第三話:深淵の残響と解析される悪意
地球の「ファンタジーゾーン」が活気を見せ始め、人々が新たな日常を謳歌し、ルナ・ドミニオンがその創造に満足げな笑みを浮かべていた頃。
銀河の遥か彼方、宇宙の深淵では、不穏な影が再び蠢き始めていた。
「システム」の広大な情報ネットワークが、断続的に、しかし着実に、奇妙なエネルギーパターンの揺らぎを感知していたのだ。
それは、かつてルナ・ドミニオンによってその接続ハブを無力化された「侵食因子(コードネーム:亜)」の、しぶとく隠れ潜んでいた「アビス・スポア(深淵の胞子)」たちの活動再開によるものだった。
ルナ・ドミニオンは、この残渣を「ゴキブリ」と称し、その大部分を一掃したつもりでいた。しかし、一部の「アビス・スポア」は、彼女の予測を超えた巧妙さで、銀河の片隅に深く潜伏し、その活動を再開し始めていたのだ。
『……警告。恒星系ガンマ-921宙域、惑星エウロパにおける、エネルギーパターン異常を検知。以前の「亜」の活動パターンとは異なる性質を示唆』
「システム」の管制AIの声が、かつてないほど切迫している。
彼らは、ルナ・ドミニオンの「メインユニット」に直接報告すべきか否か、その判断に迷っていた。ルナ・ドミニオンが定義する「ゴミ」の範疇を、この「アビス・スポア」は明らかに超えつつあった。
ルナ・ドミニオンの意識を構成する、無数の思考の欠片の一つであるルナ・エコーたちは、各地でこの「アビス・スポア」の群れと対峙していた。
彼らは、それぞれがルナ・ドミニオンの意識の複製であり、同じ知性と能力、そして「にひひっ」という笑い方まで共有している。しかし、担当宙域での経験を積むことで、ほんの少しだけ異なる「個性」のようなものを育んでいた。
【恒星系ガンマ-921宙域、惑星エウロパ軌道上:ルナ・エコー187号】
ルナ・エコー187号は、ある荒廃した惑星の軌道上で、複数の「アビス・スポア」の群れを追尾していた。
「……ふん。この『アビス・スポア』ってやつ、単体では、私の『アビス・スポア吸収プロトコル』で簡単に処理できるはずなのに、こんなに次々と『シェイド・ワープ(影の歪曲)』で姿を消すなんて。これは予想外の動きね」
彼らは、空間に微細な「影」を作り出し、そこに一瞬だけ潜り込むことで、センサーの追尾を掻い潜り、ルナ・エコーの攻撃を回避するのだ。
「システム」からの情報支援も、彼らが操る「シェイド・ワープ」の前には、後手に回りがちだった。
『…ルナ・エコー187、対象の移動パターン、予測困難です。一時的な退避を推奨します』
「……このままでは、効率が悪いわ。単なる逃走ではない。何かを運んでいる…?」
ルナ・エコー187号は、直感的にそう感じた。彼らは、ただ逃げているだけでなく、宇宙の特定の場所へ、何かを運んでいるように見えたのだ。
ルナ・エコー187号は、群れの殲滅を試みるが、アビス・スポアたちは、その攻撃を巧妙に回避し続ける。彼らは、まるで生き物のように連携し、ルナ・エコーの攻撃が集中する場所から、次々と「シェイド・ワープ」で姿を消し、別の場所で再出現する。その動きは、予測不能でありながら、どこか「学習」したかのような、洗練されたパターンを見せていた。
『……警告。ルナ・エコー187、対象群によるエネルギー吸収効率の上昇を確認。このままでは、当ユニットのエネルギー消耗が優勢となり、領域の制圧に時間を要します。』
シロの管制AIの警告は、ルナ・エコーの苛立ちを募らせる。これまで、ルナ・ドミニオンの分身であるルナ・エコーが、ただの「亜の残渣」にここまで手こずったことはない。
【月詠朔:神域(旧六畳間):想定外の進化の検知と戦略的決意】
地球での「ファンタジーゾーン」の設計に没頭していた月詠朔の本体が、突如として、微かな、しかし明確な「違和感」と共に、前のめりに座り込んだ。彼女の周囲の空間が、その集中に呼応するように、微かに震え、神域の美しいホログラムが、一瞬だけノイズを走らせた。
並列思考の一部であるルナ・エコー187号からのリアルタイムデータが、メインユニットに流入してくる。その内容は、恒星系ガンマ-921宙域におけるアビス・スポアの群れの、異常なまでの「回避能力」と「学習能力」に関するものだった。
(……この『アビス・スポア』の群れが、これほどの短期間で、ここまで戦略的に進化を遂げるとは……。驚きね。)
朔の額に、微かな汗が滲む。それは「焦り」ではなく、自身の完璧主義が揺るがされたことへの、知的な興奮だった。地球の「箱庭作り」に夢中になるあまり、宇宙の脅威に対する警戒心が、どこかで薄れていたのかもしれない。
彼女は、奥歯を強く噛みしめた。全身が、内側から熱を帯びるような興奮に震える。
『シロ。』
朔の静かな声が、マスコット端末のシロに響く。シロは、ルナ・ドミニオンの感情の波を感知し、その白い表面を、青白い光で激しく明滅させていた。
『……了解しました、ルナ・ドミニオン。指示をどうぞ』
「恒星系ガンマ-921宙域におけるアビス・スポアの全エネルギーパターン、行動ルーチン、そして『シェイド・ワープ』の発生メカニズムを、最高精度のセンサーで徹底的に解析してください。一つたりとも見落としのないように。特に、その学習能力の起源と、これまでの『亜』の残渣とは異なる『組織化された意志』の有無を、最優先で洗い出してください。この情報が、今後の戦略を構築する上で不可欠と思います。どうか、解析を優先して行って。」
朔の指示は、一言一句が明確で、無駄がない。彼女の瞳は、全てを見透かすかのように冷徹に輝いている。
『了解しました。当システムの全リソースを投入し、該当情報の深度解析を行います。』
シロが即座に応答し、その球体は、虹色の光を放ちながら高速で回転し始めた。その演算速度は、銀河の法則すら超えるかのようだ。
数秒後。シロの白い表面に、高速で解析結果がホログラムとして展開された。
『……ルナ・ドミニオン。報告します。』
シロの声には、わずかな、しかし明確な「驚き」が混じっていた。
『恒星系ガンマ-921宙域のアビス・スポアの活動は、単なる再活性化ではありませんでした。その群れは、特定の『核』となる存在の影響下に置かれています。』
ホログラムの中心に、一つの特異点が表示される。それは、以前ルナが宇宙の彼方に追い返したはずの存在。
『識別コード:ディープ・エコー。彼は、この宙域の複数のアビス・スポアを吸収・統合し、自身の存在を再構築していました。その過程で、彼は『位階』を昇華させており、そのエネルギーレベルは、現在では我々の認識を大きく超えています。』
シロの報告は続く。
『特に注目すべきは、彼の『学習能力』と『適応能力』です。彼は、ルナ・エコーが展開する掃討戦術を解析し、それを回避するための『シェイド・ワープ』の連携行動を、自身の配下に指示していました。これは、純粋な「亜」の残渣には見られない、戦略的思考を示唆します。』
その報告を聞いたルナ・ドミニオンの表情は、一瞬にして固まった。
(……ディープ・エコー。これほどの短期間で、ここまで「進化」を遂げるとは……。自力で『神の位階』へと昇り詰めたか……。敵ながら、感心するわ。しかし……)
彼女の脳裏に、ディープ・エコーの狡猾な学習能力によって「出し抜かれそうになり」、結果的に「戦略的な優位性を保てずにいる」ルナ・エコーたちの状況が、鮮明に蘇る。その事実が、朔の冷静な心を、激しく揺さぶった。
彼女は、奥歯を強く噛みしめた。全身が、内側から熱を帯びるような興奮に震える。
(……私の構築した計画を、この程度で阻害しようとするとはね……!)
その瞳には、もはや感情の色はなく、ただ、全てを焼き尽くすかのような、冷たく燃える闘志の炎だけが宿っていた。
「……いいでしょう、ディープ・エコー。あなたの進化、見事です。しかし、そう簡単に私を手玉にとれると思ったら大間違いよ。そして、ルナ・エコーを足止めし、私の計画を乱そうとした代償は……高くつくわよ?」
朔は、そう呟くと、ルンルンとした、どこか楽しげな笑みを浮かべた。その笑みは、怒りに満ちていながらも、新たな「挑戦」を前にした、神としての、そして「ゲーマー」としての純粋な高揚感を含んでいた。
【月詠朔:神域(旧六畳間):対ディープ・エコー作戦立案フェーズ】
朔は、激しい感情の奔流に身を震わせながらも、その並列思考を、即座に「ディープ・エコー」討伐の「作戦立案」へと集中させた。感情的な報復に終始するのではなく、最も効率的かつ、二度と「亜」の残渣がこのような存在へと変質することを許さない、根絶を目的とした計画を構築する。
彼女の脳内には、宇宙の広大な地図が展開され、脈動するように可視化される。
「シロ!」
朔の強い意志が、マスコット端末のシロに直接伝わる。シロは、ルナ・ドミニオンの感情の波を感知し、その白い表面を、青白い光で激しく明滅させていた。
『……了解しました、ルナ・ドミニオン。指示をどうぞ』
シロの声は、無機質ながらも、ルナ・ドミニオンの決意に、静かな呼応を示している。
「ディープ・エコーの正確な位置を特定し、その周囲の空間構造、エネルギー流動パターン、そして、彼が使用した『シェイド・ワープ』や『ディメンション・ワームホール』の残滓エネルギーを、最高精度のセンサーで徹底的に解析してください。一つたりとも見落としのないように。特に、彼の『神の位階』への覚醒プロセスに関する情報、そして、ルナ・エコーの思考パターンを模倣し、罠を仕掛けたその『学習能力』に関する情報を、最優先で洗い出しなさい。お願い。解析を優先して行って。」
朔の指示は、一言一句が明確で、無駄がない。彼女の瞳は、全てを見透かすかのように冷徹に輝いている。
『了解しました。当システムの全リソースを投入し、該当情報の深度解析を行います。』
シロが即座に応答し、その球体は、虹色の光を放ちながら高速で回転し始めた。その演算速度は、銀河の法則すら超えるかのようだ。
「次に、異銀河の方向へ向けて、探査範囲を最大限に拡大してください。万が一、彼が再びワームホールを開こうとしても、それを事前に感知し、強制的に遮断できるような『次元アンカー・プロトコル』を構築する。漏洩は一切許さない」
朔の声には、容赦がない。
『了解しました。次元アンカー・プロトコルを構築します。』
シロが淡々と報告する。
「そして、最も重要なこと。ルナ・エコーたちに、新たな指示を出します。これからは、個々の残渣掃討ではなく、ディープ・エコーのような『位階を上げた亜の残滓』を、根こそぎ捕捉し、無力化するための『銀河規模の罠』を仕掛けるわ。彼らの思考パターンを読み解き、最も効果的な場所へ、最も効果的な『餌』を配置するのよ。二度と、私の可愛いルナ・エコーたちが、無駄な犠牲になることは許さない」
朔の声には、失われた「自分の一部」への、深い哀しみと、それを守れなかったことへの自責が滲んでいた。だからこそ、彼女は、この復讐を完璧に成し遂げると決意していた。
『了解しました。ルナ・エコーへの指示を更新。全ユニットに対し、新たな戦略的ミッションを割り当てます。』
シロが応じると、銀河系図に散らばる無数のルナ・エコーの光点が、一斉に、新たな作戦領域へと向かって動き始めた。
「……見てなさいよ、ディープ・エコー。そして、あの卑怯な『亜』の残党どもも。
私の目指す銀河の秩序を乱し、ルナ・エコーを出し抜こうとした代償は、何百倍、何千倍にして返してあげる。
この宇宙の果てまで追い詰めて、二度と再生できないように、徹底的に、そして効率的に、塵一つ残さず消滅させてあげるわ!
みてらっしゃい!!!!」
月詠朔――ルナ・ドミニオンの慟哭にも似た宣戦布告が、高次元の彼方まで響き渡った。
その瞳には、もはや悲しみの色はなく、ただ、全てを焼き尽くすかのような、冷たく燃える復讐の炎だけが宿っていた。
星屑となった思考の欠片たちの思いを胸に、孤独な女神は、今、真の怒りをもって、その戦いへと身を投じようとしていた。