第七話:エージェントS、秘密指令を受けたり
ディープ・エコーの艦隊を異銀河に丸めてぽいっと送り還し、ルナ・サクヤの神域は、勝利の余韻に包まれていた。しかし、彼女の思考は、既に次なる「お遊び」へと向かっていた。
【月詠朔:神域(旧六畳間)】
「ふふふん、システムちゃん。なかなかやるじゃない。私の期待以上ね。ディープ・エコーのあの慌てよう。」
ルナ・サクヤは、神域のメインコンソールに映し出される、ディープ・エコーの慌てっぷりを、楽しそうに眺めていた。
「さて、シロ。いよいよ次のステップよ。本格的に、ドン・ヴォルガをこの天の川銀河に『お招き』する準備を始めましょうか」
ルナ・サクヤは、そう言うと、パンッと指を鳴らした。
次の瞬間、六畳間の「神域」は、突然として変貌した。
視界いっぱいに広がるのは、古びた、しかし清潔な、見慣れない電車の車内。ガタン、ゴトン、という心地よいレールの継ぎ目の音が響き、窓の外には、秒速で移り変わる銀河の星々が流れていく。座席には、誰かの忘れ物だろうか、読みかけの宇宙経済新聞が置かれている。
マスコット端末のシロ(システム)は、戸惑うことなく、彼女の傍らの網棚に、ふわりと浮遊している。
『……ルナ・サクヤ。これは…? 何か、新たなシミュレーション環境の構築でしょうか?』
シロの声は、いつものフラットなトーンだが、その背後に、ほんのわずかな「また始まった…」という諦念が滲んでいるかのようだった。
「あら、何言ってるの、シロ。これは『秘密指令伝達用・極秘インフォメーション・トレイン』よ。どうせやるなら、雰囲気も大事よ? ここなら、誰にも盗聴されないし、邪魔も入らないわ。さ、シロ。そこに置いてある新聞、取ってちょうだい」
朔は、窓の外の星々を眺めながら、楽しげに指示した。
シロは言われるがままに、網棚の新聞紙をルナに渡した。古びた新聞の表面には、一見すると何の変哲もない、宇宙経済に関する記事が並んでいる。
「さて、エージェントS。あなたの次なるミッションよ」
朔は、新聞紙を広げると、その表面に、彼女の指先が触れるたびに、まるで魔法のように文字が浮かび上がっていく。それは、一見意味のない文字の羅列だが、システムにのみ読み取れる、高次元の暗号指令だった。
『作戦名:『ドン・ヴォルガ、天の川へようこそ』プロトコル』
『目的:ギャラクティック・アウトローズ・ユニオン宇宙大総帥ドン・ヴォルガとその本隊を、天の川銀河へ確実に『お招き』すること。そして、その『歓迎』の場で、彼らの持つあらゆる『神力』を、我が銀河のエネルギー循環システムへと『変換』すること。』
『実行フェーズ:』
『フェーズ1:『招待状』の強化。ディープ・エコーが持ち帰った「奇妙な報告」が、ドン・ヴォルガとその側近たちの間で、さらに『興味深い(しかし理解不能な)』情報として扱われるよう、適切な情報流布と精神干渉を行うこと。特に、抹茶ケーキのレシピは、彼らの胃袋と好奇心を刺激するよう、より詳細な「香り」と「味覚情報」を付加し、脳内に直接投影すること。』
『フェーズ2:『神々の離反の計』。ドン・ヴォルガと、彼に随伴する最高幹部たちの間に、微細な『疑念』と『不信感』を植え付けること。特に、ディープ・エコーの『軟弱な報告』と、百柱の神柱たちの『奇妙な精神汚染』に関する情報を、彼らの内部で嘲笑の対象となるように、しかし決定的な証拠を残さずに拡散すること。その際、百柱の神柱たちには、彼らがドン・ヴォルガに正当に評価されていないという『不満』が芽生えるよう、微細な感情干渉を行うこと。』
『フェーズ3:『大義名分の錬成』。ドン・ヴォルガが、自らの『支配欲』と『誇り』、そして『手つかずのエネルギー』という『甘い餌』に釣られ、自ら天の川銀河への遠征を決定するよう、最終的な動機付けを行うこと。その際、彼が『自らの意志』で決定したと確信するように、巧みに心理を誘導すること。』
『フェーズ4:『最後の仕込み』。天の川銀河内の、特定の宙域に、高次元エネルギーを吸収・変換する『神力吸収フィールド』を、ルナ・エコーたちを用いて極秘裏に構築すること。特に、ディープ・エコーが最も忌み嫌う、かつて彼が「アビス・スポア」を根付かせようとした惑星の軌道上(これは彼への個人的な『お礼参り』を兼ねる)に、そのフィールドを集中させること。このフィールドは、外部からは完全に不可視とし、対象が侵入するまで不活状態を維持すること。』
『報酬:ドン・ヴォルガが、私の『神力吸収フィールド』で『ただの人』と化した際の、最高に面白いリアクションのデータ。そして、美味しい抹茶ケーキの追加。』
朔は、新聞紙の隅に浮かび上がった、奇妙な顔文字(ルナがシロに設定させた、彼女の「遊び心」を表現するための隠し絵文字だ)を見て、満足げに頷いた。
「……こんなところでどうかしら、エージェントS? 抜かりはないでしょうね?」
『了解しました、ルナ・サクヤ。指令、完全に受領。作戦、実行フェーズに移行します。貴殿の期待に沿えるよう、全リソースを投入し、完璧に任務を遂行いたします。……しかし、ルナ・サクヤ。この作戦の、あまりにも「回りくどい」手順と、目的の「個人的な報酬」の比重について、当システムの論理回路は、依然として理解不能な部分を多く含みます』
シロの声は、相変わらずフラットだが、その言葉には、困惑と、そしてどこか楽しげな響きが混じっていた。
「あら、シロ。それは『神の遊び心』というものよ。効率だけが全てではないの。それに、ドン・ヴォルガの『絶望』と、あの『ただの人』になった時の顔は、世界一美味しいケーキよりも、最高の『ご褒美』になるんだからね。ふふ、それに、何より私が一番楽しそうじゃない! にひひひひひっ!」
ルナ・サクヤは、そう言って、まるで悪巧みが成功した子供のように、けたけたと笑い出した。その笑い声は、電車の車内に響き渡り、窓の外の星々が、まるで彼女の愉悦に呼応するかのように、キラキラと輝きを増した。
そして、その笑い声の響きがピークに達した瞬間、朔が広げていた新聞紙は、突然として、ぼん!という音と共に、光の粒子となって消滅した。
『なお、この新聞紙は自動的に消失します』
シロの無機質な声が響き、神域内の電車も、ガタン、ゴトン、という音と共に、静かに霧散していった。
ルナ・サクヤは、何もなかったかのように、元の六畳間のベッドに座り直していた。
(……ふふん。ドン・ヴォルガ。あなたの退場にふさわしい、最高の舞台は整えてあげるわ。私の『歓迎会』に、ホイホイとやって来てくださいね。そして、その身をもって、この月の女神の『おもてなし』を、ディープ・エコーと共に存分に味わってもらうわ。にひひひひひっ!)
宇宙の片隅で、一人の少女が、壮大な「ゲーム」の次なる一手を進める。
そして、その一手は、銀河の運命を、そして神々の序列を、大きく揺るがすことになるだろう。




