第八話:託された祈りと語られるべき真実
月詠朔が光の中へと消え、再び一人東屋に取り残された小野寺拓海は、しばらくの間、その場から動けずにいた。
先ほどまでの出来事が、あまりにも現実離れしていて、まるで夢幻の中にいたかのようだ。
だが、右手に握られた小さなオルゴールの、ひんやりとした金属の感触だけが、それが紛れもない現実だったと告げている。
オルゴールには、ただ一言、「約束」とだけ、繊細な文字で刻まれていた。
(……行ってしまった...か…。本当に、たった一人で…人類の存亡を賭けた戦いに…)
小野寺は、空を見上げた。快晴の空には、いつもと変わらない太陽が輝いているだけだ。
だが、今、この瞬間も、あのまだ幼さを残す少女は、我々の想像もつかないような高次元の空間で、孤独な、そして壮絶な戦いを挑んでいる。
その事実に、彼は改めて、身が震えるような畏怖と、そして、言葉にできないほどの感謝と、何よりも深い敬意を覚えた。
彼女は言った。「私が戻らなかった場合…あるいは、戻ってきても、以前の私とは違う『何か』になってしまっていた場合…その後のことを、あなたに少しだけお願いしたいの」と。
孤児支援基金の継続。日本政府との「契約」の維持。そして…「私のことは、すぐに忘れてほしい」。
その最後の言葉が、小野寺の胸を強く締め付けた。
(忘れられるはずがない…! いや、絶対に忘れさせてはならない…!)
小野寺は、強く拳を握りしめた。
あの神々しいまでの姿。幼さを残しながらも、全てを見透かすような慈愛と決断力に満ちたまなざし。そして、最後に向けられた、穏やかで優しい微笑み。
それらは、彼の脳裏に鮮明に焼き付いて離れない。
そして何よりも、彼女が払おうとしている犠牲の大きさと、その気高い決意を、このまま誰にも知られずに終わらせていいはずがない。
彼女の頑張りは、称えられるべきだ。彼女の行動は、感謝されるべきだ。たとえ、彼女自身がそれを望まなかったとしても。
「……私は、私にできる戦いを始めなければならない」
小野寺は、静かに、しかし鋼の意志を込めて呟いた。
彼の戦場は、高次元の空間ではない。この、矛盾と欺瞞に満ちた、現実の人間社会だ。
そして、その最初の戦いは、政府という巨大な組織の中で、彼女の真実を語り、彼女の名誉を守ることだ。
対策本部に戻った小野寺は、危機管理監をはじめとする上層部に対し、朔との会談の内容を、一部の機微に触れる部分を除き、包み隠さず報告した。
そして、最後に、彼はこう付け加えた。
「――サクヤは…いえ、彼女は、今この瞬間も、我々人類の未来のために、たった一人で、存在そのものが消滅するかもしれないという危険を冒して、敵の根源に戦いを挑んでおられます。その結果がどうなるかは、誰にも分かりません。しかし、我々はその事実を、そして彼女の払おうとしている犠牲を、可能な限りのすべての人が知るべきだ。そして、もし…もし彼女が帰還を果たしたならば、我々は最大限の敬意と感謝をもって彼女を迎え入れ、彼女が望む未来の実現に、国を挙げて協力すべきです。たとえ、彼女がそれを望まなかったとしても、それが、残された我々の最低限の責務だと、私は信じます」
小野寺の言葉は、会議室に重い沈黙をもたらした。
彼の真摯な、そして魂からの叫びとも言えるその訴えは、日々の危機対応に疲弊し、どこか現実感を失いかけていた幹部たちの心を、強く揺さぶった。
彼らは、初めて、自分たちが「サクヤ」と呼んできた存在の、人間的な側面と、その行動の裏にある壮絶な覚悟の一端に触れたのかもしれない。
「……分かった、小野寺君」
しばらくして、危機管理監が、静かに、しかし確かな声で言った。
「君の報告、そして君の思いは、確かに受け止めた。我々も、サクヤの…いや、彼女の帰還を、心から祈ろう。そして、その時が来たら、我々ができる最大限のことをしよう。それが、この国を救ってくれた、あるいは、救おうとしてくれている存在に対する、我々の誠意だろう」
その言葉は、まだ小さな一歩かもしれない。
だが、それは確かに、政府という巨大な組織の中で、月詠朔という存在に対する認識が、単なる「規格外の力」から、「敬意を払うべき守護者」へと変わり始める、最初の瞬間だった。
小野寺は、掌の中のオルゴールをそっと握りしめた。
そのひんやりとした感触が、なぜかとても温かく感じられた。
彼は、心の中で、強く、強く祈った。
(……朔さん。あなたの頑張りは、決して無駄にはしません。そして、必ず、あなたが安心して戻ってこられる場所を…いえ、あなたが望むなら、いつでも「普通の女の子」として暮らせるような、そんな世界を、私たちは…いいえ、私が、必ず作ってみせますから…!)
彼の祈りが、高次元の彼方へと届くことを信じて。
小野寺拓海の、そして日本の、新たな戦いが、今、確かに始まったのだ。
見えざる神の帰還を待ちながら、残された者として、語られるべき真実を胸に、果たすべき使命のために。
■□■ 2025-11-07 輝夜より。
まずは、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この物語を書き上げた当初は、会心の出来だと感じていました。
しかし、正直な話、50話を過ぎたあたりから筆が止まり、完成までには大変な苦しみを味わいました。そのもがきの中で多くのことを学び、強引にでも完結させた経験は、大きな自信につながっています。
この作品は、私にとって次へ進むための大きな習作となりました。
そして今、この物語にはもっと大きな可能性があると確信しています。
そう遠くないうちに必ず、全面改修しに戻ってきます!
その時を楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。
このあと、輝夜がもがき苦しんだ物語が、200話まで進みます。その中で、人(神?)の気持ち、その移ろい、人との関わりとその心の動き。粗削りながらこの時の精一杯を楽しんで頂けたら嬉しいです。
かぐや。
...まだ3か月位前の自分。よく頑張った(笑)




