第二話:絶望の侵攻と魂の咆哮
月詠朔が高次元空間へとその身を投じた、まさにその瞬間。
地球全土を、かつてない規模の異変が襲った。
【地上:内閣府災害対策本部】
「――緊急事態発生! あらゆる観測値が異常値を計測中!全世界同時で急激に増大! これは…これは、もはや予測不能なレベルです!」
研究者の悲鳴に近い報告が、対策本部の重苦しい空気を切り裂いた。
大型モニターに映し出された地球のホログラムは、その表面の大部分が、不吉な暗紫色へと急速に染め上げられていく。
大地は、まるで巨大な獣の鼓動のように不気味な振動を繰り返し、空は、鉛色の雲が渦を巻くように厚く垂れ込め、太陽の光を完全に遮断した。
そして、これまでとは比較にならないほどのおぞましく、そして濃密な「気配」が、世界中の人々を絶望の淵へと突き落とさんばかりに、覆い尽くしていく。
それは、「侵食因子(コードネーム:亜)」が、地球という星に対して、これまでで、最大の牙を剥いた瞬間だった。
「各地より入電! 新種の、そしてこれまでとは比較にならないほど強力な怪異が、同時多発的に出現!」
「ニューヨーク、ロンドン、北京、モスクワ…主要都市、次々と防衛ライン突破されています!」
「日本国内も…ダメです! 〇〇市周辺以外の防衛網は、ほぼ壊滅状態です!」
次々と叩きつけられる絶望的な報告に、小野寺拓海は唇を噛み締めた。
これが、朔さんが言っていた、最後の戦い…。
彼女は今、この地獄のような状況の、さらにその根源と戦っているというのか。
【月詠朔:高次元戦域】
「亜」の地球接続ハブへと続く、異次元の回廊。
月詠朔は、その中心核へと向かう道中で、想像を絶する規模の「防衛部隊」と遭遇していた。
それは、もはや個々の怪異というよりは、暗紫色のエネルギーそのものが意思を持ったかのような、おぞましい群体。それらが、まるで津波のように、あらゆる方向から彼女に襲いかかってくる。
(……さすがに、数が多すぎる…! でも、私がここで引くわけにはいかない!)
(私は!絶対に!負けられない!の、よ!)
朔は、並列思考をフル回転させ、「聖域サンクチュアリ・プロトコル」を最大出力で展開。
彼女の周囲に、幾何学的な光の障壁が瞬時に形成され、同時に、無数の追尾型エネルギー弾が、その障壁の内側から嵐のように放たれる。
高次元エネルギーを凝縮したその弾丸は、襲い来る「亜」の防衛部隊を次々と貫き、爆散させていく。
最初は、その圧倒的な物量に押されかけた朔だったが、覚醒したばかりの彼女の力は、まさに底が知れない。
彼女が放つエネルギーの密度と量は、時間と共に増していき、徐々に、しかし確実に、「亜」の防衛部隊を押し返し始めたのだ。
『……侵入者の戦闘能力、予測値を超過…防衛ライン、後退…』
「亜」の群体意識の中に、初めて「焦り」に似た感情が芽生えた。
このままでは、中心核への到達を許してしまう。
ならば――。
「亜」の戦術が、突如として変化した。
これまで朔に集中していた攻撃の手を緩め、その一部が、まるで彼女を無視するかのように、物理次元の地球へと繋がる「穴」へと、直接向かい始めたのだ。
彼女を足止めしている間に、地球そのものを完全に掌握してしまおうという、狡猾な作戦転換だった。
(……まずっ…! あいつら、私を無視して地球に…!)
朔の意識の一部が、地球の状況を捉える。
日本、〇〇市。孤児院「ひだまりの家」の上空にも、巨大な次元の穴が開き、そこから、これまで見たこともないほど巨大で、禍々しい姿をした怪異たちが、地上へと降下し始めている。
子供たちの悲鳴が、彼女の脳裏に直接響いてくるかのようだ。
「――行かせる…わけには…いかないっ!!!!」
その瞬間、月詠朔の魂が、限界を超えた咆哮を上げた。
彼女の全身から、凄まじいまでの光が迸る。
(…無理やりっ!こじ開けるまでっ…!)
彼女は、地球へと向かう敵の群れと、それを阻むように存在する高次元の「壁」を、同時に視界に捉えながら、ありったけの力を右腕に集中させた。
周囲の高次元エネルギーが、彼女の腕に収束し、ミシミシと軋む音を立てる。
「……開いてっ!!!!」
一閃。
彼女の腕から放たれたのは、空間そのものを断ち切る、純粋なエネルギーの奔流だった。
それは、高次元の「壁」に巨大な亀裂――「隙間」――を作り出した。
そして、その隙間の向こう側に、地球へと雪崩れ込もうとする、おびただしい数の怪異の影が見えた。
「行っかせるか..ぁあああ!!」
朔は、その隙間に向かって、両手を突き出した。
彼女の掌から、眩いばかりの光が集束し、次の瞬間、それは巨大なエネルギーの「大太刀」へと姿を変えた。
その大太刀が、一閃される。
まるで時が止まったかのような静寂の後、隙間の向こうに見えていた怪異の群れは、その全てが、一刀両断にされ、光の粒子となって霧散していった。
しかし、その絶大な一撃は、朔にも大きな負担を強いた。
右腕は力なく垂れ下がり、息も絶え絶えだ。
だが、彼女の瞳には、まだ闘志の火が燃え盛っている。
(……まだ…終わらせない…!)
月詠朔の、本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。
そして、その魂の咆哮は、地球の運命を、そして彼女自身の運命を、大きく揺るがす序曲に過ぎなかった。




