第四話:銀河の深淵、蠢く影と神のチェスボード
地球の「ファンタジーゾーン」計画は、月詠朔――ルナ・サクヤの(ある意味で完璧な)ゲームバランス調整と、小野寺拓海率いる日本政府の懸命な運営努力、そして何よりも、そこに生きる人々の尽きることのない冒険心によって、順調すぎるほどに進展していた。
各地のオアシスは独自の文化を花開かせ、ファンタジーゾーンから産出される新たな資源は、人々の生活を豊かにし、アークラインはそれらを繋ぐ大動脈として機能している。
朔は、自らの「神域」から、その「箱庭」の成長を、まるで我が子の成長を見守る親のような(本人は絶対に認めないだろうが)、温かく、そしてどこか楽しげな眼差しで眺めていた。
特に最近の彼女のお気に入りは、オアシス・トーキョーの孤児院「ひだまりの家」周辺の「定点観測」だった。
もう一人の自分である小野寺さくが、友人であるタイヨウくんや、そして何よりも、あのしっかり者で優しいアサヒくん(さく視点補正200%込み)と織りなす、甘酸っぱくも微笑ましい日常。
その純粋な感情の機微が、リアルタイムでルナ・サクヤの意識にも流れ込んでくるたび、彼女の「神」としての論理回路は、原因不明の「バグ(という名のドキドキ)」に見舞われ、銀河のエネルギーバランスをうっかり調整し損ねそうになることもしばしばだった。
(…まったく、さくってば!...まぁ、私なんだけど... アサヒくんが隣に来ただけで、なんであんなにドキドキしてるのよ! 私のメインユニットにまで負荷がかかるじゃないの! …まあ、でも、あのアサヒくんの、不意に見せる優しい笑顔は、確かにちょっと…いや、かなり…破壊力があるかもしれないけど…って、ち、違う! これはあくまで客観的なデータ分析で、あって!)
この「バグ」とも呼ぶべき現象への対策として、ルナ・サクヤは、ごく少数の高性能ルナ・エコーを「小野寺さくちゃん絶対防衛及び恋愛成就サポートエージェント(コードネーム:キューピッド・ストライカーズ)」として、秘密裏に「ひだまりの家」周辺に配備していた。彼女たちの任務は、あらゆる物理的・精神的脅威から小野寺さくを守護し、かつ、アサヒくんとの間に「恋愛フラグ」が成立しそうなイベントを、可能な限り自然な形で、さりげなく演出すること。これは、全知全能の神にあるまじき、壮大な職権濫用であることは論を俟たないが、もちろん、その事実はマスコット端末のシロ(システム)以外には誰も知らない、最高レベルの極秘事項である。
もっとも、その献身的なルナ・エコーたち自身もまた、月詠朔の意識の欠片であるため、恋愛初心者で、有効打は殆ど出せては居なかったし、小野寺さくがアサヒくんの不意打ちの優しさや、ふとした瞬間の格好良さに胸を高鳴らせるたび、その強烈な「ドキドキ」を共有し、一斉に思考ルーチンがショート寸前となり、監視任務中にもかかわらず、その場でしゃがみ込んで、硬直してしまう、という微笑ましい(?)事態が頻発していた。幸い、彼女たちに施された完璧なまでの認識阻害能力のおかげで、その奇行を周囲の人間たちに怪しまれることなどは、免れていたのだが。
そんな、地球での穏やかで、しかしどこかソワソワする日常を「観測」していた、ある日のこと。
彼女の傍らを静かに浮遊していたマスコット端末のシロ(システム)が、珍しく、その白い球体の表面の光を、警告を示す赤色へと明滅させた。
『ルナ・サクヤ。緊急報告です』
シロの声は、いつも通りのフラットさを保ってはいたが、その情報伝達の速度と密度は、明らかに普段とは異なり、緊迫感を帯びていた。
『当システムの拡張された超広域深宇宙探査ネットワークが、先日、貴殿が「宇宙のゴキブリ」と呼称し、その追跡を一時中断されていたディープ・エコーが逃亡した際に使用した「ディメンション・ワームホール」の残滓エネルギーパターンを解析した結果、極めて異質かつ強大なエネルギー反応を、そのワームホールの終着点と推測される座標――天の川銀河からは遥か彼方の「異銀河宇宙」領域において、断続的に感知いたしました』
朔は、さくちゃんたちの微笑ましいやり取りから、瞬時に意識を切り替えた。その瞳には、先ほどまでの柔らかな光はなく、全てを見透かすような、冷徹な神の光が宿っている。
「…異銀河宇宙、ですって? さすがに、そこまでは私の『銀河の眼』も届いていなかったわね。で、そのエネルギー反応の詳細は?」
『詳細なパターン解析を進めた結果、これは、我々の銀河(天の川銀河)とは根本的に異なる物理法則、あるいは高次元構造を持つ「異銀河宇宙」からの、意図的な『干渉』、あるいは我々の銀河に対する『観測』の可能性が極めて高いと判断されます。エネルギーの質、量ともに、これまでの「侵食因子(コードネーム:亜)」のそれとは比較にならず、より組織化され、かつ高度な知性を持つ存在によるものである可能性が濃厚です』
シロが投影したホログラムには、天の川銀河の遥か彼方、漆黒の宇宙空間に、不気味な紫色のエネルギーの揺らぎが、まるで深海のクラーケンの触手のように、こちらを窺っているかのような映像が映し出された。
『加えて、その異銀河宇宙の深部、特にそのエネルギー反応の中心地と推測される場所から、複数の大規模な勢力の存在を確認いたしました。それぞれの勢力は、それぞれ異なるエネルギーパターンと行動原理を持つようですが、共通して、極めて高い軍事力と、宇宙規模の支配欲を有していると推測されます。その中でも、特に大規模で、好戦的な傾向を持つと判断される勢力として、『力ある者たちの連合』の存在を検知しました。』
シロが、銀河系図の遥か彼方に、いくつかの新たな光点を表示させる。その一つ一つが、天の川銀河にとって、未知なる、しかし強大な脅威を示唆していた。
朔は、その報告に一瞬だけ眉をひそめ、表情を曇らせた。だが、すぐに、その口元にはいつもの不敵な、そしてどこか楽しげな笑みが浮かんだ。
「ただじゃ転ばなかったわけね。別の銀河にまで『お友達』を作って、こっちにちょっかい出してくるつもりかしら? 」
彼女の声には、確かな高揚感が含まれていた。
地球の「箱庭」が安定期に入り、少しだけ手持ち無沙汰を感じ始めていた彼女にとって、この異銀河からの「挑戦状」は、格好の刺激となるのかもしれない。




