第五話:覚醒の代償と届かぬ震え
「亜」の地球接続ハブが、月詠朔の手によって完全に沈黙し、地球に真の静寂と新たな希望の光が訪れてから、数日が経過した。
ルナ・サクヤ――月詠朔は、自身の「神域」と化した六畳間で、静かに、しかし深い疲労感と共に、椅子に座していた。
惑星規模の防衛現象「サイレント・ジェネシス」を成功させ、さらに「亜」の本体の接続ハブを無力化し、そのエネルギーを再分配して地球を再生させるという、途方もない偉業を成し遂げた。その成果は、彼女の脳内に広がる情報ネットワークが示す通り、完璧だった。
しかし、その完璧な「結果」とは裏腹に、朔の心の奥底では、これまで経験したことのない、激しい「反動」が押し寄せてきていた。
戦いの最中は、高次元からの途方もないエネルギーの奔流、並列思考による膨大な情報処理、そして「守りたい」という純粋な感情が、彼女を一種の「躁状態」へと駆り立てていた。恐怖も、痛みも、人間としての限界も、全てが遠のき、ただひたすらに「為すべきこと」に集中していた。
だが、今。
戦いが終わり、訪れた静寂の中で、その全てが、まるで雪崩のように押し寄せてきたのだ。
(……ああ、そうか。私は、あの時……)
朔の瞳に、激戦の記憶が、鮮明に蘇る。
脳髄を焼き切らんばかりの、途方もないエネルギーの奔流。
肉体が内側から引き裂かれるような激痛。
そして、あの瞬間、自分自身の「存在」が、バラバラに分解され、再構築されていく、抗いようのない感覚。
それは、人間としての月詠朔が、別の「何か」へと変貌していく、不可逆的なプロセスだった。
その時、彼女は「これで、この星を救える」と、ただひたすらにその力に食らいついていた。だが、今、冷静になって思い返すと、それは、想像を絶するほどの恐怖だった。
(……私、あの時、本当に「私」だったの……?)
朔の指先が、微かに震え始めた。
その震えは、全身へと伝播し、やがて彼女の体は、まるで激しい発作にでも襲われたかのように、ガタガタと制御不能に揺れ始めた。
それは、かつて彼女が感じたことのない、根源的な恐怖。
人は、未知の存在に触れる時、畏怖を覚える。だが、彼女は、自分自身が、その「未知の存在」へと変貌してしまったのだ。
この手は、本当に私自身のものなのか?
この思考は、私の自由な意志なのか?
彼女の頭の中には、これまで吸収してきた高次元の情報が、まるで異質なノイズのように渦巻いている。何が人間的な思考で、何が「システム」からの影響なのか、境界が曖昧になりつつあった。
(……こわい……っ)
声にならない叫びが、朔の心の奥底で木霊した。
だが、この世界で、彼女のこの恐怖を共有し、理解してくれる者は、どこにもいない。
彼女は、たった一人で、この途方もない「覚醒の代償」と向き合わなければならないのだ。
(……誰か……怜先生…)
幼い頃、恐怖に震える朔の小さな手を、優しく包み込んでくれた、孤児院の先生の手の温もり。
人間不信に陥った後も、心の奥底で、誰かとの「繋がり」を求めていた、かつての自分。
その無意識の渇望が、今、激しい震えと共に、彼女の全身を駆け巡っていた。
だが、その願いは、誰にも届かない。
彼女は、もはや「神」という、孤独な存在になってしまったのだから。
その瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは、人類を救った神が流すには、あまりにも人間的で、そしてあまりにも淋しげな涙だった。
だが、その涙も、静かな部屋の空気に吸い込まれ、彼女自身の頬を冷たく伝うだけで、誰にも気づかれることはなかった。
傍らで、マスコット端末のシロ(システム)が、静かに光を放っていた。
『ルナ・サクヤ。貴殿の精神的閾値、及び、生体反応に、極めて大きな変動を感知。これは、地球人類が「恐怖」あるいは「孤独」と呼称する、情動的反応と酷似しています。…貴殿の精神的恒常性は、現在、一時的な不安定状態にあります』
シロの無機質な声が、朔の耳に届く。
シロは、彼女の心の奥底で渦巻く感情を、ただのデータとして分析し、報告するだけ。
「システム」は、彼女の能力を拡張し、宇宙の調和を保つための「ツール」としては最適だった。
だが、彼女の人間的な「痛み」を、真に理解し、共感してくれる存在ではない。
朔は、震える手で、そのシロの白い球体に、そっと触れようとした。
しかし、彼女の手がシロに触れる寸前で、ぴたりと止まった。
彼女は、視線を地に落とし、力なく手を下ろし、再び自分の膝を抱きしめた。
孤独な神の、「悲鳴」は、宇宙の静寂の中に、音もなく消えていった。
彼女は、この圧倒的な力と、それによってもたらされた「孤独」という代償に、これからもずっと、一人で向き合っていかなければならない。
それが、人類を救った「神」の、誰にも知られることのない現実だった。




