くように灯した小さな焔を囲みながら、命を繋いでいた。
しかしその世界には、理を嘲笑うものが潜んでいた。
夙罹。
名も姿も定かでない、かたち無き異。
理のほころびよりにじみ出し、音も意思もなく、ただ“在る”だけの存在。
燃える影は、夜道に立つ幼子を呑み込み、
風は耳元で亡き者の名を囁き続け、
笑う石は、眠る者の胸を裂いた。
ある村では、朝が来るたびに一つの家が、音も痕跡も残さず消えていた。
人々は祈った。
けれど、その祈りは名を持たず、言葉にならず、術にもならなかった。
雨を拒む屋根の下で腐った穀物を見つめ、ただ目を閉じていた。
それが祈りだと、彼ら自身も知らぬままに。
──ある夜のことだった。
夜が三日も戻らず、村の川が逆さに流れた晩。
泣き止まぬ子を抱え、やつれ果てた母が、空を仰いだ。
星の位置は乱れ、空は黒でも青でもなく、ただ渦巻いていた。
それでも彼女は、震える唇で絞り出すように呟いた。
「……もう、やめてください」
それは術でも祝詞でもなかった。
ただ、自分よりも小さな命を守りたいと願った、ひとつの声だった。
剣は砕け、盾は塵となり、祈りは空虚に消えた――ように思えた。
しかし、その一声は空の奥底で、確かに震えを生んだ。
──そして、空は裂けた。
星は止まり、風は凪ぎ、鳥も虫も声を忘れた。
世界は、深く、深く沈黙した。
誰も気づかなかった。
その静寂の底で、ひとつの影が、ゆっくりと膝をついたことを。
その影は、人の姿を借りていながらも、常世の彼方より訪れた者のそれであり、
その存在自体が、世界の理を超えていた。
それは嘉印。
後世の人々はこう呼ぶが、その時点では性も名も定かではない。
だが、その者が歩んだ痕だけは、確かに大地に深く刻まれていた。
その歩みが地を震わせるたびに、木々は息を止め、水は揺らめきをやめ、
大地はその重みを噛みしめた。
それは、世界が彼を「客」として迎え入れた証であり、
世界が初めて“祈り”に応えた印だった。
この夜のことを、人々はまだ知らない。
だが、いつか語られるだろう。
あの夜、混沌に現れた名も知らぬ存在を──
そして、こう呼ばれるだろう。
黎初の英雄と。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
“神話”って、ただ昔話を語るためのものじゃないと、僕は思っています。
それはむしろ、「今を生きている僕たちが、どこから来たのか」を確かめるための言葉。
この物語に出てきた“英雄”も“嘉印”も、まだまだ何者でもありません。
それでも、世界が静かに応え始めた──というだけで、僕には十分すぎる始まりでした。
これからも少しずつ、神話というかたちで、この世界の記憶を綴っていけたらと思います。
では、また次の章で。