第七話:新たな契約と小さな報酬(そして笑顔)
小野寺拓海との、見えない糸を通じた交渉は、数日間に及んだ。
それは、国家の体面と、一人の「名無しの守り人」の要求が真正面からぶつかり合う、前代未聞の綱引きだった。
小野寺は、政府内の強硬派を説得し、予算を確保し、そして何よりも、朔の提示する「落としどころ」を探るために、文字通り不眠不休で奔走した。
一方の朔は、自室の「聖域」から一歩も出ることなく、ただ冷静に、そして時には皮肉めいたメールで、小野寺の提案を吟味し、修正を加えていく。
そして、ついに、双方が(少なくとも表向きは)納得できる形で、新たな「契約」が締結された。
その内容は、概ね朔の要求通りだったが、彼女の正体を特定できるような情報は一切含まれていなかった。
1.「名無しの守り人(仮)」が現在居住しているとされる〇〇市南々東エリア内の特定の住居(具体的な番地等は非公開)に対し、政府は、その賃料相当額を含む「エリア維持協力金」を、今後永続的に、守り人が指定する完全に匿名化された暗号資産ウォレット、あるいはそれに類する追跡不可能な口座に毎月振り込むこと。これにより、守り人の居住に関する一切の経済的負担は解消されるものとする。
2.全国規模での「怪異災害孤児支援基金」が設立され、その運営と施設の建設は、政府主導のもと、透明性の高い形で行われる。初期予算として、相当額の国費が投入される。
3.「名無しの守り人(仮)」に対し、「〇〇市南々東エリア及びその周辺地域の特別防衛委託費」として、上記1の協力金とは別に、彼女が同じく指定する匿名口座に、毎月、国家予算から見れば微々たるものだが、個人にとっては天文学的な額の金銭が振り込まれる。
4.政府は、いかなる手段を用いても「名無しの守り人(仮)」の正体を特定しようと試みたり、その私生活に干渉したりしないことを固く誓約する。この誓約が破られた場合、守り人は一切の防衛活動を即時停止し、その結果生じるいかなる事態に対しても責任を負わない。
「……ふぅ。まあ、こんなものかな」
朔は、小野寺から送られてきた最終合意文書(もちろん、全て電子データで、物理的な署名は存在しない。あるのは、双方の合意を示す暗号化された電子署名のみ)を確認し、小さく息をついた。
家賃問題は解決し、それどころか、予期せぬ「スーパー収益」まで手に入れた。その額は、彼女が一生遊んで暮らしても使い切れないほどだ。
これで、もう生活費の心配など微塵もすることなく、思う存分、自分の「研究」と「趣味」に没頭できる。
(……軍事費レベル、か。まあ、街ごと護るんだから、当然の対価だよね)
朔の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。
それは、高難易度クエストをクリアし、莫大な報酬とレアアイテムを手に入れたゲーマーが見せるような、純粋な達成感と喜びに満ちた笑顔だった。
引きこもりの天才少女が、国家を相手に仕掛けたパワーゲームは、彼女の完全勝利に終わったのだ。
そして、数週間後。
朔の元には、小野寺から、いくつかの報告書と、そして一枚の写真が添付されたメールが届いた。
報告書には、「怪異災害孤児支援基金」の設立状況や、最初の支援施設が〇〇市内に建設され始めていることなどが、詳細に記されていた。
そして、添付されていた写真は、その仮設の支援施設で、数人の孤児たちが、ボランティアらしき大人たちに囲まれ、ほんの少しだけだが、笑顔を見せているものだった。
その写真を見た瞬間、朔の胸の奥が、またチクリと、しかし今度は温かい何かが込み上げてくるような、不思議な感覚に包まれた。
(……別に、私がやったわけじゃない。ただ、面倒な交渉のついでに、条件に入れただけだ)
そう自分に言い聞かせながらも、彼女は、その子供たちの笑顔の写真を、しばらくの間、じっと見つめていた。
そして、無意識のうちに、自分の口元も、ほんの少しだけ綻んでいることに気づいた。
その日の夜、朔は小野寺に、短い返信メールを送った。
『件名:Re: ご報告ありがとうございます
小野寺様
報告、拝見しました。
迅速かつ誠実なご対応、感謝いたします。
孤児支援の件、引き続きよろしくお願いいたします。あれは、私が提示した条件の中でも、最も重要なものですので。
さて、今後の防衛に関してですが、約束通り、当面は〇〇市南々東エリア及びその周辺地域の安全確保を最優先といたします。
ただし、ご存知の通り、敵の力も増してきています。私の力も万能ではありません。
万が一、私の力及ばず、このエリアの安全が脅かされるような事態が発生した場合は…その時は、ご容赦ください。まあ、そうならないように、こちらも全力で「準備」は続けますが。
貴殿の立場も理解しております。今後も、貴殿を通じてのみ、連絡を取らせていただきます。
くれぐれも、余計な詮索や干渉はなさらぬよう、政府の皆様にもお伝えください。
誓約が破られた場合、どうなるかはお分かりのはずです。
それでは。
名無しの守り人(あなたの隣人より)』
メールを送信し終えた朔は、ふと、窓の外に目をやった。
魔改造された窓は、相変わらず外部の喧騒を完全に遮断している。
だが、その向こう側には、自分が(間接的にではあれ)守り、そして変えようとしている世界が広がっている。
その事実は、彼女の孤独な戦いに、ほんの少しだけ、新しい意味を与え始めているのかもしれない。
(……まあ、どうでもいいか。とりあえず、次の「お客様」が来る前に、新しい「オモチャ」の試運転でもしておこうかな)
朔は、いつものように、アタッシュケースに手を伸ばした。
その顔には、先ほどの子供たちの笑顔とはまた違う、しかし、どこか吹っ切れたような、そして未来への期待感を秘めた、新たな種類の「笑顔」が浮かんでいた。
月詠朔の、そして世界の新たな日常が、今、静かに始まろうとしていた。
「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。また、特定の思想・信条を推奨するものでもありません。」




