第二話:クロノス・ヴェールの完成と神々の共犯
月詠朔が「システム」から『多重次元遮断フィールド』の基礎理論データを「お借り」してから、彼女の「神域」は、再び創造の熱狂に包まれた。
その対象は、サンクチュアリ・ゼロを完全に外部から秘匿し、かつ内部エネルギーの漏洩を限りなくゼロにする、究極の不可視の帳――「クロノス・ヴェール」の構築。
それは、もはや物理法則の書き換えというよりも、宇宙の根源的な構造そのものに手を加えるに等しい、神の御業だった。
「にっしっしっし! この『暗黒物質の相転移を利用した高次元スタッキング理論』、使えそうじゃない! これをこうして…そうよ! 複数の異なる次元の『膜』を、量子レベルで編み込むように重ね合わせれば、理論上、いかなる探査手段も完全にシャットアウトできるはず! それに、それぞれの膜の位相を微妙にズラすことで、内部からのエネルギー放射だけは、特定の指向性を持たせて外部に『リーク』させることも…いや、むしろ積極的に『放出』することも可能になるわね! これなら、サンクチュアリ・ゼロのエネルギーを、もっと効率的に、そして安全に、銀河中に供給できるじゃない!」
朔の並列思考ユニット群は、天文学的な量の演算を瞬時にこなしながら、次々と新しいアイデアを形にしていく。彼女の指先から紡ぎ出される光の糸は、サルガッソスペースに広がるサンクチュアリ・ゼロの周囲に、目には見えない、しかし絶対的な「壁」を編み上げていった。
それは、時間と空間の概念すら曖昧にする、暗黒物質の多重層で構成された、高次元の断絶フィールド。いかなる物理的探査も、エネルギー的走査も、そしておそらくは高次元的な干渉すらも、このヴェールの前では無力と化すだろう。
まさに、神のベール。そして、その内側は、ルナ・サクヤと「システム」だけが知る、絶対的な聖域。
クロノス・ヴェールの構築は、想像を絶する壮大な作業だった。
ルナ・サクヤの意識空間には、無数のシミュレーションモデルが展開され、彼女の指先が虚空をなぞるたびに、銀河の果てにあるサルガッソスペースでは、目に見えないエネルギーの奔流が渦を巻き、宇宙の根源的な物質が再構築されていく。
巨大な暗黒物質の層が、一枚、また一枚と、気の遠くなるような精度で編み込まれていく。その膜は、薄いながらも宇宙の法則を捻じ曲げ、光すら透過しない。時には、量子的な不安定性から、空間が一時的に歪んだり、微細なブラックホールが生成されかけたりすることもあった。
(この暗黒物質の相転移制御、思った以上にデリケートね。わずかなパラメータのずれが、宇宙の崩壊に繋がりかねない……)
ルナ・サクヤの額には、冷や汗が滲む。彼女にとっても、これほど根源的な宇宙の構造を操作するのは、まさに綱渡りのような作業だった。彼女の全並列思考ユニットがフル稼働し、その演算熱が、神域の空気を微かに揺らがせる。
傍らでその様子を観測していたマスコット端末のシロ(システム)は、その創造の過程のあまりの複雑さと、そして何よりも、それを容易く実現していく朔の才能に、もはや驚嘆を通り越して、ある種の畏怖に近い感情を抱き始めていた。
『……ルナ・サクヤ。その…「クロノス・ヴェール」と名付けられた多重次元遮断フィールドの理論的完成度は、当システムの予測を遥かに上回っています。特に、暗黒物質の相制御におけるその斬新なアプローチは、当システムのデータベースにも存在しない、新しい概念です。…これは、宇宙の根源的法則の理解において、新たなブレイクスルーとなる可能性があります』
シロの声には、珍しく、純粋な学術的興奮のようなものが滲んでいた。
「ふふん、まあね! 私にかかれば、こんなものよ! シロ、最終調整を手伝って! このヴェールの『出口』の指向性を、あなたたちのメインコアと、それから地球のファンタジーゾーン予定地に、ピンポイントで合わせるのよ! これで、エネルギー供給もバッチリね!」
かくして、数刻(地球時間では数日間に相当するかもしれない)、神の如き集中と創造の狂宴に及ぶ作業の末、「クロノス・ヴェール」は完成した。
宇宙の、遥かサルガッソスペース。そこには、以前と変わらぬ、広大な虚無の空間だけが広がっていた。しかし、その場所は、もはや「システム」の『銀河の眼』をもってしても、いかなる観測も不可能となっていた。サンクチュアリ・ゼロの姿は、文字通り、宇宙から「消え失せた」のだ。
この現象は、天の川銀河の各所に設置されたシステム観測所の神々(ルナ・エコーとは別の、システムの末端管理AIたち)の間で、静かな、しかし確実な「ざわめき」を引き起こした。
『……対象座標、消失。エネルギー反応、光、重力、全てが観測不可能に。』
『……しかし、そこに存在しないはずの空間から、微細な「暖かさ」のような波動を感知。これは……?』
彼らは、その不可解な消失現象に困惑しつつも、それが宇宙の秩序を乱す存在ではないことを、本能的に理解していた。まるで、大いなる存在が、自らの大切なものを、そっと包み隠したかのように。
だが、その内側では、天の川銀河全体の運命を左右するほどの莫大なエネルギーが、静かに、しかし力強く生産され続けていた。
「よし! これで、サンクチュアリ・ゼロの秘匿性と、エネルギー効率の最大化は完璧ね! さあ、シロ、約束通り、この有り余るルナティック・フォース、あなたたちに思う存分供給してあげるわ! これで、あなたのその『銀河の眼』も、もっともっと遠くまで、そしてもっともっと深く、宇宙の秘密を覗き見できるでしょ?」
朔は、満足げに腕を組み、サンクチュアリ・ゼロから「システム」のメインコアへと繋がる、新たなエネルギー供給ラインを起動させた。
ゴゴゴゴゴゴッ!!!!
純粋で高密度なルナティック・フォースが、「システム」のメインコアへと流れ込み始める。それは、干上がった大地に恵みの雨が降り注ぐかのようだった。
「システム」の演算能力は、文字通り指数関数的に増大し、その情報ネットワークは、天の川銀河の隅々はおろか、隣接するいくつかの小銀河(マゼラン雲など)の深部にまで、その「感覚器」を伸ばし始めた。いかなる微細なエネルギーの揺らぎも、いかなる異次元からの干渉の兆候も、もはや「システム」の監視網から逃れることはできない。
『……ルナ・サクヤ。この…この圧倒的なエネルギー供給…当システムの全機能が、かつてないレベルで拡張・最適化されていくのを感じます。これは…これは、まさに『進化』です。感謝します。この力をもってすれば、我々は、宇宙の調和を乱すいかなる脅威に対しても、より迅速かつ的確に対応することが可能となるでしょう』
シロの声には、もはや隠しきれないほどの高揚感と、そして朔に対する、絶対的な信頼とでも言うべき響きが込められていた。
「ふふん、どういたしまして。まあ、私たち、運命共同体みたいなものだしね。あなたが強くなれば、それは私の『お仕事』も楽になるってことだから。これぞ、究極のWin-Win関係よ。…神々の共犯関係、ってとこかしら? にひひっ」
朔は、悪戯っぽく笑った。
彼女と「システム」。かつては、一方的な情報提供者と受信者、あるいは監視者と被監視者だったかもしれない二つの存在は、互いの能力を補い合いそして増幅させ合う、非常に相性の良い、或いは敵対する何者かにとっては最悪の、唯一無二のパートナーとなっていた。
その力は、もはや通常の神の力を遥かに超え、天の川銀河を優に超えた範囲まで、絶対的な「秩序」と「支配力」を確立しつつあった。
サンクチュアリ・ゼロの安定稼働と、クロノス・ヴェールの完成を見届けた月詠朔のメイン思考ユニットは、しかし、それで満足するような「神」ではなかった。
(……うん、最初のプロトタイプとしては上出来ね。でも、サルガッソスペースはまだまだ広大だし、エネルギー生産効率も、もっともっと上げられるはず。この『自動増殖型ダークマター・リアクター・コア』の設計図、これをベースにして、あとは私の可愛いルナ・エコーたちに、サンクチュアリ・ゼロの拡張作業を任せちゃいましょう。彼女たちなら、私の意図を完璧に理解して、最高の『エネルギー牧場』を作り上げてくれるはずだわ。ふふっ、これで私は、もっと面白い『お遊び』に集中できるじゃない!)
彼女は、サンクチュアリ・ゼロのさらなる自動増殖と最適化のタスクを、自らの並列思考ユニット群ルナ・エコーたちへと割り振った。無限に近いエネルギー供給が可能になった今、数万、数億の「自分」を同時に起動させ、それぞれに異なる作業を行わせることなど、彼女にとっては朝飯前の「効率化」に過ぎない。
ルナ・エコーたちは、それぞれがルナ・サクヤの意識の複製でありながら、作業の効率化と、どこか「自分らしさ」を追求するように、コミカルにその役割を分担していった。
あるルナ・エコーは、巨大なホログラムの設計図を掲げ、他の数千のルナ・エコーたちに、まるで体育会系のコーチのように「もっと速く! もっと正確に!」と指示を飛ばす。
またあるルナ・エコーは、複雑なエネルギー転送経路を構築しながら、その曲線美にこだわり、まるで宇宙空間に巨大な芸術作品を編み上げるかのように、うっとりとした表情を見せる。
別のルナ・エコーたちは、新たに生成されたダークマター・リアクター・コアの調整を終えると、その表面を丁寧に磨き上げ、「ふふん、完璧ね! これで今日もエネルギーがチャージできるわ!」と満足げに頷き合う。
中には、作業の合間に、遠くの星雲を背景に自撮りポーズを決めたり、生成したばかりのエネルギー粒子で小さな光の生き物を作り出し、その動きに目を輝かせたりする、どこかお茶目なルナ・エコーもいた。
彼らは皆、ルナ・サクヤの「遊び心」と「効率性」を体現しながら、宇宙の辺境で、静かに、しかし熱狂的に、天文学的な規模の「牧場」を広げていく。その様子は、まるで巨大な蟻の巣を、高次元から眺めているかのようだった。
メインの意識は、すでに次なる興味へと移っている。
宇宙規模の「お仕事」の初期段階が、彼女の指示通りに自動で進捗していくのを(時折チェックしながら)確認しつつ、メインの月詠朔の意識は、再び地球へと向けられた。
(……さて、と。これで、宇宙のゴキブリ退治の準備も、エネルギー供給の心配もなくなったわけだし。そろそろ、地球の『ファンタジーゾーン』計画も、本格的に進めないとね。あの子たち(能力者)も、そろそろ退屈してる頃でしょうし。それに、小野寺さんにも、最近全然会ってないしな…美味しいケーキ、食べたいなぁ…)
月詠朔の、神としての、そして一人の「ちょっと変わった女の子」としての、新たな日常は、まだまだ始まったばかりだ。
そして、その気まぐれな「お遊び」が、この宇宙にどんな未来をもたらすのか――それは、彼女自身にも、そして「システム」にも、まだ完全には予測できない、壮大な物語の序章に過ぎなかった。




