【side story】 ひだまりのドキドキと神様のバグ報告(あるいは、アサヒくん攻略クエスト発生?)
地球の復興と「ファンタジーゾーン」の運営が軌道に乗り、月詠朔――ルナ・サクヤのメイン意識が、再び広大な宇宙へと向けられようとしていた、ある穏やかな昼下がり。
彼女の「神域」と化した、かつての六畳間(今は、彼女の気分次第で草原にも宇宙空間にもなる、無限の精神空間)に、ほんの僅かな、しかし無視できない「ノイズ」が混じり始めた。
それは、外部からの攻撃でも、システムの異常でもない。
もっと内面的な、そして彼女自身にも予測不能な「バグ」に近いものだった。
原因は、地球の「オアシス・トーキョー」にある孤児院「ひだまりの家」で、健やかに成長している、もう一人の自分――小野寺さくの、あまりにも眩しい日常と思春期に差し掛かろうとする心の揺らぎを、ルナ・サクヤがリアルタイムで「共有」してしまっていることにあった。
その日、さくは、孤児院の仲間である元気いっぱいの少年タイヨウくんと、そして、いつも彼女を優しく見守ってくれる、一つ年上のしっかり者の少年、アサヒくんと一緒に、孤児院の近くの小川でザリガニ獲りに夢中になっていた。
夏の日差しがキラキラと水面に反射し、子供たちの楽しそうな声が響き渡る、平和そのものの光景。
日が高くなるにつれ、容赦ない夏の陽射しが降り注ぐ。小川に足を踏み入れ、泥にまみれ、額に汗を浮かべた男の子たちは、早々にTシャツをがばっと脱ぎ捨てていた。タイヨウくんは、上半身裸で水しぶきを上げながら、豪快にザリガニを追いかけている。アサヒくんも、薄いシャツを腕まくりどころか脱ぎ去り、まだ細身ながらも引き締まった腕と、日差しに焼けた肩を晒していた。その肌には、水しぶきがキラキラと光り、健康的な汗が微かに光っていた。
朔は、思わず、視線を泳がせた。普段、人の視線など気にしたことのない彼女だが、目のやり場に困るような、妙な居心地の悪さを感じていた。彼らの素肌から放たれる、幼いながらも確かに「男の子」である体温と、洗い立ての石鹸とは違う、健康的な汗の匂いが、夏の熱気と共に、鼻腔の奥をくすぐる。
「わっ!見て見て、アサヒお兄ちゃん!すっごく大きいの釣れたよ!」
さくが、泥だらけになりながらも、得意げに大きなザリガニを掲げて見せる。
「本当だ、すごいね、さくちゃん。でも、そんなに近づくと挟まれちゃうよ。ほら、こっちのバケツに入れようか」
アサヒくんは、優しく微笑みながら、さくの手からザリガニを受け取ろうと、そっと彼女の隣に屈み込んだ。
その瞬間、彼の顔が、不意に、さくのすぐ間近に迫った。
太陽の光を浴びて輝く、少し汗ばんだ彼の額。真剣な眼差しでザリガニを見つめる、普段よりも少しだけ大人びて見える横顔。そして、ふわりと香る、石鹸と、それから彼自身の、まだ幼いけれど確かに「男の子」の匂い。
朔の視界が、一瞬にしてアサヒくんの顔で埋め尽くされた。彼の栗色の前髪が、日差しを受けて微かに輝き、まつ毛の先まで鮮明に見える。呼吸が、詰まった。小川のせせらぎも、タイヨウくんの騒がしい声も、全てが遠のき、世界は、ただ彼と自分だけのものになったかのように感じられる。
――ドクンッ! ドクンッ! ドクンッ!!
心臓が、まるでマラソンでもした後のように、激しく、そして耳元で直接鳴り響く。顔が、カッと熱くなり、全身の血が逆流するような感覚。頬が、リンゴどころか、煮えたぎるマグマのように赤く染まっていくのが、自分でも分かった。視線をどこにやればいいのかも分からない。アサヒくんの真剣な横顔から、彼の胸元へ、そして足元の石ころへ……だが、どこを見ても、心臓の鼓動が収まる気配はない。
さらにアサヒくんの顔が、ちらちらと視界に割り込んでくる。脳内の思考回路が、完全にオーバーヒート寸前だった。
(なんでこんな! 視線が! どこに置けばいいの!? ああああ、無理っ、逃げたい! )
手元がおぼつかなくなった拍子に、ザリガニを持った腕が、不安定に揺れた。小川のぬかるんだ足元も、彼女の混乱に拍車をかける。
「わっ、さくちゃん、危ない!」
アサヒくんの声が聞こえた、その瞬間。朔の体はバランスを崩し、小さな悲鳴を上げながら、ゆっくりと後ろへ傾いだ。川に落ちる――!
だが、その体は、地面に打ち付けられることも、冷たい水に落ちることもなかった。柔らかな、しかし力強い腕が、とっさに彼女の腰を抱き止め、しっかりと支えたのだ。
体勢を立て直そうとする間もなく、アサヒくんの腕が、さらに彼女の体をしっかりと抱きとめる。背中に感じる、彼の体温。石鹸と、まだ幼い男の子の匂いが、一層強く、そして甘く鼻腔をくすぐる。
「大丈夫? 危ないよ、さくちゃん」
心配そうなアサヒくんの優しい声が、すぐ耳元で響いた。顔を上げると、彼の瞳が、至近距離で、まっすぐに朔を見つめている。彼の瞳には、心配と、ほんの少しの安堵の色が浮かんでいた。
(だ、だだだだ大丈夫じゃ、ぜんぜんな~~いっっっ!!!!)
頭の中が、真っ白を通り越して、宇宙の深淵のように広がり、そして無限の星屑が飛び散る。思考が、完全に停止した。
「危ないから、こっちに行こう」
そう言うと、アサヒくんは、朔の体を抱きかかえたまま、よろめく彼女の足元に気を配りながら、そのまま何故か力いっぱいしっかりとザリガニを持った朔を、安全な川の土手まで運び上げた。まるで、軽い荷物を運ぶかのように、自然な仕草で。
土手にたどり着き、体が離れても、朔の頬の赤みは引かない。心臓は、相変わらず激しいリズムを刻み続けていた。
(な、なななななんなの、これっ!? なんで、私、こんなっ!? き、気のせい? 絶対気のせいじゃない! 心臓が、心臓が口から飛び出るっ! くっくはぅ!? う、うっぴょーーっ!!)
さくは、大混乱のまま、アサヒくんから視線を逸らし、俯いてしまった。
そして、その「感情の奔流」は、リアルタイムで、遥か彼方の「神域」にいるルナ・サクヤの意識にも、ダイレクトに流れ込んできたのだ。
【月詠朔:神域(旧六畳間)】
「…………っはぅあっ!?」
銀河のエネルギーバランス調整と、異銀河からの侵入者の索敵ルーチンを並列処理していたルナ・サクヤのメイン意識が、突如として、原因不明のシステムエラーを起こしたかのように、フリーズして、前のめりに座り込んだ。
彼女の頬が、通常の人のそれとは異なり本来そうなることはない筈なのに、ほんのりと赤く染まり、心臓(のような概念器官)が、ありえないほどの高鳴りを刻んでいる。
(な…ななな、何なのよ、この感覚は…!? 私の論理回路に、未知のバグが発生したっていうの!? それとも、さくの精神状態が、私にまで干渉して…!? こ、こんな…こんな、胸が苦しくて、顔が熱くて、何も考えられなくなるような現象、私のどこにもそんなものないんだけどっ!?)
傍らでその様子を観測していたマスコット端末のシロ(システム)が、冷静に、しかしどこか面白がるようなトーンで報告する。
『ルナ・サクヤ。意識の一部を共有している対象個体:小野寺さくより、極めて高いレベルの情動的反応を感知。生化学的分析によれば、これは地球人類が「恋煩い」あるいは「初恋」と呼称する精神現象の初期段階に酷似しています。それに伴い、貴殿の意識共有システムを通じて、同様の精神的負荷がメインユニットにも発生しているものと推察されます。…率直に申し上げますと、貴殿、現在、かなり「バグって」おられます』
「ば、バグってないわよっ! わ、私は神よ!? こんな、こんないちいち人間の女の子のドキドキに、いちいち影響されたりなんか…! …うぅ…でも、なんでこんなに、アサヒくんの顔が頭から離れないのよぉ…! あの子、まだ小学生よ!? 私、あの子の1.5倍は生きてるっていうのに…! これじゃあ、まるで私が年下の男の子に…! ああああ、もうっ! 精神汚染よ、これはっ! 重大なセキュリティ侵害だわっ!」
ルナ・サクヤは、大きめの枕のよう物を「ぽん!」と生み出すと、それを抱えこんで神域の床(という名の概念空間)を「うきゅ~~」とか変な音を立てながらゴロゴロと転がり始めた。その姿は、もはや全知全能の神ではなく、初めての感情に戸惑う、ただの初心な少女そのものだった。
「んん~!!シロ! なんとかして! このバグ、早く駆除してよ! 私の完璧な論理回路が、あの少年の笑顔一つでメルトダウンしそうだわ!」
『…残念ながら、ルナ・サクヤ。これは外部からの攻撃ではなく、貴殿自身の精神に起因する、極めて自然な反応です。駆除することは、貴殿の精神構造そのものを削除することになりかねません。むしろ、この「バグ」を貴重なデータとして、今後の貴殿の精神的成長に活かされてはいかがでしょうか? それと…見ていて非常に面白いので、当システムとしては、このまま静観、観察させていただきます』
「あなたねぇっ!?」
結局、その日のルナ・サクヤは、さくちゃんがアサヒくんと顔を合わせるたびに、神域で一人悶絶し、宇宙の法則をうっかり書き換えそうになる、という大変不安定な状態が続いたという。
そして、彼女は固く心に誓った。
(……こ、こうなったら、あのさくとかいう小娘(自分)の、恋愛成就(という名の精神安定化)のために!この!私が!完璧なデートプランでも練ってあげなくもないんだからね! も、もちろん、全ては地球の平和と、私の快適な神様ライフのためなんだからねっ! 断じて、私がアサヒくんの笑顔をもっと見たいとか、そんな動機じゃないんだからっ! ぜ、絶対に違うんだからっ!)
ひとりぼっちの恋愛未経験な神様の、初めての「ドキドキ」は、宇宙の未来をほんの少しだけ、甘酸っぱい方向へと変えるかもしれない、そんな予感を孕んでいた。
そして、恋愛初心者の神様は、どの様な方法でアサヒくんの笑顔と、心を奪おうとするのか。
その「精神汚染」の被害者(?)であるアサヒくんは、そんな神様の葛藤など露知らず、今日もまた、さくちゃんに優しい笑顔を向けるのだった。
小野寺さくの、そしてルナ・サクヤの、淡く切ない(そしてちょっとコミカルな)青春攻略クエストは、どうやら始まったばかりのようだ。




