第七話:最後の茶会と託された未来
小野寺拓海は、再びあの公園の東屋にいた。
数日前、朔から送られてきたメールには、「作戦実行前に、貴殿と一度、直接お会いし、いくつかの重要事項について最終的な確認と、そして…まあ、少しだけ『お願い』をしたい」と記されていた。
「作戦の成否は不明」「最悪の場合、当方の存在そのものが消滅する可能性も」――その言葉の重みが、小野寺の胸にずっしりとのしかかっていた。
彼は、政府上層部には「サクヤからの定期連絡及び状況確認」とだけ報告し、この会合の本当の意味は伏せていた。これは、国家の役人としてではなく、一人の人間としての、彼なりの誠意だった。
約束の時間きっかり。
前回と同じように、何の気配もなく、ふわり、と彼の目の前に、朔が現れた。
だが、その姿は、前回とは明らかに異なっていた。
深くフードを被り、大きなサングラスで顔を隠しているのは同じだったが、その全身から放たれるオーラが、まるで違っていた。
以前の、どこか人間離れした、しかしそれでも「少女」の範疇に収まっていた気配は消え、代わりに、言葉では言い表せないほどの、神々しさと、そして宇宙の深淵を思わせるような、静かで絶対的な圧力が感じられた。
フードの隙間からわずかに覗く髪は、陽光を反射して銀糸のように輝き、サングラスの奥の瞳は、まるで星々そのものを宿したかのように、深く、そして全てを見透かすような光を湛えている。
顔立ちは、依然として幼さを残しているように見えるが、その表情には、もはや以前のような気まぐれさや挑発的な響きはなく、ただ静謐な決意と、そしてどこか人間を超越した、慈愛に満ちた落ち着きが漂っていた。
「……小野寺さん。来てくれて、ありがとう」
その声もまた、以前とは異なっていた。
少女の声であることは変わらないが、その響きには、まるで幾重にも重なったコーラスのような、あるいは星々の囁きのような、不思議な深みと広がりが感じられた。
「あ…サクヤ…様…」
小野寺は、思わず息を飲んだ。目の前の存在が、もはや自分が知る「人間」の領域を完全に超えていることを、肌で感じ取ったのだ。
彼は、反射的に膝を折りそうになるのを、必死でこらえた。
「そんなに緊張しないで。今日は、ただの『お茶会』のつもりだから」
月詠朔は、そう言うと、ふっと微笑んだように見えた。その笑みは、以前の「にひひっ」という小悪魔的なものではなく、もっと穏やかで、全てを包み込むような、優しい微笑みだった。
「でも、その前に、少しだけ大事な話があるの。…場所を変えましょうか」
そう言うと、彼女は小野寺の手を、前回よりもさらに自然な仕草で取った。
そして、次の瞬間、二人の姿は、見慣れた公園の東屋から、どこか高次元に存在する、光と幾何学模様で構成された、不思議な「空間」へと転移していた。
そこは、六畳間でも、喫茶店でもない。おそらくは、彼女が新たに創造した「神域」の一端なのだろう。
「……ここは?」
「私の『書斎』みたいなもの。ここなら、誰にも邪魔されずに話せるから」
朔は、そう言うと、小野寺の前に、光で編まれたような椅子とテーブルを「出現」させ、そして、温かい紅茶の入ったカップを差し出した。その所作は、あまりにも自然で、まるで魔法のようだった。
「さて、本題だけど」
朔は、紅茶を一口含むと、静かに語り始めた。
「私は、これから『亜』…あなたたちが『怪異』と呼んでいるものの、本当の根源を断ちに行く。それが成功すれば、地球は恒久的な平和を取り戻せるはず。でも、失敗すれば…まあ、その時はその時だね」
その口調は淡々としていたが、その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。
「もし、私が戻らなかった場合…あるいは、戻ってきても、以前の私とは違う『何か』になってしまっていた場合…その後のことを、あなたに少しだけお願いしたいの」
小野寺は、ゴクリと喉を鳴らした。彼女が何を言おうとしているのか、薄々感づいていた。
「まず、孤児支援基金のこと。あれは、必ず継続させてほしい。どんな形でもいい。あの子たちが、安心して笑って暮らせる場所を、必ず守ってあげて」
「……はい。必ず」
「それから、日本政府との『契約』。私が不在になったとしても、あれは有効であり続けるように、あなたが尽力してほしい。あの『活動資金』は、もはや私の個人的なものではなく、この星の未来のために使われるべきものだから。その管理と運用を、あなたに託したい」
「……私に、ですか…?」
「あなたしかいないでしょ? あの政府の中で、私が唯一『話ができる』と判断した人間なんだから」
朔は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「そして、最後に…もし、私が本当に『消えて』しまったら…私のことは、すぐに忘れてほしい。そして、あなたは、あなたの信じる未来のために、生きて」
その言葉は、あまりにも静かで、そしてあまりにも優しかった。
小野寺は、胸が締め付けられるような思いだった。目の前の存在は、もはや神に近い。だが、その言葉の端々には、確かに「月詠朔」という一人の少女の、切実な願いが込められているように感じられたのだ。
「……必ず、戻ってきてください。そして、また…あの喫茶店で、ケーキを…」
小野寺は、声を詰まらせながら、それだけを言うのが精一杯だった。
「ふふっ、そうだね。もし無事に帰ってこれたら、今度は私が奢る番かな。世界一美味しいケーキ、用意しておくから」
朔は、優しく微笑んだ。
その笑顔は、もはやフードやサングラスでは隠しきれないほど、神々しく、そして美しかった。
そして、その姿は、おそらくこの瞬間、地球上でただ一人、小野寺拓海だけが見ることを許された、真の「守護神」の姿だったのかもしれない。
「じゃあ、そろそろ行ってくるかな。…ありがとう、小野寺さん。あなたと話せて、少しだけ、心が軽くなった気がする」
朔はそう言うと、静かに立ち上がり、そして、光の中へと溶け込むように、その姿を消した。
残されたのは、温かい紅茶の香りと、そして、小野寺の心に深く刻まれた、彼女の最後の笑顔だけだった。
小野寺は、しばらくの間、その不思議な空間で、一人佇んでいた。
やがて、彼が我に返ると、そこは元の公園の東屋だった。手には、いつの間にか、小さなオルゴールのようなものが握られていた。それには、ただ一言、「約束」とだけ刻まれている。
彼は、そのオルゴールを強く握りしめ、そして、空を見上げた。
(……必ず、ご無事で…サクヤ…いや、朔さん…!)
彼の祈りが、高次元の彼方へと届くことを信じて。




