第四話:最初のトリガー(前編)
(――間に合え!)
その一心だった。朔の指が、ほとんど無意識のうちにトリガーにかかる。
ゴーグルに表示されていた、淡い緑色のレティクル(照準)が、子供に飛びかかろうとするラビットの頭部に吸い付くように重なった。
一瞬の静寂。風の音だけが耳をかすめる。
そして、引き金を引いた。
ズドン、という重低音が響き渡った。それは警官たちが使っていた拳銃の乾いた音とは明らかに違う、腹の底に響くような衝撃波を伴う音だった。ライフルの反動が肩にガツンと来るが、不思議と体勢は崩れない。スーツが衝撃を吸収しているのか、あるいはアドレナリンのせいか。
眼下。
子供に襲いかかろうとしていたラビットの頭部が、文字通り「弾け飛んだ」。黒い体液のようなものを撒き散らし、その場で動きを止める。
一瞬の出来事だった。
「え……?」
朔自身が、その威力に驚愕していた。
これが、自分が放った一撃? まるで映画のワンシーンだ。
だが、感傷に浸っている暇はない。周囲には、まだ無数のラビットが蠢いている。
『対象排除を確認。継続を推奨』
再び、脳内に冷たい「感覚」。しかし、今度はそれに微かな「肯定」のような響きが混じっている気がした。
子供は呆然とその場に座り込んでいる。その母親らしき女性が駆け寄り、泣きながら子供を抱きしめるのが見えた。
その光景が、朔の胸にチクリとした何かを残す。
(私が……助けた?)
実感はまだない。ただ、目の前の脅威を排除しなければ、という強迫観念にも似た感情が、彼女を突き動かしていた。
次の瞬間、朔は冷静さを取り戻していた。いや、取り戻したというよりは、彼女の中に元々あった冷徹な合理性が、この非日常的な状況に適応し始めたと言った方が正しいかもしれない。
(一体ずつ確実に。頭部を狙えば一撃。弾数は……不明。だが、無駄弾は避けるべき)
瞬時に状況を分析し、次のターゲットを探す。
ゴーグルの視界は、まるで高性能な望遠レンズのように、地上の様子を鮮明に捉えていた。ラビットたちの動き、人々の逃げる方向、遮蔽物の位置。それらが、まるでパズルのピースのように頭の中で組み合わさっていく。
最も効率よく、最も安全に、脅威を排除できるルート。
朔は再びライフルを構えた。
今度は、より落ち着いて。
風向き、距離、ラビットの移動予測。それらを無意識のうちに計算し、トリガーを引く。
ズドン。
また一匹、ラビットが動きを止める。
そこからは、まるで精密機械のような作業だった。
一発、また一発と、的確にラビットたちの頭部を撃ち抜いていく。
最初は数匹を仕留めるのがやっとだったが、徐々にその精度と速度は増していった。
まるで、このために生まれてきたかのように、彼女の体はこの戦闘行為に順応していく。
屋上という絶対的な高所からの狙撃。
ラビットたちは、どこから攻撃されているのか全く気付いていない様子だった。仲間が次々と倒れていくことに混乱し、動きが鈍る。それが、朔にとってはさらなる好機となった。
(面白い……)
ふと、そんな不謹慎な感想が心に浮かんだ。
意味もなくネットの海を漂い、退屈な情報をクリックするだけの日常とは違う。
明確な「敵」がいて、明確な「目的」があり、そして、自分の力が明確な「結果」を生む。
それは、彼女が今まで感じたことのない種類の手応えだった。
人間不信の彼女が、皮肉にも、見ず知らずの他人を守るという行為の中で、強烈な自己肯定感のようなものを感じ始めていた。
地上の混乱は続いていたが、明らかにラビットの数は減り始めていた。
警官たちも、どこからか飛んでくる強力な援護射撃に気づいたのか、一時的に後退し、負傷者の救護にあたっている。彼らの視線が、時折、空を見上げているのが分かった。
(まだだ。まだ終わらない)
朔の集中力は途切れなかった。
彼女は、このマンションの屋上から、たった一人で、眼下の戦場の流れを変えつつあった。
その顔には、もはや戸惑いの色はなく、ただひたすらにターゲットを見据える、冷徹な狩人の表情が浮かんでいた。