第五話:それぞれの静寂、それぞれの予感
月詠朔による惑星規模の防衛現象――「サイレント・ジェネシス」が地球全土を覆ってから、数日が経過した。
あれほど猛威を振るった怪異の群れは、まるで幻だったかのようにその姿を消し、世界には奇妙なほどの静寂が訪れていた。
それは、多くの人々にとって、悪夢の後の、信じがたいほどの安堵であり、同時に、次なる嵐の前の不気味な静けさのようにも感じられた。
〇〇市南々東エリア、新設された孤児院「ひだまりの家」
「せんせー!見て見て!お花が咲いたよ!」
小さな女の子が、プランターに咲いたばかりの黄色いタンポポを指差しながら、保育士の若い女性に駆け寄った。その笑顔は、数日前まで世界の終わりを予感させるような恐怖に怯えていた子供とは思えないほど、屈託がない。
この孤児院は、まさに「サイレント・ジェネシス」の直前に、最初の子供たちを受け入れたばかりだった。そして、あの言葉にできないほどの恐怖体験――空から降り注ぐ無数の黒い影と、建物を揺るがす轟音――は、子供たちの心に深い傷を残すかと思われた。
だが、それらは、本当に一瞬にして「消えた」のだ。
何が起きたのか、大人たちにも説明できない。ただ、自分たちは「守られた」のだと、漠然と感じるだけだった。
子供たちは、その「奇跡」を、もっと素直に受け止めていた。
「きっと、お空のヒーローが助けてくれたんだよ!」
「うん!強くて、カッコいい、ヒミツのヒーロー!」
彼らは、まだ見ぬ守護者の存在を信じ、そして、そのおかげで取り戻せた日常の中で、少しずつ笑顔を取り戻し始めていた。
保育士の女性は、子供たちの無邪気な言葉に微笑みながらも、空を見上げた。
(…本当に、誰かが私たちを…この子たちを守ってくれているのなら…どうか、この平穏が一日でも長く続きますように…)
その祈りは、静かな青空へと吸い込まれていった。
北米大陸、かつて大都市だった場所の、再建が始まったシェルター
「ジャック!見てくれ!この植物、どうやら食えるらしいぞ!」
瓦礫の中から、泥まみれの若い男が、数本の見慣れない植物の根を手に、興奮した様子でジャックの元へ走ってきた。
あの日、「No.1」と名乗る(あるいは、そう伝えられた)謎の存在によって、壊滅寸前から救われた彼らは、今、必死にこの場所での生活再建を試みていた。
通信は依然として不安定で、外部からの支援も期待できない。だが、彼らの心には、あの絶望的な状況を覆した「奇跡」の記憶が、確かな希望として灯っていた。
「『No.1』か…あいつは、今どこで何をしているんだろうな…」
ジャックは、空を見上げながら呟いた。
「またいつ、あのバケモノどもが襲ってくるか分からない。だが、俺たちはもう諦めない。あいつが示してくれた希望がある限り…そして、いつか、この手でこの街を復興させて、あいつに胸を張って礼を言える日が来るまでな」
彼の言葉に、仲間たちが力強く頷く。彼らは、自分たちを救った「No.1」の正体も目的も知らない。だが、その存在が、彼らに再び立ち上がる力を与えてくれたことは、紛れもない事実だった。
ヨーロッパ某国、古都の地下に潜む騎士団の残党
「…団長。日本の『サクヤ』に関する新たな情報が入りました。どうやら、今回の『グレート・サイレンス』(彼らはサイレント・ジェネシスをそう呼んでいた)は、その『サクヤ』…いや、ワールドランキングNo.1と同一視される存在による、惑星規模の介入であった可能性が高い、と…」
若い騎士が、途切れ途切れの通信から得た情報を、老騎士に報告する。
老騎士は、静かに目を閉じたまま、その報告を聞いていた。
「…やはり、そうか。我々が祈りを捧げた、あの星の光は、一人の人間…いや、もはや人間を超えた存在によるものだったのか…」
彼は、あの日、自分たちを救った黄金色の光の盾と、無数の光の矢を思い出す。
「我々は、その存在に感謝すると共に、その力の意味を真剣に考えねばならん。それは、我々が依存すべき奇跡なのか、それとも、我々自身が目指すべき理想の姿なのか…」
老騎士の言葉は、残された騎士たちの心に、重く、そして深く響いた。彼らは、この奇跡の後に訪れた静寂の中で、自分たちの存在意義と、これからの戦いの意味を、改めて問い直そうとしていた。
アジア某大国、秘密情報機関の地下施設
「…分析結果が出ました。今回の『サイレント・ジェネシス』と呼称される現象は、特定の個人、あるいは極めて小規模なグループによる、高次元エネルギーの行使である可能性が98.7%です。そして、その発生源は、ほぼ間違いなく、日本国内の特定エリア…コードネーム『サンクチュアリ』と目される場所です」
スーツ姿の分析官が、厳しい表情で上官に報告する。
「日本の『サクヤ』…あるいは『ワールドランキングNo.1』。我々が血眼になってその情報を追っていた存在が、これほどの力を持っていたとは…正直、計算外だ」
上官は、苦々しげに呟いた。
「彼らは、この力をどう使うつもりなのか? 日本だけの守護者として留まるのか、それとも、世界の覇権を狙うのか…いずれにせよ、我々はこの『規格外』の存在に対し、新たな戦略を構築する必要がある。友好的な関係を築くべきか、それとも…」
彼の言葉の先には、国家間の冷徹なパワーゲームと、そして、人類全体の未来を左右しかねない、重大な選択が横たわっていた。
世界各地で、人々は、この突如として訪れた「静寂」の意味を、それぞれの立場で受け止め、そして、それぞれの未来を模索し始めていた。
その全ての中心に、月詠朔という一人の少女がいることを知らずに。
そして、その少女が、今まさに、この静寂を打ち破る、次なる「一手」を準備していることも。
地球という盤上で、駒たちは静かに動き出し、そして、見えざるゲームマスターは、次の一手を静かに待っていた。




