第九話:星々の夜明けと囁かれる救世主(メシア)の名
宇宙の片隅、かつて豊かな緑と水に恵まれていた惑星「エルピス」。
しかし、数世代前に「侵食因子(コードネーム:亜)」の巨大なアビス・スポア(深淵の胞子)が地殻深くに根を張って以来、この星はゆっくりと、しかし確実にその輝きを失っていった。
大地は枯れ、水は濁り、空は常に「亜」が放出する不吉なオーラで薄暗く覆われている。
そして、地表には「亜」が生み出す凶暴な怪異が闊歩し、エルピスの民は、地下深くに築いた小さな隠れ里で、息を潜めるようにして生き長らえていた。
彼らにとって、希望という言葉は、もはや遠い昔の伝説の中にしか存在しないものだった。
「…また、地鳴りがひどくなってきたな…『胞子』の奴め、さらに活動を活発化させているのか…」
隠れ里の長老であるエルドは、天井からパラパラと落ちてくる土塊を見上げ、深いため息をついた。
もう、この隠れ里も限界が近い。食料も水も底を尽きかけており、若い者たちの瞳からは、日に日に生気が失われていく。
「長老…もう、我々には…」
傍らにいた若い女性、リシアが、力なく呟いた。彼女の腕には、栄養失調で痩せ細った幼い弟が、ぐったりと抱かれている。
その時、だった。
これまで経験したことのないような、巨大な振動が、隠れ里全体を襲った。
それは、単なる地鳴りではない。まるで、星そのものが断末魔の叫びを上げているかのような、凄まじいエネルギーの激突音。
ズゥゥン…! ゴゥゥン…!
人々は、身を寄せ合い、ただ恐怖に震えるしかなかった。
「…ああ、ついに、この星も終わりなのか…」
エルドは、静かに目を閉じた。
だが、数時間後。
予想された世界の終末は訪れず、代わりに、信じられないほどの静寂が、隠れ里を包み込んだ。
そして、それまで隠れ里の入り口を固く閉ざしていた岩盤の隙間から、見たこともないほど明るく、そして温かい光が差し込んできたのだ。
「…長老! 外が…外が、大変なことに…!」
見張りの若者が、興奮した様子で駆け込んできた。
エルドは、リシアに支えられながら、おそるおそる地上へと続くトンネルを登っていった。
そして、彼らが目にした光景は――。
空を覆っていた不吉な暗紫色のオーラは完全に消え去り、代わりに、どこまでも澄み渡った青空が広がっている。
そして、その空からは、キラキラと輝く黄金色の光の粒子が、まるで雪のように舞い降り、枯れた大地を優しく照らしていた。
大地からは、ありえないほどの速さで、緑の新芽が力強く芽吹き始めている。
そして何よりも、あれほど地上を闊歩していた凶暴な怪異たちの姿が、一体も見当たらないのだ。
まるで、悪夢から覚めたかのような、信じられないほどの変貌。
「……これは…一体…?」
エルドは、言葉を失い、ただその光景を見つめていた。
リシアの腕の中で、それまでぐったりとしていた幼い弟が、かすかに目を開け、その黄金色の光に手を伸ばそうとしている。その頬には、ほんのりと血の気が戻っているように見えた。
その時、隠れ里の片隅に置かれていた、古びた通信機(それは、もはや何の役にも立たないと思われていた、先祖代々受け継がれてきた遺物だった)が、静かに起動し、そして、一つの短いメッセージを、ホログラムとして投影した。
それは、彼らの知らない言語で書かれていたが、その内容は、なぜか彼らの心に直接、理解できる形で流れ込んできた。
『――恒星系Ω-774、第三惑星エルピスにおける、侵食因子「亜」のエネルギー吸収ユニット(アビス・スポア)、活動停止を確認。当該宙域の脅威レベル、大幅に低下。惑星環境、再生フェーズへ移行。これは、「システム」による観測結果であり、そして、地球の神、ルナ・ドミニオンの分身体の介入による結果である――』
「…地球の神…ルナ・ドミニオンの…ルナ・エコー…?」
エルドは、その言葉を反芻した。
誰かが、この星を救ってくれた。それも、遠い地球という星の神の、その力の一端が。
それは、神か、あるいは、星々を渡る伝説の救世主か。
その名は、今、確かにエルピスの民に知らされた。
彼らは、空から舞い降りる黄金色の光の中に、確かにその「ルナ・エコー」の、そしてその本体である「ルナ・ドミニオン」の存在を感じていた。
それは、圧倒的な力と、そして、計り知れないほどの慈悲。
彼らは、自然と大地に膝をつき、天に向かって、深い感謝の祈りを捧げ始めた。
長い、長い冬が終わり、ようやく訪れた春の陽光のように、その黄金色の光は、エルピスの民の心に、新たな希望の種を植え付けていた。
そして、このような「奇跡」は、銀河の各地で、同時多発的に起きていた。
「亜」の支配に苦しんでいた、名もなき星々の、名もなき人々。
彼らは皆、それぞれの場所で、それぞれの形で、この「星々の夜明け」を体験し、そして、その救済をもたらした、ルナ・ドミニオンとそのルナ・エコーたちの存在を、畏敬の念と共に、心に刻み始めていた。
その「神」が、地球という辺境の星で、つい最近まで引きこもっていた一人の少女だとは、夢にも思わずに。
宇宙の歴史は、今、大きな転換点を迎えようとしていた。そして、その中心には、いつも月詠朔がいた。