第六話:黄金の雨と新米神様の気まぐれ
「亜」の地球接続ハブが、月詠朔の手によって完全に沈黙し、地球に真の静寂と新たな希望の光が訪れてから、数日が経過した。
世界は、まるで長い悪夢から覚めたかのような、不思議な静けさと、そして戸惑いに包まれていた。
あれほど地球全土を覆い尽くしていた不吉な暗紫色の空は完全に消え去り、代わりに、どこまでも澄み渡った青空と、そして時折、空からキラキラと舞い降りてくる、温かく優しい黄金色の光の粒子が、地上を照らしていた。
この黄金色の光の粒子は、人々に驚くべき変化をもたらした。
汚染されていた大気は急速に浄化され、淀んでいた川の水は再び輝きを取り戻し始めた。枯れ果てていた大地からは、まるで春が一足飛びにやってきたかのように、力強い新芽が次々と顔を出し、異常なほどの速さで成長していく。
そして何よりも、人々の心に、深い安らぎと希望がもたらされた。長きにわたる恐怖と絶望で疲弊しきっていた魂が、まるで温かい湯に浸かるように癒されていくのを感じた。怪我や病に苦しんでいた人々の中には、奇跡的な回復を見せる者も現れ始めた。
世界中の人々は、この不可解で、しかし明らかに「善きもの」である現象を、畏敬の念をもって見上げていた。
「これは、神の祝福だ…」
「我々は、何者かに救われたのだ…」
誰からともなく、そんな囁きが広まっていく。
「スカイフォール・スナイパー」「サクヤ」「ワールドランキングNo.1」――これまで断片的に語られてきた正体不明の守護者の噂は、この世界規模の「奇跡」と結びつき、もはや伝説から「現実に存在する神」へと、その認識を変えつつあった。
人々は、その名も知らぬ神に感謝の祈りを捧げ、そして、この奇跡が本物であることを、必死に信じようとしていた。
しかし、現実問題として、地球が受けたダメージはあまりにも甚大だった。
インフラはズタズタに破壊され、食料生産システムは壊滅的な打撃を受けていた。多くの都市では、食料も水も底を尽きかけており、新たな飢饉や疫病の発生が目前に迫っていたのだ。
いくら空気が綺麗になり、人々の心が癒されたとしても、腹は満たされない。
再び、絶望の影が忍び寄ろうとしていた。
【月詠朔:神域(旧六畳間)】
ルナ・サクヤ――月詠朔は、自身の「神域」と化した六畳間で、椅子に座していた。
前の戦いの反動。その身体は微かに震え、心の奥底では、自分自身が「人」ではなくなっていくことへの、言いようのない恐怖と孤独が渦巻いていた。あの途方もない力が体内に宿るたび、「私」という存在の輪郭が曖昧になる。この圧倒的な権能と、それによってもたらされた代償に、彼女は一人、向き合っていた。
だが、世界は、彼女の個人的な葛藤を待ってはくれなかった。
彼女の脳裏に、地球のあらゆる場所で同時並行的に流れる膨大な情報が、とめどなく流れ込んでくる。全てを処理する能力は、既に彼女の「肉体」に備わっていた。目を閉じようが、耳を塞ごうが、その「情報」は、彼女の意識の奥深くに、ダイレクトに届き続け、そも意味も理解出来てしまう。
浄化された大気の下で、それでもなお、飢餓に苦しむ人々の姿が「見えた」。疲弊し、力を失っていく生命の輝き。特に、栄養が足りずに小さく身を寄せ合う子供たちの「情景」が、彼女の意識の深い場所に、焼き付いた。その瞳の奥に、かつて自身が体験した、あの孤児院の悲劇の「痛み」の残滓が、チクリと蘇る。
(……このままだと、疲弊したり、飢え死にしたりする人がきっと出てくる...。 あの子たち(孤児院の子供たち)までお腹を空かせちゃうなんて……そんなの、見ていられない。こんな不完全なままなんて、許容できない。もうこれ以上、悲しい顔は、させない)
朔の口元に、いつもの不敵な、そしてどこか楽しげな笑みが浮かんだ。
彼女は、再び意識を集中させ、その膨大な力の一部を、地球のあらゆる人の住まう地域へと、慈雨のごとく差し伸べた。
それは、もはや戦闘のための力ではない。創造と再生のための、優しい力。
そして、世界各地で再び「奇跡」が起きた。
人の暮らしている周囲では、破壊された橋や道路がまるで早送り映像のように、みるみるうちに修復されていく。
枯れた井戸からは、再び清らかな水が湧き出し始めた。
そして何よりも驚くべきは、農地だった。
荒れ果て、作物が全滅していたはずの畑に、一夜にして、瑞々しい野菜や穀物が実り始めたのだ。それも、これまでの数倍の収穫量で。
漁港では、汚染されていた海水が浄化され、魚たちが群れをなして戻ってきた。
これらの現象は、もはや人間の理解を超えていた。
だが、人々は、それが自分たちを見守る「誰か」からの、さらなる「御利益」であることを、肌で感じ取っていた。
彼らは、天に向かって再び感謝の祈りを捧げ、そして、与えられた恵みを分かち合い、新たな生活を築き始めるための、力強い一歩を踏み出した。
(……うん、まあ、こんなもんでしょ。あとは、自分たちで頑張ってね。いつまでも神頼みじゃ、種としての成長もないだろうし)
朔は、一連の「大盤振る舞い」を終えると、満足げに頷いた。
彼女にとって、それは気まぐれな「サービス」であり、そして、自分の新しい力を試すための「実験」でもあったのかもしれない。
だが、その結果として、多くの命が救われ、世界が再生への道を歩み始めたことは、紛れもない事実だった。
新米神様は、その仕事ぶりに自分で及第点をつけ、そして、ふと窓の外(もちろん、それは彼女の心象風景の中の窓だが)に目をやった。
黄金色の光の粒子が舞う、穏やかな世界。
そこに生きる人々の、ささやかな、しかし確かな笑顔。
(……悪くないわね、こういうのも)
朔は、ほんの少しだけ、そう思った。
彼女の「ひとりぼっち」の戦いは終わった。
そして、これからは、この星の「ひとりぼっちの神様」として、何を思い、何をしていくのか。
それは、彼女自身にも、まだ分からない、新しい物語の始まりだった。




