第八話:神の揺りかご、無垢なる魂の目覚め
「亜」との激戦の末、ルナ・サクヤの意識の深奥に隔離しておいた、純粋な「光」。
それは、膨大な「亜」の混沌たるエネルギーの奥底に、凍り付くように閉じ込められていた、無垢な魂の残滓だった。幼い魂が――リリアン星で犠牲となった幼子、アリアの存在。
ルナ・サクヤは、天の川銀河の秩序を再構築する作業の合間、その微かな「光」に意識を向けた。それは、地球で守りたいと願った子供たちの笑顔と、どこか重なるような、甘く、そして哀しい響きを帯びていた。彼女の心が、その光を「放っておけない」と告げていた。
(……私の『神域』に取り込んでおいた光.......放っておくと、いつかまた、変な『歪み』に取り込まれてしまうかもしれない。物凄く傷ついてはいるけど、あんな物の中にあっても光を失わずに居たのですもの。きっと元の姿を取り戻してくれるはず。)
ルナ・サクヤは、傷だらけの、ほとんど壊れて消えかかっていた魂の光を、自身の最も温かい部分で包み込んだ。ルナティック・フォースの奔流が、優しく、しかし確実にその「光」へと注がれる。それは、破壊と再生の神たる彼女にとって、最も得意とする「治療」だった。
傷付きボロボロになっていた魂の欠片が、ゆっくりと、しかし確実に癒されていく。清らかな光へと戻っていく。そのプロセスは、とても時間が掛かる物だったが、ルナ・サクヤは根気強く、魂の治癒を行た。
そして今、光は安定し、一つの明確な輪郭を帯び始めた。
『……うん。目覚そうね。どうかしら、気分は?』
ルナ・サクヤの意志が、直接その魂の光へと語りかける。
すると、光は微かに揺らぎ、まるで薄いヴェールが剥がれるように、その内側から、その存在がゆっくりと、しかし確かに、外界へと意識を向け始めたのが判った。反応があったことを確認したルナ・サクヤは、己の身の内から、その光を外界へと導き出した。ゆらゆらと宙を漂い、神域空間を、おそるおそる見回しているかのようだった。その光の揺らぎが、ルナ・サクヤに安堵と、そして期待を呼び起こす。
『……ん〜、ここ、あったかい……。』
微かな、しかし澄んだ声が、ルナ・サクヤの意識に直接響いた。
光の塊は、ルナ・サクヤの存在を感知すると、ゆらり、ゆらり、と、まるで親を求める幼子のように、彼女の元へと漂い寄ってきた。そして、ルナ・サクヤに、そっと寄り添った。
『……暗くて……。とても寒くて……。とても、とても...怖かった………ああ、お願い。どうか、このまま……。』
その声は、静かで、しかし魂の奥底から絞り出すような、切実な響きを持っていた。光は、ルナ・サクヤに対して、揺るぎない信頼を宿していた。
ルナ・サクヤは、その光の塊を、そっと抱きしめた。ルナティック・フォースが、さらに優しく、光の魂に注がれる。
(……まだ、きちんとした身体を与えるのは早いわね。まずは、この子に何らかの「器」を与えて、ゆっくりとリハビリさせるべきかな。……そうだわ)
ルナ・サクヤは、神域の片隅に、お気に入りの、手触りの良い大きなクマのぬいぐるみに目を留めた。それは、地球で朔が幼い頃に大切にしていたもので、彼女が神域を再構築した際、無意識のうちに記憶の残滓から生み出していたものだ。
『……シロ! 彼女の魂の器として、あのクマのぬいぐるみを再構築。魂の定着率を最優先に。』
『了解しました、ルナ・サクヤ。対象:クマのぬいぐるみへの魂の定着プロトコルを起動します。』
シロの言葉と共に、クマのぬいぐるみが淡い光に包まれたかと思うと、次の瞬間、その大きな、ふわふわとの体が、微かに震えた。
『……んぅ……? なに……?』
クマのぬいぐるみから、アリアの静かな声が響いた。光の塊だったアリアの魂が、ぬいぐるみの中に、定着していくのが、ルナ・サクヤの意識にも伝わってくる。
ルナ・サクヤは、そのクマのぬいぐるみを、そっと両腕に抱き上げた。ふわりとした柔らかな感触。その愛らしいくまさんが、ルナの胸にそっと押し当てられる。
『……ん♪ お姉さま、どうかこのままで。』
ぬいぐるみから、アリアの静かな声が響いた。その声には、以前の苦痛の影はなく、純粋な安堵と、そして、まるで子猫が甘えるかのような、微かな幸福感が滲んでいる。
ルナ・サクヤは、そのぬいぐるみを、まるで本当の幼子を抱くかのように、ぎゅーっと抱きしめた。こんなに強く誰かを抱きしめるのは、いつぶりだろうか。心の奥で、温かい感情がじんわりと広がっていくのが判る。
(……。この子は、とても優しく、純粋な子だった...みたいね)
その日から、ルナ・サクヤの神域に、新たな「同居人」が加わった。
アリアは、クマのぬいぐるみとして、ルナ・サクヤの傍らにいつも居るようになった。ルナが宇宙の法則を調整していれば、その隣で静かにもたれ掛かり、澄んだ瞳でホログラムを見つめる。地球の「ファンタジーゾーン」の設計をしていれば、その膝の上に乗ってきて、ホログラムに愛らしいクマの顔を近づけて、瞳を輝かせる。
そして、ルナ・サクヤが、ふと休憩のためにコーヒーを飲んだり、思案したりしていると、そのふわふわの体をルナの腕にすり寄せてくる。ルナが気づくと、アリアは愛らしいクマの顔で、じっとルナを見つめ返した。
ルナ・サクヤは、そんなアリアの行動に、最初は少し戸惑いを見せた。しかし、アリアの好意に触れるたび、彼女の心が、少しずつ、ほぐれていくのを感じた。
(……まったく、この子は……)
そう思いながらも、ルナ・サクヤは、自然とアリアを抱きしめたり、頭を優しく撫でたりすることが増えていった。夜には、ベッドでクマのぬいぐるみを抱きしめて、「おやすみ、アリア」と呟くことも、いつしか日課となっていた。
ある日の午後。
『お姉さま……それで……成立するのですね……。』
クマのぬいぐるみから、アリアの静かな声が響く。彼女は、こうしてルナ・サクヤの作業を静かに見守り、時折、そういったことを話し始めた。その声は、知的な好奇心に満ちているが、抑揚は少なく、どこか遠い場所を眺めているかのようだった。
『……お姉さま……ありがとう……いつも護っていただけてとても...嬉しいのです。……。なぜ……ですか……?』
アリアの問いかけに、ルナ・サクヤは、一瞬だけ言葉を詰まらせる。
(……なぜ、って……そんなこと、私に聞かれても……)
ルナ・サクヤは、内心で戸惑いつつも、アリアの質問に、どこか居心地の悪さを感じていた。
そうして数週間が過ぎた。アリアの魂は完全に癒やされ、その「器」であるクマのぬいぐるみの中で、その光は安定し、輝きを増していた。そして、彼女の心の中に、ルナ・サクヤへの感謝と、もっとお姉さまの役に立ちたいという、とても強い願いが芽生え始めていた。
『お姉さま……。このまま……護られるだけの...お役に立てないままでいるのは……嫌です……。』
クマのぬいぐるみのアリアが腕の中で、そっと呟いた。その小さな体は、ルナの腕に抱かれたまま、微かに震えていて、強い決意を感じられた。
ルナ・サクヤは、その願いを真っ直ぐに受け止めた。
(……そうね。この子には、自分の意志で、自由に、この宇宙で生きてほしい。そして、この宇宙の美しさや、人々の営みを感じてほしい。そのためには、きちんとした身体が必要だわ。小野寺さくのように、でも、私とは異なる個性を持った、女の子として……)
彼女は、その決意を固めた。
『……シロ! 彼女に、彼女の為の身体を創造します。設計を開始します。高次元物質再構築プロトコル、起動。』
『了解しました、ルナ・サクヤ。形状の指定は?』
『……そうね。とりあえず、地球の学園生活にでも馴染めるような、ごく普通の、可愛らしい少女の姿で。もちろん、私が作るのだから、最高傑作よ。小野寺さくは私の分身だから、苦労はしなかったけれど、この子のは、完全にゼロからの創造になるから、きっと大変よ。』
ルナ・サクヤは、創造の喜びに、少しだけ表情を綻ばせた。
肉体創造のプロセスが始まった。ルナ・サクヤは、まずアリアの「頭部」から創造を開始した。
『……シロ。頭部から準備してあげるからね。早く話したり、見たりさせてあげたいから。目や耳、口の機能を最優先で構築しますね。』
ルナ・サクヤの指示に従い、高次元エネルギーが凝縮され、精緻な構造を持つ少女の頭部が、光の粒子から生成されていく。
完成した頭部には、漆黒の夜空を映したような瞳と、月明かりを浴びたかのような銀色の髪が輝いていた。顔立ちは、彼女がかつて「可愛い」と称した、小野寺さくの顔立ちをベースに、彼女自身の「美」の概念が最大限に盛り込まれていた。それは、見る者を惹きつける、神々しいほど美しい美少女の顔だった。
『……お姉さま……! 私、見えます……。そして……聞こえます……。』
頭部だけになったアリアは、その美しい顔で、目をゆっくりと瞬かせながら、驚きと感動を表現した。彼女の瞳は、神域の光景を、深く、そして静かに見つめている。
『……この宇宙の法則……リリアン星で観測された……多次元宇宙理論の……応用と……確かに……整合性が……。』
彼女は、自らに押し込められた知識の残渣を、記憶とは切り離された純粋な情報として、静かに紡ぎ始めた。その声は、知的な好奇心に満ちているが、抑揚は少なく、どこか遠い場所を眺めているかのようだった。
(……頭から作りはじめたけど、良かったかなぁ……。静かな子だと思ったけど、何やら語りだしたわね、この子……)
ルナ・サクヤは、早くも頭を抱えたが、すでに後戻りはできない。彼女は、残りの身体の創造を、猛烈な速度で進めていった。
やがて、完全に完成した少女の肉体が、ルナ・サクヤの目の前に現れた。銀色の髪が背中まで流れ、透き通るような肌は仄かな光を放つ。その美しさは、まさしく女神が舞い降りたかのようだった。
ルナ・サクヤは、自らが創り出した完璧な「傑作」を眺め、満足げに腕を組み、傍らに生み出したカップに温かいコーヒーを注ぎ、優雅に一口飲んだ。
「ふ。私の技術はすごいわね。(零から作ったのは初めてだったけど、良い出来だわ)」
と、悦に浸る彼女の背後で、完成したばかりのアリアは、まだ薄いシャツとスリッパを履いた状態で、体をあちこち動かし、その機能を確かめていた。その動きは、しなやかで、まるで踊るかのようだった。
『……お姉さま……! 私、動けますわ……! この感覚……大地に足が触れる……。風が……髪を撫でる……。なんて……なんて……もう、無理だとあきらめていたのに……。』
アリアは、その全てを噛み締めるかのように、ゆっくりと、しかし感動に満ちた声で呟いた。その瞳は、周囲の神域の風景を、慈しむように見つめている。
そして、その瞳が、ルナ・サクヤの姿を捉えた瞬間。
『……お姉さま……。私、お姉さまの……お役に……立てるのですね……。』
アリアは、ルナ・サクヤに向かって、その小さな両手を差し出した。その表情には、感謝と、そして静かな決意が宿っている。
ルナ・サクヤは少し遠くを見るような目になり『自分の才能が恐ろしいわ...出来ない事はもうないかも...』と独り言を語りつつ、コーヒーに口をつけた。
その後ろでは、「ん!......う~...んんっ!」と手を上に伸ばして、背伸びをするアリアがいた。そして、くるりとルナ・サクヤに向き直り、力強く一言、
『おねえさま!大変です!なぜでしょうか、わたくし、飛べません!!』
ルナ・サクヤは、コーヒーカップを持ったまま、ピシリと固まった。その表情には、困惑と、そしてどこか呆れが入り混じっていた。
(…………。なぜ飛べないかって? そういう機能は組み込んでいないのよ)
『おねえさま...お腹からどどーーんとミサイルが出るとか、目からビームが...出ないみたいです!』
(出ないわよ...!)
『そんな.....それでは私はどうやって戦えば...やはり、女の色気で...』
『あなたは、戦う必要なんてないの。もう二度と傷つく必要なんてないのよ、アリア...』
ルナ・サクヤの脳裏には、アリアがかつて「亜」のエネルギーの奔流に囚われていた時の、傷だらけの魂の姿が鮮明に蘇る。彼女は、この新しいアリアには、もう戦場に立つ必要も、誰かの「器」となる必要もない、ただ幸せに、平穏に過ごしてほしいと願っていた。地球の小野寺さくのように、学園生活でも謳歌させてあげたいと、密かに思っていたのだ。
『……お姉さま……。私、お姉さまの、優しさ……とても、よく、分かります……。』
アリアの声は、静かだった。
ルナ・サクヤは、はっと顔を上げた。
『……私は……。ずっと……暗闇の中で……とても苦しかったです……。でも……お姉さまは……私を……救い出してくださいました……。そして……この、温かい光の中に……連れてきてくださいました……。だから……だから、私は……お姉さまのために……その、お役に立ちたいのです……。』
アリアの瞳は、物憂げな光を湛えながらも、揺るぎない決意を宿している。
傍らのシロ(システム)は、ルナ・サクヤの肩のそばに、ふわりと寄り添い、無機質な声で告げた。
『…ルナ・サクヤ。完璧な創造は、常に予測不能な要素を内包します。そして、対象個体:アリアのバイタルサインは、極めて活発です。…そして、その「努力」と「探求心」は、今後の観測において非常に興味深いデータとなるでしょう』
まるで「ドンマイ」とでも言っているかのようなその言葉に、ルナ・サクヤは、ぐっと言葉を飲み込んだ。
(……そうね。とりあえず、今は元気でいてくれるなら、それでいいわ。私の技術は、間違っていない。この子が、もう傷つく必要はない。それだけが、私の望みなんだから)
結局、その日からルナ・サクヤの神域は、美少女となった「アリア」の、静かな、しかし確かな存在感と、時折発せられる宇宙の真理に関する洞察、そして、ルナ・サクヤのためになろうとする健気な姿で、賑やかに(そして騒がしく)満たされることになった。
ルナ・サクヤは、そんな「可愛らしいアリア」が身近な存在として、できてしまったことに頭を抱えつつも、楽しそうに、そして少しだけ温かい眼差しで、その新たな「家族」を見守るのだった。




