第三話:草原のティールームと新たな神託
サンクチュアリ・ゼロの自動増殖と最適化という、宇宙規模の「仕込み」をルナ・エコーたちに託したメインの月詠朔の意識は、久しぶりに、穏やかな光に包まれた地球へと焦点を合わせた。
彼女の「神域」のメインコンソール(という名の、今は広大な草原を見下ろすテラスに置かれたアンティーク調のテーブル)には、リアルタイムで更新される地球の状況が、美しいホログラムとなって映し出されている。
復興が進む各地のオアシス。アークラインを滑るように走るリニア車両。そして、その全てを統括し、日夜奮闘を続ける小野寺拓海の、少しだけ隈の濃くなった顔写真。さらに、各地のファンタジーゾーンで、ゴブリン相手に一喜一憂している「冒険者」たちの、どこか微笑ましいライブ映像も。
(ふーん、地球もまあまあ落ち着いてきたみたいね。小野寺さん、相変わらず忙しそうだけど、ファンタジーゾーンの初期運営も、なんとか軌道に乗せてるみたいだし。うんうん、偉いわね。そろそろ、あの美味しい抹茶ケーキの『ご褒美』をあげてもいい頃かしら。もちろん、私も一緒に食べるけど。にひひっ)
完璧な効率主義者であると同時に、美味しいものには目がない彼女は、早速、傍らに控える白金の球体、シロ(システム)に声をかけた。
「ねえ、シロ。ちょっと小野寺さん、ここに呼んでくれる? 最近、頑張ってるみたいだし、たまには息抜きも必要でしょ。私の新しい『ティールーム』にご招待してあげるわ」
『了解しました、ルナ・サクヤ。小野寺拓海氏へのコンタクトを開始します。転送座標は、先日貴殿が「風が気持ちいいから」と特にお気に召されていた「神域内・草原のテラスカフェ」でよろしいでしょうか? 誠に恐縮ながら、パティシエ及び料理人の選定につきましては、まだ小野寺氏からの最終的な推薦リストが提出されておりませんが…』
シロの、いつもと変わらぬフラットな音声の中に、ほんの僅かな「(また無茶振りか…)」というニュアンスが混じったのを、朔は敏感に感じ取ったが、気にする素振りも見せない。
「いいのいいの、そんな細かいことは! 今日は私が腕によりをかけて、とびっきりのスペシャルケーキを『錬成』してあげたんだから! 小野寺さん、きっと腰を抜かすわよ? それに、パティシエの件も、ちょうど今日、彼に直接『お願い』しちゃえばいいじゃない。一石二鳥でしょ?」
その言葉通り、日本政府の首相官邸、小野寺拓海の執務室。山のような決裁書類と、世界各国からの問い合わせ、そして「ファンタジーゾーンでワイバーンに遭遇したが、どうすればいいか」といった、もはや彼の専門外としか思えない相談への対応に追われ、心身ともに疲労のピークに達していた彼の体が、ふいに淡く柔らかな光に包まれた。目を開けると、そこは先ほどまでの無機質な執務室ではなく、どこまでも広がる穏やかな草原と、爽やかな風が吹き抜ける、美しいテラスカフェだった。
そして、テーブルの向こう側には、いつものようにフードを目深に被り、大きなサングラスをかけた、しかしどこか上機嫌な様子の月詠朔が、優雅にティーカップを傾けていた。テーブルの上には、見たこともないほど芸術的で、そして芳醇な香りを漂わせるケーキが、数種類、宝石のように並んでいる。
「やっほー、小野寺さん。お仕事お疲れ様。ささ、遠慮しないで座って座って。今日は私が特別に、この神域の『概念素材』から錬成した、スペシャルケーキよ。味も効果も保証付きだから、心ゆくまで召し上がれ!」
悪戯っぽく笑う彼女の言葉に、小野寺は、もはや驚くというよりも、一種の諦観と、そしてほんの少しの期待感を抱きながら、促されるままに席に着いた。一口食べたケーキの、筆舌に尽くしがたい美味しさに、彼の疲労困憊だった脳細胞が、一瞬にして活性化していくのを感じる。
「…素晴らしい…これは、まさに神の御業としか…」
言葉を失う小野寺に、朔は満足げに頷くと、彼の持参した報告書(ファンタジーゾーンの初期運営状況に関するものだ)に目を通しながら、本題を切り出した。
「うんうん、ファンタジーゾーンも、思ったより早くみんな楽しんでくれてるみたいで何よりだわ。ゴブリン相手に苦戦してる『勇者さん』もいるみたいだけど、あれはあれでいい経験になるでしょ。でもね、小野寺さん。いつまでもゴブリンやスライムだけじゃ、さすがに飽きられちゃうじゃない? 人類も、そろそろ次のステージに進んでもらわないとね」
その言葉に、小野寺は背筋を伸ばした。何か、またとんでもない「神託」が下される予感がしたからだ。
「そこで、例の『ファンタジーゾーン』計画の、フェーズ2よ。あれを、本格的に始動させようと思うの」
朔の瞳が、サングラスの奥でキラリと輝いた。
「今のファンタジーゾーンは、いわば『チュートリアルエリア』みたいなもの。これからは、もっと奥深い、本格的な冒険の舞台を用意してあげるわ。具体的にはね…」
彼女は、テーブルの上に、地球のホログラムを浮かび上がらせ、ファンタジーゾーンとして指定されたエリアをさらに詳細に区分していく。
「まず、既存のエリアの奥地に、もっと手強いワイバーンとか、ドラゴンとか、そういう中ボス級のモンスターが生息する『深層エリア』を解放するわ。もちろん、そこには相応の『お宝』も用意しておくけどね。それから、いくつかのエリアには、もっと特殊な環境…例えば、灼熱の火山地帯とか、極寒の氷雪地帯とか、あるいは古代文明の謎めいた遺跡とか、そういう『テーマダンジョン』を設置するの。そこには、その環境に適応したユニークなモンスターや、特別なギミック、そして何よりも、エンシェント・デーモンのような『神話級』の存在も、ごく稀にだけど、登場させちゃうかもしれないわ。にひひっ」
小野寺は、そのあまりにも壮大で、そして明らかに危険度が増した計画に、今度こそ本当に眩暈を覚えそうになった。
「る、ルナ・サクヤ様…そ、それは…いくらなんでも危険すぎるのでは…? 人類の安全は、一体どうなるのですか…!?」
彼の悲痛な問いかけに、朔は、まるで子供を諭すように、しかし有無を言わせぬ口調で答えた。
「大丈夫だって。言ったでしょ? オアシスの安全は、私がこの前完成させた『クロノス・ヴェール』の応用技術で、完璧に、絶対に守るから。ネズミ一匹、外から入れさせやしないわ。この新しいファンタジーゾーンは、あくまで『自己責任』で楽しむ、真の勇者のための冒険エリアよ。それにね、そこで得られる経験や、強力なモンスターがドロップする『超レア素材』、古代遺跡に眠る『失われたオーバーテクノロジー』…そういうものは、きっと、これからの人類の飛躍的な発展に、すごくすごく役立つはずだわ。何より…」
彼女は、そこで一度言葉を切り、そして、心の底から楽しそうな、純粋な子供のような笑顔で言った。
「……私が一番、見ていて楽しいんだもの!」
その言葉には、もはや反論の余地などなかった。
小野寺は、この気まぐれで、しかし絶対的な力を持つ神が、本気で「面白いゲームバランスの世界」を創ろうとしていることを、改めて理解した。そして、その「面白さ」の基準が、常人のそれとはかけ離れていることも。
一通り「神託」を終えた朔は、満足げに最後のケーキを頬張りながら、小野寺に新たな「お願い」を切り出した。
「というわけで、小野寺さん。このファンタジーゾーン・フェーズ2の『運営ガイドライン』の策定と、そこから得られる新しい資源や技術の『公正かつ効率的な研究開発体制』の構築、あなたに任せてもいいかしら? もちろん、無理強いはしないけど、あなたなら、きっと面白くて、それでいてちゃんと機能する仕組みを考えてくれるって、私、信じてるから。失敗したら、その時は私が『バランス調整』してあげるし、心配いらないわよ?」
その言葉は、信頼と期待、そしてほんの少しの「脅し」が絶妙にブレンドされていた。
「ああ、それと、このカフェのパティシエと料理人の選定も、引き続きよろしくね! 世界中から、最高の腕を持つ人を探してきてちょうだい。報酬は、私の『ご機嫌』と、あと、この神域でしか手に入らない、ちょっと不思議な『魔法の食材』でどうかしら? きっと、彼らの創造力を刺激すると思うわよ?」
小野寺は、もはや抵抗する気力も、そしてその必要性も感じず、ただただ、この途方もない「神様からの宿題」を、謹んで(そしてほんの少しのワクワク感と共に)拝受するしかなかった。
最後に、朔は、遠い宇宙の彼方に視線を向けるような仕草をしながら、意味深な言葉を残した。
「まあ、地球の『お庭作り』は、これくらいにして、そろそろ私も、本格的に『宇宙のお掃除』の続きに取り掛からないといけないかもしれないしね。あの逃げたディープ・エコーとかいうのが、どこかでまた変なちょっかいを出してきたら面倒だから。小野寺さんも、地球のこと、しっかり頼んだわよ? 私が安心して『外宇宙パトロール』できるようにね」
その言葉に、小野寺は、彼女が地球の平和だけでなく、さらに広大な宇宙の調和までも見据え、そして守ろうとしていることを改めて感じ、その計り知れない存在の大きさに、ただただ圧倒されるのだった。
お茶会は終わり、小野寺は、お土産のケーキの箱(もちろん、請求書は日本政府持ちだ)と、そして銀河の運命すら左右しかねない途方もない量の「宿題」を抱えて、現実世界へと送り返された。
一人神域に残った月詠朔は、満足げに空のティーカップを眺めながら、次なる「宇宙規模の害虫駆除」と、そして、その先にあるかもしれない、異銀河の神々との「未知なる遭遇(ティーパーティー?)」に、思いを馳せる。
「さて、どんな美味しい『お返し』と、新しい『お遊び』を用意してあげようかしらね。にひひっ」
物語は、天の川銀河と、そしてその外宇宙からの新たな脅威が交錯する、壮大で、そしてどこまでも予測不可能なステージへと、その幕を開けようとしていた。




