第三話:創世の光、あるいは始まりの現象
月詠朔の意識が、高次元からのエネルギー奔流という名の嵐を乗り越え、再びクリアな輪郭を取り戻した時、彼女の世界認識は、以前とは比較にならないほど変貌していた。
もはや、六畳間の壁も、マンションの外の喧騒も、彼女の感覚を遮るものではない。
彼女の意識は、あたかも地球全体を包み込む薄いヴェールのようであり、同時に、そのヴェール上のあらゆる一点に、瞬時に焦点を合わせることができる、無数の「目」でもあった。
並列多重思考は、もはや思考というよりも、自然な呼吸に近い。世界各地で同時多発的に進行する危機を、彼女は個別の事象として、しかし一つの連続したタペストリーのように、同時に把握し、分析し、そして対応策を編み出していく。
(……まずは、あの孤児院。そして、日本国内の主要都市。それから、SOS信号が特に強い、北米、ヨーロッパ、アジアのいくつかの拠点…もっとだ。もっと広く、もっと、いますぐに…!)
彼女の脳裏に、複雑怪奇な光のネットワークが瞬時に構築されていく。それは、彼女がこれまでに蓄積してきた知識と、「システム」から与えられた高次元技術、そして何よりも、彼女自身の天才的な発想力が融合して生まれた、地球規模の防衛システム――「聖域・プロトコル」とでも呼ぶべきものだった。
それは、まだ荒削りで、即興の部分も多い。だが、そのポテンシャルは計り知れない。
「――起動」
朔の口から、静かな、しかし有無を言わせぬ意志のこもった言葉が紡がれる。
次の瞬間、彼女の「神域」と化した六畳間を中心に、目には見えないエネルギーの波動が、地球全体へと広がっていった。
世界各地で、ほぼ同時に「現象」が起きた。
〇〇市南々東エリア、孤児院を襲っていたファングキャット・改とスティンガーバットの群れは、突如として動きを止め、そして、まるで陽炎のようにその姿を掻き消した。一瞬前まで絶叫が響いていたその場所は、信じられないほどの静寂に包まれ、呆然とする子供たちの前に、ただ青空だけが広がっていた。
東京、大阪、名古屋――日本の主要都市の上空で、無数の怪異の軍勢が、あたかも巨大な透明な壁に衝突したかのように、次々と空中で爆散していく。地上からは、まるでオーロラのような美しい光のカーテンが、都市全体を覆っているように見えたという。
北米大陸の、陥落寸前だったシェルターでは、内部に侵入していた怪異たちが、一斉に苦悶の声を上げてその場に崩れ落ち、そして、まるで砂のようにサラサラと崩れて消えた。シェルターの外では、空を覆っていたスティンガーバットの群れが、一羽残らず、閃光と共に消滅した。
ヨーロッパの古都では、最後の抵抗を試みていた騎士団の前に、突如として黄金色の光の盾が出現し、怪異の猛攻を完全に防ぎきった。そして、その盾から放たれた無数の光の矢が、騎士団を包囲していた敵を一掃した。
アジアの経済都市では、暴走する怪異によって破壊されつつあった高層ビル群が、不思議な力によって修復され、同時に、都市機能を麻痺させていた全ての怪異が、機能停止したかのようにその場に倒れ伏した。
それは、もはや個人の戦闘や、局地的な防衛というレベルの話ではなかった。
地球上の、危機に瀕したあらゆる場所で、ほぼ同時に、あたかも神の御業としか思えないような「救済」が、人知を超えたスケールで展開されていく。
ある場所では、敵が不可視の力によって握り潰され、ある場所では、敵が光の奔流に飲み込まれて消滅し、またある場所では、敵が出現する前に、その出現ポイント自体が空間ごと「封鎖」される。
そのどれもが、月詠朔という一個人の、並列処理された意識と、新たに獲得した「時空間制御」や「物質再構築」といった能力の、ほんの一端の現れに過ぎなかった。
(……まだだ。まだ足りない。もっと効率的に、もっと広範囲に、もっと確実に…!)
朔の意識は、地球全体を駆け巡りながら、その防衛システムをリアルタイムで最適化し、進化させていく。
それは、もはや「戦い」というよりも、壮大な「創造」であり、そして「調律」だった。
地球という傷ついた楽器を、彼女がその繊細な指先で、再び美しい音色を奏でられるように、丁寧に、そして力強く調律していくかのように。
この「現象」は、数時間に渡って続いた。
そして、ついに、地球上から、感知できる限りの「怪異」の反応が消滅した時。
月詠朔は、ふぅ、と深く、そして長い息を吐いた。
全身を駆け巡っていた膨大なエネルギーの奔流は、ようやく穏やかな流れへと変わり、彼女の意識もまた、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
(……とりあえず、これで…ひとまずは、凌いだ…かな)
達成感と、それ以上の、これまで感じたことのないほどの疲労感が、彼女の心と体を包み込んでいた。
だが、その疲労感は、決して不快なものではなかった。
むしろ、何か大きな仕事を成し遂げた後のような、心地よい重み。
そして、彼女の心の奥底には、これまでとは明らかに違う感情が芽生え始めていた。
それは、漠然とした「責任感」とでも言うべきもの。
そして、この星と、そこに生きる名も知らぬ誰かのために、自分の力を使えたことへの、ほんの小さな、しかし確かな「誇り」のようなものだった。
ふと、朔は自室の姿見に目をやった。
そこに映っていたのは、見慣れた自分のはずだった。だが、何かが違う。
髪の色が、以前よりもほんの少しだけ銀色がかって見えるような気がする。そして、瞳の奥には、まるで宇宙の星々を映したかのような、深い輝きが宿っている。
顔立ちは、まだ幼さを残しているものの、その表情には、以前の無気力さや人間不信の影はなく、代わりに、静かな自信と、そして全てを見通すかのような、慈愛と決断力に満ちたまなざしが宿っていた。
それは、もはや単なる「引きこもりの少女」ではなく、何か人間を超越した、神々しいオーラを放つ存在へと、彼女が変貌しつつあることを示唆していた。
ひとりぼっちの最終防衛線は、今、その意味合いを大きく変えようとしていた。
彼女はもはや、ただ自分の聖域を守るだけの存在ではない。
この星の、そしてそこに生きる全ての生命の、最後の希望。
月詠朔の、「神」としての最初の戦いは、こうして静かに、しかし圧倒的な形で、その幕を開けたのだった。




