第四話:神様散歩と共有されるひだまり
「――転移、完了。ここは…『オアシス・トーキョー』の、再開発予定地区のようですね、ルナ・サクヤ」
手のひらサイズの白金の球体――マスコット端末の「シロ」が、感情のないフラットな声で報告する。
ルナ・サクヤは、フードを目深にかぶり、大きなサングラスの奥から、周囲の景色を見渡した。
そこは、かつて「亜」の襲撃で半壊したビル群が、今は重機や作業員たちの手によって、少しずつ解体・整地されている、広大な工事現場のような場所だった。
だが、その空気は決して暗くはない。むしろ、新しい街を創り上げようという、人々の熱気と活気に満ちている。
「ふーん。思ったより、ちゃんとやってるじゃない。小野寺さん、意外と頑張ってるのね」
ルナは、少しだけ感心したように呟いた。
「シロ、ちょっとあっちの『ひだまりの家』の様子も見てみましょうか。ちゃんと子供たちが笑ってるか、抜き打ちチェックよ」
『了解しました。最短ルートを検索…あちらの仮設歩道橋を渡り、約15分です』
「えー、歩くの面倒くさいんだけど。まあ、たまにはいっか。これも『視察』だしね」
ルナは、ぶつくさ言いながらも、シロの案内に従って歩き始めた。
しばらく歩くと、真新しい、しかしどこか温かみのあるデザインの建物が見えてきた。
孤児院「ひだまりの家」だ。
その庭からは、子供たちの元気な歓声が聞こえてくる。
ルナは、そっと木の陰から、その様子を伺った。
庭では、数人の子供たちが、砂場で大きな山を作ったり、追いかけっこをしたりして、無邪気に遊んでいる。その笑顔は、かつてこの星を覆っていた絶望など、まるで嘘だったかのように明るい。
そして、その子供たちの中に、ひときわ小さな体で、しかしテキパキと、もっと幼い子たちの面倒を見ている少女の姿があった。
歳は8つ。栗色の髪をポニーテールにし、動きやすい服装をしている。彼女は、転んで泣き出した小さな男の子に駆け寄り、優しく頭を撫で、そして絆創膏を貼ってあげている。その少女の名は、小野寺さく。ルナが、かつて失った子供時代を「やり直す」ために、そして人間としての温もりを再び感じるために、自らの意識と力の一部を分け与えて創造した、もう一人の自分。
ルナは、常に一部のリソースを割いてさくちゃんと繋がっており、彼女が見るもの、聞くもの、感じるもの、そして考えることの全てを、まるで自分のことのようにリアルタイムで共有していた。
そのさくちゃんの傍らには、二人の少年がいた。
一人は、さくちゃんと同じくらいの歳だろうか、日に焼けた肌に、大きな瞳をキラキラさせた、見るからに元気いっぱいの少年。彼は、小さな子供たちを相手に、大げさな身振り手振りで何か面白い話をしているようで、子供たちの楽しそうな笑い声が絶えない。時折、調子に乗りすぎて転びそうになったり、他の子の砂山をうっかり壊してしまったりするが、そんな時もさくちゃんがすかさずフォローに入り、事なきを得ている。(…あれが、タイヨウくんね。相変わらず、周りを振り回してるけど、まあ、憎めない奴だわ)ルナは、さくちゃんを通じて、彼のことをよく知っていた。
もう一人は、さくちゃんよりも少し年上に見える、穏やかで優しい雰囲気の少年。歳は10歳か11歳くらいだろうか。彼は、タイヨウくんとは対照的に、落ち着いた様子で、絵本を読んだり、工作を手伝ったりしながら、子供たちと静かに交流している。時折、タイヨウくんの暴走を諌めたり、困っているさくちゃんに的確なアドバイスをしたりする姿は、まるで頼れるお兄さんのようだ。(…アサヒくん。この孤児院へのボランティア参加も、彼が学校で提案したんだったわね。本当に、しっかりしてるわ)さくちゃんも、このアサヒくんには何かと頼りにしている節があるのを、ルナは感じ取っていた。
(……さくちゃん、今日も元気そうね。タイヨウくんは相変わらずだけど、アサヒくんがいるから大丈夫か。あの子、本当に小さい子の面倒見がいいんだから。私とは大違いだわ)
ルナの胸が、キュッと締め付けられるような、甘酸っぱい痛みを感じた。
さくちゃんは、タイヨウくんやアサヒくんといった友人たちと共に、ルナが心の奥底でずっと渇望していた「誰かの役に立ちたい」「誰かと繋がりたい」という思いを、こんなにも自然に、そして眩しいほどに体現していたのだ。彼女の純粋な喜びや、時折見せる寂しさ、友達との些細な喧嘩、そして仲直りの温かさ。その全てが、ルナ自身の心にも、鮮やかな色彩となって流れ込んでくる。
「…あら、お姉ちゃん! 今日はどうしたの? 学校は、まだお休み?」
不意に、穏やかな声がかけられた。
さくちゃんが、こちらに気づき、小さな手を振りながら駆け寄ってくる。その屈託のない笑顔は、太陽のように明るく、ルナの心を直接照らすかのようだ。
「あ、うん。ちょっとね、野暮用。さくちゃんこそ、いつもお手伝い偉いわね。タイヨウくんも、アサヒくんも、ありがとう」
ルナは、咄嗟にフードをさらに深く被り、声のトーンを少しだけ変えて答えた。さくちゃんたちは、まだルナの正体を知らない。ただ、「時々ふらっと現れて、美味しいお菓子をくれたり、難しい勉強を教えてくれたりする、ちょっと変わった、でも優しいお姉さん」くらいにしか思っていないはずだ。
「えへへ。ねえねえ、今日ね、アサヒお兄ちゃんが新しい紙芝居作ってきてくれたんだよ! お姉ちゃんも一緒に見る?」
さくちゃんは、ルナの手をぐいと引っ張ろうとする。タイヨウくんも、「すっげー面白いんだぜ!」と目を輝かせている。
その小さな手の温かさと、純粋な好意が、ルナの心に直接流れ込んでくる。
(……たまには、こういうのも…本当に、悪くない…)
「ルナ・サクヤ。あちらに、小野寺拓海氏の姿を確認しました」
その時、シロが、冷静な声でルナの意識を引き戻した。
シロの視線の先には、孤児院の入り口で、保育士と何かを話している小野寺拓海の姿があった。彼は、ルナたちがいることにはまだ気づいていないようだ。だが、なぜか、時折こちらの方を気にするような、不思議な仕草を見せることがあった。
「……ふーん。小野寺さん、今日もボランティア? 相変わらず殊勝なことね。さくちゃんがお世話になってるし、ちょっと挨拶でもしておきますか」
ルナは、さくちゃんたちの手をそっと離すと、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「さくちゃん、タイヨウくん、アサヒくん、ごめんね。今日はちょっと、別のお客さんがいるみたいだから、また今度ね。これ、みんなで食べて」
そう言うと、ルナはどこからともなく、大きな袋に入った色とりどりのキャンディを取り出し、子供たちに手渡した。
「わーい!ありがとう、お姉ちゃん!」
三人は、目を輝かせてキャンディを受け取ると、すぐに他の子供たちの元へ駆け戻っていった。
ルナは、その小さな後ろ姿を、ほんの少しだけ名残惜しそうに見送ると、小野寺の方へと視線を向けた。
「さて、と。じゃあ、あの真面目な官僚さんを、ちょっとからかいに行きますか。シロ、行くわよ」
『了解しました。…ルナ・サクヤ、先ほどの貴殿の表情及び生体反応、データベースに記録された「幸福」あるいは「充足感」に類似したパターンを示していましたが…』
「うるさい。いいから行くの。あと、そのデータ、勝手に分析しないでくれる?」
ルナは、シロの言葉を遮ると、小野寺に向かって、楽しげな足取りで歩き出した。
小野寺は、やがてルナたちの存在に気づき、いつものように驚きと困惑の表情を浮かべることになる。
そして、この後、ルナに言われるがままに、美味しいと評判のアップルパイと、ついでにクレープまで奢らされる羽目になるのだが…それはまた、別のお話。
ただ、この日のルナの心には、さくちゃんの屈託のない笑顔と、彼女を通じて感じる温かな日常の断片、そして小野寺の少し困ったような、でも優しい眼差しが、鮮やかな記憶として、確かに刻まれたのだった。
それは、孤独な神様の心に灯った、小さな、しかし確かな「ひだまり」であり、彼女が「人間」であった頃の、遠い日の温もりを思い出させる、かけがえのない瞬間だったのかもしれない。




