第一話:夜明けの残響
カーテンの隙間から差し込む、細く鋭い朝日が、月詠朔の瞼を容赦なく刺激した。
うっすらと目を開けると、見慣れた自室の天井がぼんヤリと映る。空気清浄機の静かな駆動音だけが、部屋の沈黙を支配していた。いつもと変わらない、六畳間の朝。
(……朝?)
朔は重たい体をゆっくりと起こした。全身が鉛のようにだるく、特に肩と腕の関節が軋むように痛む。まるで激しい運動でもした後のような、不快な疲労感。
しかし、そんなことをした記憶は、ここ数年の朔には全くなかった。
昨日の出来事が、断片的に脳裏をよぎる。
耳鳴り。脳内に響く冷たい声。半透明のパネル。アタッシュケースと黒いスーツ。
屋上の風。眼下の惨状。そして――ライフルの重い反動と、黒い影が弾け飛ぶ光景。
(夢……じゃ、ないのか)
ベッドサイドに無造作に置かれた、黒いアタッシュケースが、その全てが現実だったと物語っていた。スーツは見当たらない。いつの間にか脱いで、どこかに放り投げたのだろうか。それすらも曖昧だった。
朔は深いため息をつき、おもむろにベッドから這い出した。
フローリングの冷たさが、妙に現実感を伴って足の裏に伝わる。
まずは、情報収集だ。何がどうなっているのか、正確に把握する必要がある。
こんな非日常的な出来事が起きたのだ。ネットが騒がしくないはずがない。
いつものように膝にノートパソコンを乗せ、電源を入れる。
起動音と共に、見慣れたデスクトップ画面が現れた。その日常的な風景に、ほんの少しだけ安堵感を覚える。だが、ブラウザを立ち上げ、いくつかの大手ニュースサイトや匿名掲示板を巡回し始めると、その安堵感はすぐに吹き飛んだ。
『謎の生命体、世界各地で同時出現か』
『〇〇市(朔の住む市)騒然、正体不明の怪物による襲撃事件、死傷者多数』
『政府、緊急対策本部を設置。国民に冷静な対応を呼びかけ』
どのサイトも、トップニュースは昨日の出来事で埋め尽くされていた。
「怪異」「怪物」「未確認生命体」――様々な呼称で語られるそれらの存在。そして、夥しい数の被害報告。目を背けたくなるような惨状を伝える記事や写真、動画の断片が、画面上に溢れていた。
(やっぱり、本当だったんだ……)
朔は乾いた唇を舐めた。
他人事のように眺めていたはずの世界の危機が、今や自分の日常と地続きになっている。その事実が、改めて重くのしかかってきた。
匿名掲示板のスレッドは、さらにカオスな様相を呈していた。
恐怖を訴える声、デマや憶測、政府への不満。
そして、そんな中で特に目を引いたのは、昨日、各地で目撃されたという「能力者」らしき人々の情報だった。
『××駅前で爆炎上げてた金髪ニキ、マジ神!』
『△△区の商店街、なんか自衛隊みたいな装備の集団が住民誘導してたぞ!あれも能力者か?』
『□□組の事務所前、怪物をメリケンサックで殴り倒してた組長いたってマジ?武闘派すぎw』
『火事場泥棒も結構出てるらしいな。クズが。』
『でも、崩れたビルから子供助け出したサラリーマンいたって話は泣ける。ああいう人が本当のヒーローだよな』
目立つのは、やはり派手な能力を使った者や、集団で組織的に動いた者たちだった。爆発を起こしたり、重火器のようなもので応戦したり、あるいは人命救助で勇敢な行動を取ったりした人々。そういった「分かりやすい活躍」をした者たちの情報が、尾ひれをつけられ、瞬く間に拡散されている。
政府も、そうした「目撃情報の多い能力者」や「組織的な活動をしているグループ」を中心に情報を収集し、事態の収拾と秩序維持を図ろうとしている、という論調の記事も見られた。おそらく、彼らを取り込み、コントロール下に置こうという魂胆なのだろう。
(……私のことなんて、誰も気付いてないか)
朔は、自分の行った狙撃に関する書き込みを探してみたが、膨大な情報の中に埋もれてしまっているのか、あるいは局所的すぎて大きな話題にはなっていないのか、すぐには見つけられなかった。
せいぜい、「なんか遠くから援護射撃があったような気がする」「気のせいかも」といった、曖昧で信憑性の低い目撃談が数件、雑多な情報の中に紛れ込んでいる程度だ。
それでいい、と朔は思った。
むしろ、好都合だ。
勝手に英雄視されたり、憶測で騒がれたりするのはご免だ。目立たず、誰にも知られず、自分のペースで動けるなら、それに越したことはない。
ズキリ、と頭の奥で軽い痛みが走った。
昨日の、あの脳内に直接響く「感覚」の残滓だろうか。
『――脅威は継続中。備えを推奨』
ふいに、あの冷たく無機質な「感覚」が、微かに脳裏をよぎった気がした。
幻聴かもしれない。あるいは、昨日の強烈な体験が残したトラウマのようなものか。
朔は、パソコンの画面から目を逸らし、部屋の隅に置かれたアタッシュケースに視線を向けた。
あれを使えば、また「戦える」。
そして、戦っても、今のところは誰にも気づかれずに済むかもしれない。
(……面倒くさいのは、変わらないけど)
それが、今の朔の、偽らざる本音だった。
しかし、同時に、昨日の屋上で感じた、あの奇妙な高揚感と、そして――助けを求める悲鳴に応えてしまった、ほんの僅かな「何か」が、胸の奥でくすぶっているのも確かだった。
世界は変わってしまった。
そして、月詠朔の日常も、もう元には戻らないのかもしれない。
ただ、その変化の波に、今のところ彼女は飲み込まれずに済んでいる。まだ、六畳間の片隅で、息を潜めていられる猶予があるようだった。